32.幸せのクッキー缶(4)
太陽が傾くにつれて、西の空がオレンジ色に染まっていく。現在時刻は16時半。客足もまだらになってきており、周りのブースも片付けを始めていた。
マルシェの終了時刻までは、あと30分。佐久間はまだ、現れない。
「糀谷さん。私はそろそろ店じまいにしようと思ってるんですけど、どうされますか?」
島本が腕時計に視線を落とし、そう声をかけてきた。アイシングクッキーはすべて完売したらしく、彼女のテーブルには空っぽのトレイが乗っているだけだった。
胡桃が作った焼き菓子も、もうほとんど売れてしまった。パウンドケーキとマドレーヌとマフィンが、ひとつずつ残っているだけだ。滑り出しはどうなるものかと思ったものの、15時前後に訪れるお客さんが意外と多かったのだ。ちょうど小腹が空く時間だったのかもしれない。
テーブルの上はほぼ空っぽだし、もうそろそろ片付けて、帰宅してもいいのかもしれない。しかし、胡桃はまだ諦めきれなかった。
「……わたし、もうちょっとだけ残ります」
「わかりました。じゃあ、お先に失礼しますね。今日はありがとうございました」
「はい、こちらこそ! とっても楽しかったです! 勇気出して、参加して良かった……!」
心の底から、そう思う。大和が言っていた通り、素敵な出逢いがたくさんあるイベントだった。いろんなブースを回って、ものづくりをしているひとと話して、手作りのものを買うのも良い刺激になった。
そして何より、自分が作ったものを、目の前で嬉しそうに買っていくひとがいることは、これまでに感じたことがないほどの喜びだった。「美味しそうですね」「頑張ってください」という温かい声をかけてくれるひとも、たくさんいた。胡桃の作ったお菓子を手に取ってくれたすべてのひとが、末永く健康で幸せであってほしいと思う。
「それなら、わたしもお誘いした甲斐がありました。また機会があれば、ご一緒しましょうね」
「はい、是非! お疲れさまでした!」
島本も帰り、胡桃はその場に一人取り残された。空っぽになったパイプ椅子を見つめて、なんだかやけに寂しくなる。
胡桃は足元に置いた段ボールの中から、佐久間のために取っておいたクッキー缶を取り出した。2000円のクッキー缶は、一応売れたものの、結局知り合いしか買ってくれなかった。初出店のくせに強気の価格設定にしてしまったのが敗因だろう。今後イベントに参加することがあるかはわからないが、次の機会があればしっかり考えなければ。
(……そういえば。クッキー缶の名前の意味、佐久間さんに訊いてみろって杏子さんが言ってたな……)
学生時代に選択した第二外国語はフランス語だったが、卒業とともに綺麗さっぱり忘れてしまった。もっとちゃんと勉強しておけばよかった、と今さらのように後悔する。
(……もし佐久間さんが来てくれたら、意味を直接聞いてみよう)
待っていると言ったのだから、佐久間はきっと来てくれるはずだ。マルシェが終了する17時までは、残り15分。
周囲がどんどん撤収していく中で、胡桃だけは動かずにじっと座っている。背の高い男性が前を通るたびに、思わず目で追って期待してしまう。
しかし時間は無情にも過ぎていき、場内に蛍の光が流れ始める。さすがにもう来ないのかも、としょんぼり俯いた、そのときだった。
少し離れたところから、誰かが走ってくる足音がする。軽やかなその足音は、胡桃の目の前で止まった。誰かが夕焼けを背にして、胡桃の頭の上に影を落としている。
胡桃は弾かれたように、顔を上げた。
「……あのっ! お菓子、まだ、残ってますか!」
そこに立っていたのは、大学生ぐらいの若い女性だった。
たしか今日、一番最初に胡桃のお菓子を買ってくれた女の子――の、友達だ。「クッキー缶は可愛いけど、高いから」と何も買わなかった。彼女はまるで全力疾走でもしてきたかのように、ゼイゼイと息を切らしている。
「あ……はい! 少しだけですけど」
