34.終末のウィークエンドシトロン
――たとえば明日世界が滅亡するとして、人生最後の日に何をする?
かつて投げかけられた質問に、当時の胡桃は答えられなかった。それでも今は、迷わず答えることができる。
大切なひとのために、とびきり美味しいお菓子を作りたい。そして彼が淹れてくれた紅茶を飲んで、二人でソファに並んで、大好きな横顔を見つめながら、仲良くお菓子を食べたい。
秋も深まってきた、11月の半ば。仕事が終わった金曜日の夜。ベージュのエプロンをつけてキッチンに立った胡桃は、早速お菓子を作ることにした。とびきり甘党で、中身は甘くない(いや、ほんとは結構甘い)お隣さんのために作るお菓子だ。
今日作るのは、ウィークエンドシトロンと呼ばれるレモン風味のバターケーキだ。フランスでは、週末に大切なひとと食べるケーキらしい。レモン味のグラスアローでコーティングされた爽やかなケーキを、張り切って作るとしよう。
まずはレモンを綺麗に洗って、絞って漉しておく。皮は表面だけをおろし金ですりおろす。飾りに使う皮を少しだけ削いで、細かく刻む。
ポマード状にしたバターとグラニュー糖を白っぽくなるまで混ぜて、卵を少しずつ加える。このとき、一気に入れると分離してしまうので、少しずつ丁寧に馴染ませなければならない。
その中に、ふるっておいた薄力粉、強力粉、アーモンドパウダー、ベーキングパウダーを、全体の二割ほど入れる。レモン汁とレモン皮を加えて、ハンドミキサーで混ぜる。残りの粉を入れて、ゴムベラでさっくり混ぜる。このとき、練らないように注意が必要だ。
生地が完成したら、バターを塗ったパウンド型に入れて、表面をならしてから160℃のオーブンでおよそ45分焼く。焼けたら型から外して、ひっくり返して冷ます。
一晩冷ましたら、ケーキの表面の部分を平らになるようカットする。このカットしたところが一番美味しい部分なのだけれど、これを楽しめるのは作り手の特権だ。味見代わりに一口食べて、胡桃はうんうんと満足げに頷いた。
次に、バターケーキを包むレモンのグラスアローを作る。粉糖にレモン汁を加えて、なめらかになるまで混ぜる。サラサラになりすぎないよう、ホイッパーからゆっくり流れ落ちるぐらいまで。
網に乗せたケーキの上からグラスアローを掛けて、すべての面に行き渡るよう、手早くナイフで落としていく。あまり触りすぎるとムラができてしまうので、手早く繊細な作業が必要だ。
固まってしまう前に、飾り用のレモン皮とピスタチオを乗せる。しばらく置いて、グラスアローがしっかり固まったら、大切な人と食べるウィークエンドシトロンの完成だ。
胡桃は秋らしいカーキ色のニットに、チェックのロングスカートに着替えて、きちんとお化粧をしてから、ウィークエンドシトロンを持って隣の部屋へと向かう。ウキウキとインターホンを押すと、ややあって、締切前で死にそうな顔の男が顔を出した。
「さ、佐久間さん。大丈夫?」
「……全然、大丈夫じゃない。もう、こんなろくでもない世界は滅ぼすしかない……」
「ちょ、ちょっと待って。お菓子作ってきたから、踏みとどまってください」
「おお……! ウィークエンドか。レモンの香りが芳しいな」
胡桃が皿に乗ったケーキを差し出すと、死人のようだった佐久間の表情にみるみる生気が宿っていく。ウキウキと皿を受け取り、「世界を滅ぼすのは、きみとお菓子を食べてからにしよう」と軽やかな足取りでキッチンへと向かった。
ハンドメイドマルシェが終わった途端、先日発売された連作短編の続刊が決まり、佐久間は絶賛原稿中である。めでたいことなのだが、彼は「あの結末からどうやって続きを書けというんだ」と頭を抱えている。
