深慮の道

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深慮の道

先生は「これ以上遅刻や欠席が続けば卒業ができない」と言った。勉強が苦手だからそれでいいと思った。だから、今日も深慮の道とやらを歩くのは僕一人だったし、夏の陽光と陰影が木々に楔を打って僕が欠伸をすれば、小川の揺蕩が蝉の騒めきと一緒によく聞こえた。

 先生がいつか、深慮の道の名の由来について「君たちという新緑が武蔵野の深緑に囲まれ、大いに深慮して欲しい、という意味を込めて、あの通学路は深慮の道と名付けられたんだ。歩きスマホはいけないよ。木の根が広がっているから」と話していた。僕がちゃんと学校に通っていた時には深慮の道にたくさんの学生がいたが、彼らが深慮しているようには見えなかった。むしろ彼らは浅薄であり、遅刻してただ一人歩く僕のほうがよっぽど深慮しているのに、卒業できないとはひどい。歩むにつれてだんだん腹が立ってくると、昨日の雨でぬかるんだ土に滑って倒れズボンを汚した。けがはなかったが、怒りも呆れに代わって心が折れ学校に行くのを止め、すぐに帰るのも気がまずいから散歩することにした

 K駅から少し歩き、深慮の道から森に入って少し進むと学校がある。深慮の道は学校を過ぎた先までまだまだ続いていて、その先に広がる森の奥を見ると、陰る木立が妖艶なまなざしを返す。その蠱惑へと進むことにした。道の右手に盤踞するモダンティックな校舎をかたくなに拒んでずんずん進めば進むほど緑は深くなり、クヌギが樹液で黒ずんだ。道を進むにつれて鬱蒼となっていく森を感じながら、なぜ今までこの道を拒否していたのかと思索する。思い返せば何か怖かった。僕はこの森閑とした木々に畏怖を感じていた。

 深慮の道は延々と続く。眼前に広がる森の様相は全く変わらず、もし深慮の道を定義するロープの内側に木が生えていなければ、自分が進んでいるかすら分からなかっただろう。木は道の右側や左側、時には中央に生えており、それを避けることでのみ、道を進んでいることがわかる。けれど、どこまで進んだのかは教えてくれない。この道に終わりがあるのか、あるとして、あとどのぐらい進めばいいのかわからない。何度か引き返そうかと逡巡したが、僕の体は進むことを止めない。森がが風に靡いて葉叢のこすれる音が聞こえる。蝉が騒めきスズメが囀る。陰影の中にぽつんぽつんと陽光の落ちる音。

 そんな森の奥に人影を認めて、私は狼狽して鼓動が早くなった。あの闇から這い出てる人間の得体の知れなさには名状しがたいものがあった。互いに近づいてゆくと、姿が明瞭になっていく、茶色の長袖Tシャツには赤色で何かの模様が描かれており、まとまった黒いポニーテールが歩くたびに左右に揺れた。彼女が僕をみとめる視線が恐ろしい。僕は何もないよう祈りながら目をそらした。もうすれ違うか、どうか、と言ったところで、視界の端に映る彼女は僕を呼び止めた。

「ねえ君、すぐそこの学校の生徒でしょ」

「はあ」僕はできるかぎりけんもほろろに答えた。

「もう学校始まってるでしょ。なんでこんなところにいるの」彼女は僕の制服を嘗め回すように見ると、「どうでもいっか」とつぶやいた。僕はぬかるんだ土と汚れた自分の靴とズボンを確かめた。

「ねえ君、どうせなら面白い所に案内してあげるよ」

僕は頭を横に振った。

「すみません。家に帰らなくちゃいけないので」

そういうと彼女は笑った。

「この先に君の家はないよ。小さな集落しかないし、そこに住む人はほとんど知ってるから」自分の顔が赤くなるのが分かった。恐る恐る目を上げると、嫌みのない笑顔の彼女がいた。

「ついてきて」彼女は体を返して道を進んだ。彼女は決して振り返らないようにしつつも、僕の歩幅に合わせて歩くスピードを調節した。彼女が一言も喋らないことが救いだった。いくらかの木を避けて進んでから、彼女は左を指さした。草木が茂っていて、面白いものは見当たらない。

「気を付けてね」彼女はそういうと、道を示すロープを跨いで雑木林に進んでいき、僕もあわててついていくと、どうやら小さな轍があるらしい。轍をほんの少し進めば橋が見えてきた。それは欄干のあるしっかりとした造りの石橋だったが、苔が広がっているところを見るとほとんど使われていないようだ。橋から川を見下ろすと、川自体そこまで深くない。彼女は欄干にもたれると、手招きで僕を呼んだ。「散歩っていいよね。私も好き。誰かが、散歩している途中に迷子になったのなら、それはチャンスだって言ってた。迷子になれば、必ず先に見るべきもの、感ずべき獲物があるってね。私はそれを信じてる。現にこんなきれいな橋に出会えたんだもん」彼女は欄干に体を乗り出して川を眺めた。流水は陽光にはじけて魚影が躍る。

「あれは鯉だよ。いつもここで泳いでいるの」といって、彼女は欄干から体を乗り出すと首を傾げた。

「冬はいなかったかも」と笑う。

「この川はね、もとは飲料水に使われてたんだよ」

 流れる一筋の川の上だけが空に開いていた。

「それでね、太宰治が入水自殺したのもこの川なんだよね」と言った。僕は驚いて

「この橋の下でですか」と尋ねた。

「ううん。もっと遠くだったはず」

鯉が跳ねて水面が揺れた。

「自分語りにつき合わせちゃってごめん。私はそろそろ行くね」

 彼女はそう言って元来た林に消えた。僕は一人で鯉を見る。

 欄干にもたれながら鯉を見ていると、今日のこと、学校のこと、将来のこと、本当にたくさんのことが胸に去来しては、上の空に吸い込まれていった。眼路の端に川岸へと進む狭隘で急勾配な轍がひょろひょろと、カラザのように続いていた。鯉を近くで見よとうと轍を緩やかに下り、足場のほとんどない川岸につくと、無数の鯉が僕のほうへと波を立て集まり、口を開いて、彼女の孤独に餌を求めた。

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