33.幸せのクッキー缶(5)

 彼女の作ったクッキー缶に、ma douce noix ――〝僕の愛しい胡桃〟だなんて名前をつけたのは。ただのくだらない独占欲の発露だった。


 15時半。佐久間は一人自室のソファに座って、ぼんやりと天井を見上げながら煙草を吸っていた。目の前のローテーブルの上には、胡桃が置いて行ったハンドメイドマルシェのチラシがある。

 チラシによると、マルシェの開催は17時まで。もし胡桃のお菓子を買いに行くのなら、そろそろ家を出ないと間に合わない時間だ。


(……いや。もうとっくに、売り切れているかもしれないな……)


 胡桃の作るお菓子が美味しいことは、一度食べればすぐわかるはずだ。初めての出店とはいえ、きっとすぐにファンができるだろう。もう半年もすれば、プロのパティシエとして杏子の店で働くことになる。佐久間はそれを、素直に喜べずにいた。

 胡桃の才能を理解し必要とする人間は、きっとこの世界にたくさんいるはずだ。彼女が新しい世界に羽ばたいていくそのとき、果たして彼女は自分のそばに居てくれるのだろうか。


 ――佐久間さんも……わたしのこと、応援してくれますか……?


 夢に向かって踏み出そうとしている胡桃を、心の底からは応援できない、と思った。佐久間さんのために作ったんですよ、と笑ってくれる彼女のことを、ずっと独り占めしていたかった。


(これからもずっと、お菓子を作ってほしい)

 

 そんな浅ましいことを考えている自分が、彼女に相応しいはずがない。


 短くなった煙草を灰皿に押し付けたところで、スマートフォンが鳴った。ディスプレイを確認すると、担当編集からメールが届いている。なんとなく内容は予想できたが、一応中身を開いてみた。


[胡桃さん、佐久間先生のこと待ってましたよ。めんどくさいことグダグダ考えてないで、さっさと腹括ってください]


 予想通りの文面に、佐久間は顔を顰めた。めんどくさい、とはどういう意味だ。大和にとっては馬鹿げたことでも、佐久間にとってはクリティカルな問題なのである。

 返信もせず無視していると、二通目のメールが届く。[いただきまーす]の文章とともに、画像が添付されていた。胡桃の先輩である爽やかイケメンが、クッキー缶を片手にピースサインをしている。胡桃が彼に惚れていた、という誤解は解けたもの、未だにこの顔を見ると、むかっ腹が立ってくる。

 四角い缶の中には、色も形もバラエティに豊んだクッキーが美しく詰め込まれている。中身はどれも、マルシェの前に佐久間が試食したものばかりだった。

 胡桃はうんうんと頭を抱え、あれこれ試行錯誤しながらクッキーを焼いていた。ガレットブルトンヌも、ブールドネージュも、紅茶のクッキーも、胡桃のキャラメリゼも。彼女の作ったものは、どれもこれもとびきり美味しかった。

 

(……こんなの絶対、美味いに決まってるだろう。どうしても、食べたい……)


 佐久間はガシガシと髪を掻き毟ると、観念してソファから立ち上がった。

 どれだけ意地を張ったところで、彼女のお菓子を食べたい欲求には抗えないのだ。今から着替えて出れば、ギリギリ17時には間に合うだろうか。




 地下鉄に乗って、マルシェの会場である公園に到着した。終了間際のマルシェは閑散としており、出店されていたブースもほとんどが片付けに入っている。もしかすると、胡桃ももう撤収してしまっただろうか。

 この公園には一度、胡桃と二人でクリスマスマーケットにやって来たことがある。リンゴの入ったグリューワインを飲んで、シュトーレンを食べて、アイシングクッキーを購入した。自分の隣をニコニコと歩く彼女の姿を思い出して、なんだかやけに懐かしく感じられた。まだ、一年も経っていないというのに。


 胡桃の姿を探していると、噴水がある広場の近くのテントの下に、彼女が立っているのが見えた。目の前のテーブルは空っぽで、客らしき若い女性と何やら話をしているようだ。少しずつ距離を詰めていくと、女性の声が聞こえてきた。


「……もう……ものっすごく、美味しくて! こんなに美味しいパウンドケーキ食べたことない! って感動しちゃって……」


 どうやら胡桃が作ったお菓子の感想を伝えているようだ。そうだろうそうだろう、と佐久間は誇らしい気持ちで一人頷く。彼女の作るパウンドケーキは、しっとりしている中にもフワッと心地良い食感があり、口の中に広がるバニラとココアの甘さも上品で、それはそれは美味いのだ。


