85.一歩一歩近づいてきた時、高揚感を感じないのなら諦めた方が良い。

一歩一歩近づいてきた時、高揚感を感じないのなら諦めた方が良い。

例え、それがどれだけ悲願であったとしても、高揚感が無ければきっと駄目。

多少の不安ならまだいい、次への期待が有耶無耶なままであれば、きっと後悔する。


「早起き、ですね」


オレンジ色だと思っていた空は、実際には、青い空で変わりなかった。

何時ものように起きて、何となく、丘の上まで1人散歩に出て、色味の変わった世界を眺めていた私の元に、八沙がやって来る。


「習慣だよ」


傍まで来て、眠たげに目を擦る八沙。

元々、早起きが得意な方では無いから、この時間は眠たくてしょうがないはずだ。


「6時過ぎ位だよね」

「ん…そう、ですね。6時13分です」

「今日の夜には戻らないと駄目だよねぇ。生きてたらの話だけど」

「縁起でも無い事言わないでくださいよ」


八沙の言葉に笑みを浮かべると、欠伸が出てきた。

朝の気怠さは、私にも残っている。

だけど、それ以上に、昨日から様変わりした景色が新鮮だった。


「縁起でも無い以前に、死ねないよね。こうなってんだもの」


そう言って、腕を伸ばして和服の袖を捲る。

何時も以上に青白くなった肌、その腕には"埋め込まれた呪符"が刺青の様…

八沙に埋め込まれた"黄色い呪符"、その呪符が、私を更に妖に近づけていた。


「帰ったらすぐに剥がしますからね」

「お願い。でも、こんなに変わるんだ」

「僕には分かりませんが、前まではどう見えていたんですか?」

「昔のさ、暗い感じの絵巻に出てきそうな色合い?空はオレンジ色で」

「んー。良く分からないです」

「地獄の様子を描いた昔の絵の色合いさ」

「あぁ。何となく、想像できました。人にはそう見えますか」


柵に手をあてて、眼下の景色を眺める八沙。

彼の目線を追ってみると、朝の妖達が動き出したところが丁度見えた。


「防人もさ、妖を目の敵にしている割に、何でこういうところを作ったのかね」

「どうでしょう。結局は人の真似事をさせてますし。時代劇みたいでしょう?」

「そう思った」

「昔からあるんですよ。完全に消せない事くらい、大昔から分かってたでしょうし」


八沙は徐々に眠気を覚ましていく。

彼の横顔を見てみれば、徐々に鋭い目付きに色が付き始めていた。


「明治時代の終わりには出来てたんです。僕も、入舸とやり合ってた時には何度かぶち込まれかけたんですけどね」


何気ない所から始まった昔話。

半分ほど口を開けて黙っていると、八沙は砕けた笑みを口元に浮かべた。


「元々は、"現実"にいた天狗や鬼を"隠す"先だったみたいです。日本中にいる妖をここに隠して管理する場所だった」

「それ位、防人なら簡単に出来たはずだよね。"隠す先"は使い手次第で変わるだろうけど、呪符次第でどうにでもなるし」

「はい。でも、問題が1つあったんです」

「問題?」

「妖を減らしたところで、人が妖になるんですよ。減った分だけ増えるんです」


八沙はそう言うと、私の方に振り向く。


「どんな仕組みか知りませんけど。昭和の始めに人が妖になる事が増えて、結局、この"異境"もちょっと荒れ果てて…暫くしてから、目的を"隠す"所から"情報収集"の場に変えて色々整備して、今に至るんです」

「へぇ」

「それ位の頃には、時代が凄く進みましたし、僕達も落ち着いた頃でしたから、仲が悪いままくっ付くだけくっ付いて、有耶無耶な関係になりました」


そう言って景色に背を向けて、柵に寄り掛かる八沙。

私は景色を眺めたまま、口元に浮かべた笑みを消さなかった。


「さっくりしてたけど、昔話も偶には良いかもね」

「血の匂いしかしませんよ?」

「想像つくよ。おばあちゃんと偶にピリ付くものね」

「沙千様とですか。それはもう。沙月様位の年頃は斬り合う仲だったので」


あっけらかんとした口調で言った八沙。

唖然とした顔で彼の方に顔を向けたが、冗談を言っている様には見えない。


「沙雪様の頃ですよ。僕達が本当に落ち着いたのは。この格好も、沙雪様の時から、成長に合わせて変えてます」

「それは、昔から私の対みたいな格好してたから知ってたけど。なんか、こっちに来て楽しそうに見えるのは気のせい?」

「こっちに来れば、僕も少し、空気にあてられるんですよね」

「やっぱ、妖の棲み処ってこと。私もさ、最初は嫌だったけど、今はなんか空気が合ってる気がするもの」

「ァハハ…それはいけませんね。人じゃないと、防人は」


乾いた笑い。

そのまま、彼の顔は急に翳りを見せる。

八沙は、私をじっと見つめると、私の頭に手を伸ばしてきた。


「わ!」


わしゃ!っと掴まれたのは、モフモフの狐耳。

余り気にならなかったが、意識してみると、妙にくすぐったい。


「こんな狐耳、生やしたまま本家に戻ったら、入舸の人間は皆帰れませんよ」

「八沙、どうしたのさ」

「いえ。何となくの雑談だったつもりなのですが、ちょっと失敗したのかなと」

「失敗?」


純粋な問い。

八沙は一瞬黙り込むと、私から目を逸らし、再びこちらに目を向けた。


「ここまで妖になってしまったのですから、沙月様が、また、人と妖の境界で悩む種が増えてしまうな…と」

「なんだ。そういうこと」


気まずそうな八沙に、私は苦笑いを返す。


「元より妖寄りだと思っています。沙月様は。でも、立場上は人で無くてはならないはずです。それに、今のまま、元に戻ったら」

「八沙、大丈夫だよ」


これ以上後悔が積み重なる前に、八沙を止めた。


「どっち側かだなんて、この程度で変わるもんか。どっちにも成れるんだからさ」


耳を掴んでいた八沙の手を掴みあげて、手を胸元まで持ってくる。

くすぐったい感覚が消えて、ひょこっと耳が動いた。


「八沙が悩む事でもあるまいさ。私の問題。多分、死ぬまでグダグダ言ってるでしょうよ」


そう言うと、腰に下げた刀に手をあてる。


「行こう。仕事だ」


八沙に向けたのは、仕事の時に向ける顔。

八沙は、その顔を向けられて、曖昧だった顔を引き締めた。


「承知しました」


碁盤の目の街を見下ろせる展望台を後にする。

耳元、耳に被せた髪を上げて耳に引っ掛ける。

左耳の裏側、妖と化しても残っている刺青に手をあてると、指先に妖の妖力を感じた。


「今日の祭りは、賑やかになりそうだ」

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