45.肩の荷が軽くなった傍から、何かが降りかかってくるものだ。
肩の荷が軽くなった傍から、何かが降りかかってくるものだ。
せっかく、大変な思いをして乗り越えたのに、そこから新しいものが降ってくる。
少しくらいは、立ち止まったって良いだろうと思っても、立ち止まっちゃ駄目なのだ。
「やっぱ、少し鈍ってるんじゃねぇのか?」
八沙の声に、奥歯を噛み締める。
雪解け、春っぽさも感じるようになってきた3月末の平日の真昼間。
ジャージに身を包んで、八沙の家に作られた道場で汗を流していた。
「ハッ…仕方がないでしょ」
受験が終わってから、ずっと泊まり込み。
朝からずっと体を動かし、体を鍛え、体力を戻し、"勘"を取り戻して、次の高みを目指す。
脳裏には、最近は夢に出てこなくなった、骸の姿がボンヤリと浮かんでいた。
「ちょっと昭和過ぎるんじゃない?このやり方」
顔中汗だくになりながらそう言うと、対峙相手の八沙は余裕そうな表情を浮かべる。
「生身の人間用に、楽させてもらってるぜ?」
そう言う彼の頬に、何滴か汗が滴っていた。
ジッと彼の様子を伺いつつ、汗に濡れた畳の上の感触を探っていく。
「焦らすねぇ」
八沙の煽りを聞き流し、スッと右足を前に出す。
ピクッと反応を見せた八沙、刹那、背後から風を切る音。
直ぐに体を半分捻ってその音をやり過ごす。
「ちぇ!」
背後から振るわれた腕を流し、そのまま腕を引っ張り足を掃う。
道場の畳が、良い音で鳴いた。
「ソイツは見えてるんだな?」
「ボンヤリと。靄みたい」
「ヤベェ…」
距離の開いた八沙まで、今度は一気に足を踏み出し手を伸ばす。
喉元、彼の喉元まで突き出た手先は、最後の一歩が届かず空を切り、代わりに彼の手がそれを捻り上げた。
そのまま体が1回転。
クルっと回って、彼の足が私の腹部を突き刺す。
一瞬で肺の空気が全部出て、浮き上がった体はそのまま畳の上へ墜ちていった。
うつ伏せ、直ぐに体を回転させて仰向けに。
眼前に迫って来た彼の踵を寸での所で交わして、転がって距離を取って、ヒョイと飛び跳ね起き上がる。
「案外、打たれ強いよな」
「へっへっっへ。八沙相手に全部"素"のままな訳は無いでしょうよ」
そう言ってジャージのチャックを開けて見せた。
汗に濡れたジャージの裏側、黒インキに濡れた呪符がびっしりと貼り付けられている。
彼はそれを見て、流石に口元を引きつらせた。
「なんだ、もうちょい本気で良いのかよぉ」
「腹を打ち抜かれなきゃ、セーフさ」
チャックを閉めて、再び彼の懐へ。
今度は彼を叩こうとせず、ヒュッと掌を"見せて"引く。
少し上がった目線の下、左足の指先まで使って背伸びして、思いっきり右足を喉元に突き刺した。
久しぶりの実戦形式。
無茶な動きをしたせいで、微かに筋が痛んで骨が軋む。
それでも、交わしきれずに喉に食い込んでいく足先の感触に、ニヤけた顔を晒しながら、そのまま勢いで押し込んだ。
「ヒュー」
受け流されたと言えど、それなりのクリーンヒットだったはず。
だが、八沙は、少し離れた所で、まだ2本足で立っている。
さっきよりも汗の量が増えたようだが、まだまだ余裕だろう。
「その力は"素"か?」
「護る方の呪符だけで一杯一杯だね」
「はぁ、効いたぜ。目覚ましにゃ良いもんさ」
かれこれ、組み手を始めて1時間。
延々と技をかけては寸でのところで受け流す事を繰り返し、私の足は、そろそろ震えだしてくる頃合いだ。
「どうする?まだやるか?」
「せめて、1回は沈ませてや…」
"ゥゥゥウウウウウウウウウウウウーーーーーーーーーーーーー"
売り言葉に買い言葉。
ちょっと楽しくなってきた頃。
私達の会話を、12時のサイレンが遮った。
「間の悪い」
気の抜ける、野太いサイレン。
フッと力が抜けた私は、そのまま背中側に倒れ込んだ。
バタン!と倒れて、体に纏わりついた汗が宙に浮き、直ぐ私に降り注ぐ。
「あー、キツいわー」
すっかり気が抜けてしまった。
手を上に伸ばすと、八沙がこちらに寄ってきて、グイっと強引に立たされる。
「はえーとこ、着替えてこい。今日は、ここまでにすっから」
「あれ、午後は無し?」
「沙月ぃ、今日は何の日か忘れてるべ?」
そう言いつつ、雑にタオルを掛けられる。
乾いていて、洗剤の匂いが心地よいそれに顔を埋めている間に、ハッと思い出した。
「そっか、合格発表。2時からだっけ?」
「そうだー。風呂入って、着替えて、出ねぇと遅れるぞ」
汗を拭いつつ、道場の外に出る。
暖房も効いていない、古い建物の廊下。
白い息が吐けるほどに寒く、汗に濡れた体は一瞬のうちに震えだした。
「寒っ!」
「そーら、サッサと風呂場行けぇ。湯は沸いてっからよ」
「ありがと」
小走りで廊下を駆け抜け、脱衣所の扉を開けて中に入る。
木の扉、少し湿っぽい以外で寒いのは変わらない。
タオルは手ぬぐい代わりにするとして、パッとジャージを脱いで風呂場に飛び込む。
寒さは相変わらずだが、だからと言って熱すぎる湯舟にはまだ入れない。
シャワーを出して汗を流し、髪と体を洗って、更にシャワーの温度を上げて、十分に暖めてから湯船に浸かった。
「あぁ~……」
凄く熱いお風呂。
昔から、この家のお決まりだったからもう慣れた事だが、散々体を動かした後には、この熱さが良く効くのだ。
「自己採点じゃ受かってるはずだけど。やっぱ不安だよなぁ~」
狭く、天井の高い風呂場で独り言。
古びた風景の中で、私の声は良く響いた。
「あ…着替え、部屋に忘れてきてら……」
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