「……ここのクッキー缶なんて、絶対美味しいに決まってるのに……! ああ、ほんとに買っとけばよかった……あたしのバカ〜!」


 どうやら女性は、クッキー缶が売り切れたことを残念がっているらしい。彼女はスイーツ戦争のなんたるかをわかっていない。本当に欲しいのならば、開場前から並んで購入すべきだ。当然、終了間近に訪れた佐久間が言えることではないが。

 そのとき胡桃が、足元の段ボールから四角い缶を取り出して、女性に手渡した。すると女性は飛び上がらんばかりの勢いで、全身から喜びを弾けさせた。


「……おねえさんのお菓子食べた瞬間、ものすごーく幸せな気持ちになって! もうちょっとだけ頑張ってみようかなって、前向きになれたんです! わたし、おねえさんのお菓子に出逢えてよかった! これからも、ずっと応援してます!」


 ……興奮気味に語る女性の言葉を聞いて、大袈裟な、と言う人間もいるかもしれない。しかし佐久間には、彼女の気持ちが痛いほどによくわかった。

 自分が今まで出逢ってきた、幾多のお菓子を思い浮かべてみる。伯母が焼いてくれた紅茶のクッキーも、ko-jiyaのフィナンシェも。甘いものをこよなく愛する佐久間にとって、どれもこれも人生の辛い時期を支えてくれたかけがえのない存在だった。もちろん、胡桃が作ってくれたお菓子も例外ではない。

 糀谷胡桃に出逢えてよかった、と。佐久間もまた、心の底からそう思っているのだ。


(……きっと、これから先。彼女の作るお菓子に救われる人間が、たくさん現れる)


「ううん、こちらこそ。ありがとうございます……!」


 胡桃はそう言うと、心底幸せそうに笑った。周囲をぱあっと明るくする、まるで満開の花のような笑顔だった。

 その表情を見た瞬間、佐久間は驚くほど素直に、彼女の才能が認められたことが嬉しい、と思えた。

 大きく翼を広げた彼女が羽ばたいて、自分を手の届かないところに行ってしまうとしても。佐久間はそれを見上げて、誇らしく思うのだろう。


(俺は。そういう、きみのことが――)

 

 佐久間は一人立ちすくむ彼女の元に歩み寄り、愛しいひとの名前を呼んだ。




「胡桃」


 ふいに名前を呼ばれて、胡桃はつとそちらを向いた。見ると、長袖の白いシャツに細身の黒いパンツを履いた佐久間が、そこに立っていた。

 まだ興奮も冷めやらぬまま、胡桃は「佐久間さんっ!」と佐久間の元へと駆け寄る。抱きつかんばかりの勢いの胡桃を、彼は両肩を掴んでやんわりと押し留めた。


「来てくれたんですね!」

「……遅くなってすまない」

「あのっ、わたし……さっき! わたしの作ったお菓子、美味しいって言ってもらえて……! クッキー缶も、買ってくれたんです!」

「ああ、俺も見ていた」


 佐久間が目元を緩め、唇の端を持ち上げて微笑んだ。そこで胡桃は、佐久間のために取り置きしていたクッキー缶を売ってしまったことを思い出す。ほんの少し、いじけたような気持ちをこめて、胡桃は彼を睨みつける。


「……佐久間さんのぶん、ちゃんと取り置きしてたのに。さっきのお客さんに売っちゃいました。もっと早く来てくれると思ってたのに」

「……そうだな、残念だ。でも……一人でも多くの人間に、きみの作ったお菓子の魅力が伝わったならよかった」


 佐久間はそう言って、胡桃の手を取る。大好きな手に両手を包み込まれて、心臓がどきりと高鳴った。彼はなんだか覚悟を決めたような表情で、ゆっくりと言葉を紡いでいく。


「その、みっともない話なんだが……聞いてくれるか」

「は、はい」

「……俺は……本当は、きみがプロになることを、寂しいと思っていたんだ。きみが自分だけのお菓子屋さん、でなくなってしまうようで」

「えっ」


 胡桃は目を丸くした。まさか、佐久間の「応援できない」という言葉の裏側に、そんな感情が隠されていたなんて。彼は真剣なまなざしで、まっすぐにこちらを見つめている。

 

