loveless

spin

1部

 二人がネットカフェから出たとき、まだ午後三時前だった。およそ三〇分ほどいたことになる。洋は、アツコと横浜駅までの数分の道のりを歩いた。

「髪、メッシュ入れてる?」

 洋は午後の太陽に照らされて光るまばらな赤毛に気づいた。

「……メッシュじゃないけど、白髪を目立たなくするクリーム使ってるの。茶髪になっているところは白髪だね」

 アツコは詳しく説明してくれたが、光を欠いた目の表情に明らかな距離感が表れていた。洋はこの三〇分間でアツコとの関係が決定的に損なわれたことを悟った。


 午後六時からはファミレスでのバイトが入っていた。洋は大学生や高校生に混じって厨房を担当していた。社員は店長を含めて最大で二人であり、今日は店長と三〇代の男性の社員がいた。洋はおよそ三か月前から始めて、週二か週一でシフトを入れていたが、いまだに皿洗い担当だった。新参者は皿洗いと相場が決まっているようだった。

 ファミレスのバイトは、大学生の頃以来だった。当時は、半年しないうちに辞めていたが、そのことは今でも後悔していた。中年になった今、バイトは金銭を稼ぐという本来の目的ではなく、そうした後悔の念に依るところが大きかったが、それだけではなかった。バイトを通じて、社会と関わることもまた洋には重要な要素だった。

 ところが、当時もそうだったが、洋はバイト仲間から距離を置かれていた。それは洋が雑談ができない性質のためだった。結局のところ、それは障害のせいなのかもしれなかった。障害があるかどうかを判断するテストを受けたことはなかったが、自閉スペクトラム症と診断された甥っ子は自分に似ていると思っていた。

「杉村さん、 だし巻き卵作ってみる?」

 洗い物をしているときに店長から声が掛かった。近々新しい人が入ることになっており、洋は皿洗いを卒業できることになっていた。

「はい、是非」

「坂本さん、だし巻き卵の作り方教えてやって」

 坂本美緒さかもとみおはバイト歴二年を超える、女子大生のベテランバイトだった。バイトの中で、ホールも厨房もできる人は彼女しかいなかった。愛想が良く、仕事ができることに加えて、目元がパッチリした可愛らしい顔だった。バイト仲間にも彼女に好意を寄せている男子がいた。

 洋もまた自分が大学生だったら、好きになったのではないかと思った。今でも好きになりそうだった。自分が坂本さんの恋愛相手になることは限りなくゼロに近いが、ともすると年を忘れてしまいそうになる自分がいた。

 教わっていると、料理を取りに来たホール担当の男子大学生・高橋翔たかはししょうの視線を感じた。彼が坂本さんに好意を寄せていることは社員も含めて知れ渡っていた。洋としてはバイト先で恋愛するのはどうかと思っていた。それは当時の自分がバイト先の子に振られて、バイトを辞めていたからだった。


 その日の夜、洋は自宅――1Kの賃貸アパート――でネット配信をした。それは、生配信であり、洋の顔や部屋の一部がリアルタイムで全世界に配信されるものである。そのことに最初こそ緊張したが、今は慣れて何も感じなくなった。また、そうすることで何か実害を被ったこともなかった。それなりの地位のある人が洋と同じ配信をしたならば問題になる可能性はあるが、バイトで妻もいない洋には無問題だった。配信でどれだけ無知を晒そうが、どれだけスケベな動画を流そうが直ちに不利益を被ることはなかった。洋にとって、配信は赤裸々な自分を出せる、貴重なコミュニケーションチャネルになっていた。

 配信開始から三分くらいで数少ない常連の一人のレッドが来た。レッドは、鳥取在住で、ルートセールスの仕事をしている四〇男という情報を開示していた。洋が今日、アツコと昼飲みした後、ネカフェに行き、そこで彼女にしたあれこれを話すと、レッドは〈すごいことするねぇ、スピーノさん〉とコメントした。

〈既婚者にそんなことして、ただで済むと思ってるの。下手したら、訴えられるよ〉

「可能性としては、そうだね。でも、密室で女と二人きりになったら、誰だって同じことするんじゃないかな」

〈でも、56でしょ。そんなBBAにしねーよ〉

「いやいや、年齢は問題ではないよ。でも確かにどこかやっつけというか、ここまで来たんだから、みたいなところはあったけど」

〈会って二回目なんでしょ。スピーノさん焦りすぎだよ〉

「違うな。お互いに目的が同じならすんなり行けたはずなんだよ。ぼくは、彼女が恋愛を求めているという可能性に賭けたんだが、違ったんだろね。相手のことが好きとか、そういう感情はないけど、どこかビジネスライクにヤれるかなと思ったんだよ。相手にもニーズがあるとすればね。でも、きっと彼女はぼくが思っている以上に貞節だったんだろうね」

〈貞節というか。彼女は離婚されたら生きていけないでしょ。だとしたら、そんなリスクの高いことするわけないでしょw〉

「一理あるけど、どうかな。バレるリスクはないでしょ。それでも、罪悪感を抱えることになるかもね。でも分からないな。カラダを求められることはないと思っていたのかな。こっちは、自分に都合よく考えるからね。つまり、会ってくれるということはOKという意味だって」

 ややあって、レッドのコメントがあった。

〈年齢が年齢だからセックスを求められるなんて想定外だったんじゃないの?〉

「そうかな。最初に会ったときは、すごくめかしこんでて、十分に女を感じたから、相手もその気だったと思ったけど。でも、今日はそうでもなかったんだよな。地味というか」

〈じゃあ、最初に会ったときにあまりいい印象じゃなかったんじゃないの?〉

「そうかな〜、そうでもなかったと思うけどな」

〈だったら、最初に会ってから今日会うまでの間に、何かあったんじゃないの?〉

「それはあり得る。実はYouTubeにアップしている生配信の動画教えたんだ。それ見て失望したという可能性は大いにあり得るね」

〈教えたんかいw そりゃだめだ〉

「やっぱだめだよね」


 配信を終えると、洋はアツコに今日の行いを詫びる内容のLINEを送信した。それは、要するにセクハラだった。最初からヤるつもりで、デートして、二人きりになるところまでは来た。それでも、たまたまそうなったというだけで、彼女はそうした意志がないことを最初にキスしようとしたときに示したのだった。そこで引き返せばよかったのだが、強く拒否されたわけではなかったので、押せば行けるのではないかという思いがあった。洋は、自分が性欲に支配されていることを認めざるを得なかった。はたと、若かりし頃の苦い過去が蘇った。一九歳の頃、幼なじみの同級生、青柳美穂をレイプしたことがあった。今回はレイプまでは行かなかったものの、やはりその三〇分間は人生の黒歴史に属する時間だった。一体自分は何をしているのか、と自己嫌悪に陥った。自分は美穂と和解したいのではなかったのか? そのために、わざわざ伸也に相談しておきながら、何をやっているのか? これでは伸也にも泥を塗ることになるのではないだろうか? いよいよ彼からも愛想をつかされるかもしれない。

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