最終話

「どうしたの?」


 背後から声をかけられ、優希は我に返った。


 慌てて涙を拭い、振り返ると、奥野愛がにこやかに立っていた。


 優希の方へゆっくり歩み寄り、


「子供たちが心配してるわ、優希ちゃんがおかしいって」


「私は彼を裏切りました」


「彼、修兵くん?」


「私、彼を止められませんでした。それどころか、警察にまで……」


「それを彼が望んだのでしょう?」


 愛にはすべてがわかっているようだった。


「修兵くんは長い間、怒りと憎しみだけが支配する暗い世界を、ひとりぼっちで生きてきたのよ。今やっと、希望を見つけたんだわ。彼が命を賭けてまで足を洗おうとしているのは、誰のためかしら?」


「……」


「だから、私は悲しまないの。今度会う時には、きっと希望に満ちた新しい笑顔で会えるに違いないって信じているから。ね?」


 優希はまた溢れ出そうとする涙を拭い、そっと微笑んだ。


「駄目ですね、私。泣いてばかりで……」


「ねえ」


 愛はまたにっこりして、


「あなたは子供たちの太陽よ。みんなあなたが大好きなの。しょぼくれた顔をしてちゃ駄目!」


 優希はやっと思い出した。


 ああ、この笑顔に憧れて教師になったのだ。


 そう思った。


「はい、先生」


 優希は肯いた。


「頑張ります、私。暗い顔をして、修兵くんに嫌われたくないから」


 急に声をひそめ、愛は彼女の耳元へ顔を寄せて囁いた。


「その点については安心ね。彼、あなたにメロメロよ」


 優希の頬が薔薇のように赤らんだ。


 愛は朗らかに笑った。


 つられて優希も笑った。


 やがて、愛は優希の肩を優しく抱いて言った。


「さあ、そろそろ戻りましょう。みんな待っているわ。その笑顔を見せてあげて」


「はい」


 二人は歩き出した。


 優希は出口のところでいったん立ち止まり、最後に一度だけ十字架にかけられたイエスの像を見つめると、あとはもう振り返らず、愛と並んで出て行った。     

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恩讐の街 令狐冲三 @houshyo

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