「しかし今は、きみが夢に向かって羽ばたいていくことが……きみの才能が、きみを必要としているひとに届くことが嬉しい」

「佐久間、さん……」

「かつての俺が、そうだったように……きみの作ったお菓子が、他の誰かの支えになっているなら。俺はきっと、心の底からそれを誇らしいと思えるだろう」


 そこで言葉を切った佐久間は、驚くほど優しい瞳と声で、言った。


「……おめでとう、胡桃。きみの夢を、俺はこれからもずっと応援している」


 その瞬間、胡桃の瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちた。

 溢れ出した熱い液体は、自分の意思ではどうにもできず、はらはらと頬を流れていく。佐久間は「やはりきみは泣き虫だ」と笑って、胡桃の涙を指でそっと拭ってくれた。

 

「……きみが夢を叶えるそのとき……俺は、そばに居られなくてもいいんだ」

「……」

「俺の隣に、きみがいなくても。きみがどこかで元気にお菓子を作っているなら……それがどこであったとしても、何があっても買いに行く」

「……それは、いやです」

「え?」


 胡桃はぐすんと鼻をすすると、涙目のまま佐久間をキッと睨みつけた。

 どうしてこのひとは、何も言わないままに一人で結論を出して暴走するのかしら。胡桃の気持ちなんておかまいなしに、勝手なことばかり言っている。


「わたしがっ、夢を叶えるときに……佐久間さんが、隣にいないのは、嫌です」

「胡桃……」

「……あの、佐久間さん。小さい頃の、〝お菓子屋さんと結婚したい〟っていう夢……まだ、有効ですか?」

「……い、いきなり、何を言ってるんだ、きみは」


 幼少期の微笑ましいエピソードを持ち出され、佐久間が視線を彷徨わせる。胡桃は彼の手をぎゅうっと握りしめると、自分の中にある勇気を総動員して言った。

 

「その、ここに……将来有望……かもしれない、パティシエの卵がいるんですが」

「ああ」

「ひとつ、佐久間さんのお嫁さん候補にしてみるというのは、いかがでしょう」

 

 ぽかんと間抜けに口を開けて、胡桃の言葉の意味をじっと考えていたらしい佐久間の顔が――ややあって、真っ赤に染まる。片手で口元を押さえた彼は、そっぽを向いたままポツリと呟いた。


「き、きみは。心底男の趣味が悪いな」

「そんなこと、ないです」

「……悪いことは言わないから、やめておいた方がいい。俺なんか、碌でもない男だぞ」

「佐久間さんはロクデナシなんかじゃないです。わたしが保証します」

「……今まで碌でなしに引っかかってきたきみに保証されても、あまり安心できないんだが……いや、でも。しかし」


 佐久間は胡桃の手を強く引いて、そのまま胸に閉じ込めた。背中に腕が回されて、きつく抱きしめられる。大きな手が優しく髪を撫でて、熱のこもった声で囁かれる。


「……幸せだ。どうしようもなく」


 胡桃はふにゃっと笑って、彼の胸に顔を埋める。縋りつくようにして抱きつくと、アールグレイの紅茶に似た柑橘系の香りが、胡桃のバニラの香りと混じってひとつになる。どくどくと高鳴る二人の鼓動が重なって、素敵なハーモニーを奏でている。

 少しずつ太陽は西に傾いていって、世界がオレンジ色に染められていく。昼と夜のあいだにある、儚いロマンチックな空間の中で、二人は抱き合ってお互いの存在だけを感じていた。


「……佐久間さん。お返事は?」

「……ここまでしておいて、返事が必要なのか」

「佐久間さんは言葉足らずだから、きちんと気持ちを口にした方がいいと思うの。恋人同士のすれ違いは、ささいなコミニュケーションの齟齬から生じるんですよ」

「……」

「ベストセラー作家の佐久間さんに、恋愛小説家もびっくりの、素敵な愛の言葉をひとつお願いします」

「おい! は、ハードルを上げるな」


 胡桃の無茶振りに、佐久間は慌てた声を出す。しばらく考え込んでいたようだったが、やがて耳元に唇を寄せて、クリームがたっぷり入ったチョコレートケーキの上にハチミツをドバドバにかけたぐらいに、甘ったるい声で囁かれた。


「……〝ma douce noix〟」


 予想外の言葉に顔を上げた胡桃は、パチパチと瞬きをして首を傾げた。




「……佐久間さん。そんなに、わたしのクッキー缶食べたかったんですか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る