佐久間は毎日部屋に閉じこもって、必死の形相でキーボードを叩いている。せっかく晴れて両想いになれたというのに、デートに行く暇もない。それでも胡桃は日々せっせとお菓子を作って、彼の元へと足繁く通っていた。以前から劇的に関係が変化したわけではないが、胡桃は充分幸せだ。
キッチンで紅茶を淹れる佐久間に向かって、胡桃は尋ねた。
「佐久間さん、進捗良くないの?」
「最悪だ。締切一週間前なのに、最初から全部書き直したくなっている。このまま完成させても、どう考えても面白くならない」
「そ、そんなことないですよ。佐久間さんの書くものは全部面白いです」
「……それより。きみは、今日は実家に帰らなくてもいいのか」
「はい、お父さんが、知り合いの結婚式に行ってるんだって。だから特訓はお休みです」
胡桃はウィークエンドシトロンをカットし、アンティークの花柄の皿の上に乗せる。紅茶を入れた佐久間が、皿と揃いのティーセットを持ってきた。
「ニルギリのストレートだ。上質なニルギリには柑橘系の香りもあり、みずみずしく爽やかな味わいがレモンのケーキにぴったり合うだろう」
「わ、いいですね! それじゃ、いただきまーす」
「いただきます」
胡桃と佐久間はリビングのソファに並んで腰を下ろすと、揃って両手を合わせた。佐久間はケーキをフォークで切り分けて、ぱくりと頬張る。じっくりと噛み締めるように目を閉じた佐久間が、「素晴らしい……」と呟いた。
「ケーキそのものの甘さが、レモンの酸味とマッチして、決して酸っぱすぎず絶妙なハーモニーを奏でている。しっとりした口当たりの中に、ふわっとした軽さも感じられる」
「でしょ! 味見もしたんですけど、生地の食感が絶妙に上手くできて。自信作です!」
「きみの作るパウンドケーキは、日々進化していくな……さすが、得意だと豪語するだけのことはある」
「えへへ、ありがとう」
胡桃もフォークを手に取って、ウィークエンドシトロンを一口食べた。口に入れた瞬間に広がるレモンの爽やかな香り、それを追いかけてくるケーキの優しい甘さ。グラスアローのシャリシャリ感と、柔らかい生地の食感も最高だ。
「うんうん、とっても美味しい! 我ながら、上手にできてます!」
「……本当にありがたいな……きみの作ったお菓子を食べるたびに、もう少し頑張ろうという気持ちになれる」
「そうでしょう、そうでしょう。だから、世界を滅ぼすのはやめてくださいね?」
胡桃が顔を覗き込むと、佐久間はぱくりとケーキを食べて、真面目くさった顔で頷く。
「……たしかに。世界が滅んで、きみのお菓子が食べられなくなるのは困るな。考え直そう」
幸せそうにケーキを頬張る男の横顔を見て、胡桃は声を立てて笑った。
信じられないぐらいに、幸せだ。ほんの一年半前の胡桃は、人生最後の恋に破れたと思い込んで、このまま世界が滅亡したらいいのに、だなんて思っていたのに。
「……ねえ、佐久間さん。佐久間さんは、明日世界が滅びるとしたら、人生最後の日に何をしたい?」
すっかりケーキを食べ終えたあとで、胡桃は尋ねた。唐突な質問に、佐久間は「なんだ、藪から棒に」と眉間に皺を寄せる。
「……きみはどうなんだ」
「わたしは、お菓子作りたいです! 何がいいかなあ……うーん、生クリームとイチゴがたっぷり乗った、デコレーションケーキにしようかな。今、ナッペの練習をしてるんです! きれいにするの難しいけど、楽しい!」
中にもたっぷりイチゴを挟んで、上にアイシングクッキーやピンク色のマカロンを乗せても可愛いかもしれない。うっとり妄想をしている胡桃を、佐久間は優しい目で見つめながら言った。
「……それなら、俺の人生最後の日は。生クリームとイチゴがたっぷり乗った、デコレーションケーキを食べているんだろうな」
(それって、つまり。人生最後の日に、わたしの作ったお菓子が食べたい、ってことですよね?)
