70.何もしなくていいのなら、余計なことに手を出すものじゃない。
何もしなくていいのなら、余計なことに手を出すものじゃない。
特に、この先に何かが控えているなら尚更だ。
余計なことに手を出して、やる事を増やして、わざわざ自分を圧迫する事もないだろうさ。
「いい湯でしたーっと」
銭湯から帰って来て荷物を隅に置いて、部屋の隅の、丸い窓の窓枠に腰かける。
外の景色はすっかり夜になっていて、藍色の空が眼下の碁盤の目を暗く包み込んでいた。
「明日で見つからなかったら、"ゴノヤカタ"の情報だけ渡して終わりにするか」
モトは昨日までと同じ位置に座ると、そう言って狐面をテーブルの上に置く。
「そうしよう。明後日もってなって、伸びたら北海道に帰れない」
「そこまで粘る必要もないだろうしな。指示から考えて」
「もう十分、働いた」
異境での生活も、3日目になれば随分と慣れたものだ。
現実よりも体馴染みがいい空気。
それに浸ってはいけないと分かっているのだけれど、ついつい浸ってしまう。
「そう言えばさ、この間の銭湯で、鬼の2人は運び屋に会わなかったのかな」
一段落着いた空気の中。
モトの一言が、急に私を現実に引き戻した。
「言われてみれば」
「電気風呂の方、余り居なかったから、妖には人気無いのかね」
「沙絵も八沙も、静電気とかは、理屈を知った今でもビビるから。そういうのあるのかな」
そう言って窓枠から降りた私は、モトの向かい側の椅子に腰かける。
「ここの妖に当てはまるかは、分からないけどさ」
「もし、見つけてたとしたら、多分、教えてくれるよな」
「だと思うけど。結構広かったから、単純に見てないだけかもしれない。背が高くて目立つって言っても、あの湯気の中だもの」
「考えすぎか」
モトはそう言うと、テーブルに頬杖を付く。
一瞬、真面目になった空気が再び元に戻った。
「それよりも、朝襲ってきた連中の方が気になるよ」
「だよな。結局、帰りがけに奉行所寄っても手掛かりなしだったもんな」
「立場も無い妖だったものね。"居ない"奴に時間は割かない…か」
「にしてもよ、行った段階で、"モウ、ケシタ"だなんて言われりゃ驚くわな」
「それね。ちょっと彼らも怪しく見えてきちゃう。しょうがないんだけどさ」
闇に染まった街を窓の外に見て、ほんの少し薄暗い部屋を見回す。
白い壁にはシミ一つなく、青いカーペットは十分な起毛で踏み心地が良い。
天井にも、余計な隙間は一切無く、この空間だけ、"現実"みたいにかっちりしていた。
「大丈夫だよ。防音もしっかりしてる」
「そうみたい」
モトに言われて、彼の方に顔を戻す私。
彼の顔をジッと見つめてみると、目の下に、微かに隈が見えた。
「隈できてる。夜更かしは、してないのにね」
「そうか?…やっぱ、疲れてんのかな」
「そりゃぁね。こんな所に居て平気な方がどうかしてる」
「平気そうな奴に言われてもな」
「いや、私もだよ。あの銭湯の中だけは変になるし。未だって、少しフワフワしてる」
顔に手を当てて、顔の傷をそっとなぞる。
明らかに、ここに来る前よりも、傷が深くなっている様な気がした。
「私もまだ人だった!」
「嬉しそうに言うなよ。ちゃんと人だ」
「でも、そろそろ、怪しくなってくる頃合いだ」
お道化て、突っ込まれて、声を潜める。
モトはそんな私を見て、少し怪訝な目をこちらに向けた。
「銭湯とか。沢山の妖に囲まれて、妖気にあてられれば、ちょっと怪しいな。なんか、毎日言ってる気がするけれど。モト、このままならここでの生活を当分止めないだろうから。忠告のつもりだと思って、聞いててよ」
そう言って、机の横に置いていた品々をテーブルに載せる。
モトの視線は、今日の昼過ぎに手にした刀に向けられた。
「こういう刀とかさ。終わったら、本家の部屋にでも置こうかと思ったけど。駄目さ」
「それからも妖力が?」
「何も感じない?」
「いや、別に」
「そう。これも、持っていれば、やがて妖気にあてられる。手に馴染む訳さ」
手にしたのは、オマケで付いてきた短刀。
鞘から刀を抜いて、独特の波紋を部屋の明かりに照らしてみる。
うねりを、上手く魅せている刀文。
黒に近い鋼のそれに、私の顔が映り込んだ。
「ほら、見てよ」
その姿を確認してから、身を乗り出してモトに刀を見せる。
私と同じように身を乗り出してきたモト。
彼が、刀をじっと見つめて、潜めていた眉を大きく吊り上げるまでに、時間はかからない。
「モトから借りてた刀もそうだったけど。この刀にはちょっとした仕掛けがあるらしい。妖に少しでも近づけば、こうやって、妖になってしまった暁の姿が見えてくる」
黒光りする鋼に映った顔。
それは、狐と鬼の要素が混じった私の顔と、何も変わらないモトの顔だった。
「五寸釘が似合いそうな顔してるな」
見えた顔に、1つ冗談を飛ばしてクスッと笑う。
モトは、釣られて笑わずに、驚いた顔を浮かべたままだった。
「まだ、この前見た時は人だったんだけどな。モトも、今はまだ人だけど、この濃さで、モトの成長具合を考えれば、じきにこうなるってわけさ」
「こうなれば、俺も沙月に近づいたって事か」
「近づくなっての」
そう言ってモトの額をコンと小突く。
「人は人であることに価値がある」
「なんだ。誰かの受け売りか」
「そう。鬼からの受け売り。人から鬼に成り代わった奴だったから、言葉は重いでしょ?」
「まぁな」
「隣の芝生は青いくらいが丁度良いのさ。今回の件が終わったら、暫くは現実でさ、ほら、ライブでも聴きながら…」
間近にある、モトの顔をじっと見据えながらそう言っていた時。
何か、変な音が耳に届いてきた様な気がした。
「ん?」
静寂を保てる部屋の中。
音ではない、変な振動が窓に伝っている。
その振動は、リズムを刻んでいて、そのリズムは、明らかにこの異境のリズムではない。
「窓、開くの?これ」
「ああ」
私達は話を切り上げて、窓の方に近づいた。
モトは窓をクイっと回してロックを外すと、下側を押して窓を開ける。
真ん中を視点にクルリと回るようにして開いた窓。
振動だったそのリズムは、聞き馴染みのある楽器の音だった。
「ギターだ…このリフ、聴いた事あるぞ…ダンダンの、ギターだ」
モトの一言、私は苦虫を潰した様な顔を浮かべる。
「縁っていうの?こういう時に発揮されなくたっても良いのにさ」
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