胡桃は「うれしい」と微笑んで、佐久間の肩に軽くもたれかかる。彼はやや躊躇いを見せつつも、そっと胡桃を抱き寄せてくれた。
耳を押しつけた硬い胸板から、ドクドクという心臓の音が聞こえる。胡桃の背中に回された手には力がこもっていて、ある種の緊張が伝わってきた。
「ねえ、佐久間さん」
「……なんだ」
「……食べたいのは、わたしのお菓子だけ?」
上目遣いにそう尋ねると、佐久間の喉が僅かに動く。
両想いになった今でも、佐久間はいっこうに胡桃に手を出してこない。深夜に二人きりで彼の部屋に居ても、お菓子を食べたら「ごちそうさま。美味かった」と帰されてしまうのだ。胡桃はとっくに覚悟完了していて、準備万端で彼の元を訪れているというのに。
胡桃がじりじりと詰め寄ると、佐久間は少しずつ後退りしていく。もうほとんど、ソファから落ちそうになっている。
「く、胡桃。ちょっと待て」
「佐久間さんは、わたしと……そういうこと、したくない?」
「したくないわけがないだろう! い、いや、しかし、それ目当て、というわけでは……」
「佐久間さんにとってはあんまり魅力がないかもしれないけど、わ、わたし、脱ぐと結構すごくて……」
「それは、脱がなくてもわか……い、いや、違う! そういうことじゃない!」
佐久間はしどろもどろになって、胡桃の両肩を掴んだ。そのまま、半ば強引に引き剥がされる。
「きみの、そういうところは……本当に良くない。もっと、自分を大事にしろ」
「佐久間さんなら大事にしてくれるってわかってるから、言ってるんです」
「も、もちろん、そのつもりはあるが……」
「……」
「い、いずれにせよ、原稿が終わってからだ。今、してしまったら、それどころじゃなくなる」
「……はぁい。わかりました」
胡桃は唇を尖らせ、おとなしく引き下がった。しかし佐久間は胡桃の肩から手を離さず、じっと熱のこもった視線を向けてくる。
「? 佐久間さん、どうかし……」
た、と胡桃が言い終わる前に、頬に何か柔らかなものがぶつかった。ほんの一瞬の出来事に、胡桃は呆然とする。目の前の男は耳まで真っ赤になって、照れ隠しでこちらを睨みつけている。
「…………よ、予約だ」
(……えーっ、そんな可愛いことしちゃいます? 好き!)
あまりの必死さに、胡桃は吹き出してしまった。このひとの不器用さは本当に、可愛くて愛おしい。今すぐ押し倒してしまいたいのをぐっと我慢して、おとなしく目を閉じる。
「ね、佐久間さん。……するなら、ここがいいです」
そう言って人差し指で唇を指すと、佐久間が息を呑む気配がした。ぐ、と肩を掴む手に力がこめられる。
彼の顔がゆっくりと近付いてきて、今にも唇が重なりそうになった――そのときだった。
――……ピンポーン……
「佐久間先生ー! 生きてますよねー!? この野郎、スマホの電源切ってんじゃねえ! さっさと出てきて、進捗教えてくださーい!」
インターホンの音とともに、けたたましい担当編集の声が聞こえてきた。ぱちっと目を開けると、眼前の佐久間は苦虫を潰したような顔をしている。
「……筑波嶺さん、来ちゃいましたね……」
「……くそ、ほんとにあの男は。タイミングが悪い……」
「どうします? 佐久間さんなら裸で寝てます、って追い返してきましょうか」
「……いや、いい。ドアチェーンを掛けているから、10秒ぐらい待たせておけばいい」
佐久間は真剣なまなざしで、「目を閉じてくれ」と囁いてくる。意外と健啖家のこのひとが10秒で済むのかしら、と思いつつ、胡桃はそれに従う。
数秒ののちに初めて触れた甘党男の唇はとびきり甘く、ウィークエンドのレモンの味がした。一瞬軽く触れ合ったあと、噛みつくように再び重ねられる。やっぱりぜんぜん、10秒では足りなさそうだ。
第3部【おとなりさんとのお菓子な関係】終
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