胡桃は戸惑いつつも、トレイに残った焼き菓子たちを指差した。彼女は興奮気味に「よかったぁー!」と叫ぶ。
「パウンドケーキもまだあるー! 嬉しいーっ! 戻ってきてよかった! うわーっ、でもフィナンシェはもうない!」
「す、すみません……」
「あのっ、残ってるの全部ください!」
「えっ、あっ、はい! あ、ありがとうございます!」
胡桃は慌ててお菓子を紙袋に詰める。電卓を叩いて会計をして、紙袋を手渡すと、女性はほとんど涙目になりながら「ありがとうございます……!」とそれを受け取る。
それにしても、どうして彼女はわざわざここに戻ってきたのだろうか。朝ここに来てから、ずいぶん時間が経っているようだが。よほど気になることでもあったのか。
「あの……どうして、戻ってきてくださったんですか?」
うっとりと紙袋を見つめている女性に向かって、胡桃はおそるおそる尋ねた。彼女は頬を紅潮させ、興奮気味に詰め寄ってくる。
「あたし! 友達がここで買ったパウンドケーキ、半分もらったんです。もう……ものっすごく、美味しくて! こんなに美味しいパウンドケーキ食べたことない! って感動しちゃって……」
「え」
「ぜったいフィナンシェも食べたかったのに、ユミカが分けてくれなくてー! 一回家帰ったんですけど、あの味が忘れられなくて……ワンチャンまだ残ってるかも! って、電車乗ってダッシュで戻ってきたんです」
(わたしのお菓子のために、そこまで……?)
思いもよらぬ言葉に、胡桃はぽかんと口を開けた。彼女は心底嬉しそうに、「ほんとに、買えてよかったぁ……」と呟いている。
しばらく満足げにしていた女性だったが、すっかり空っぽになったテーブルの上を見て、がっくりと項垂れた。
「……あのクッキー缶、もう売れちゃったんだ……」
「え、あ……」
「ここのクッキー缶なんて、絶対美味しいに決まってるのに……! ああ、ほんとに買っとけばよかった……あたしのバカ〜!」
打ちひしがれている女性を横目に、胡桃は足元の段ボールに入っているクッキー缶に目をやった。佐久間のためにと、ひとつだけ残しておいたものだ。躊躇ったのは一秒にも満たないぐらいの時間で、胡桃はすぐにクッキー缶を手に取る。
「……あ、あの! これ、ひとつだけ残ってるので、よかったらどうぞ!」
胡桃が言うと、女性はぱあっと表情を輝かせて、感極まった様子でクッキー缶を受け取った。
「! え!? い、いいんですか! ほ、ほんとに嬉しい! あ、たしか2000円でしたよね!?」
「は、はい!」
「ぴったりあります! あーっ、よかったぁ……!」
女性から貰った千円札をコインケースに片付けると、彼女はもう一度「ありがとうございます!」と繰り返す。
「もし次別のイベント出るなら、絶対教えてください! そうだ、インスタとかありますか?」
「あ、ショップカードにQRコードが……」
「ほんとだ! フォローして絶対チェックしますね!」
女性は手に入れたクッキー缶を、まるで宝箱を手に入れたかのように、大切そうに胸に抱える。ニコニコと嬉しそうに笑いながら、胡桃に向かって言った。
「おねえさんのお菓子、ものすごーく、美味しかったです……!」
「ほ、ほんとですか!」
「あたし最近、全然いいことなくて。今就活中なんですけど、お祈りされてばっかりで……ガラにもなく落ち込んでたら、気分転換にって友達に誘われてここに来たんですけど」
「……」
「でもおねえさんのお菓子食べた瞬間、ものすごーく幸せな気持ちになって! もうちょっとだけ頑張ってみようかなって、前向きになれたんです!」
そのとき胡桃の脳裏に浮かんだのは、父のフィナンシェを食べたときの佐久間の表情だった。もう一度食べられてよかった、と幸せそうに笑んだ男の顔と、今目の前にいる女性の顔が重なる。
胡桃の作るお菓子は、まだ父の作るものには程遠いけれど、それでもきっと。
「こうしてイベント出てくださってありがとうございます! あたし、おねえさんのお菓子に出逢えてよかった! これからも、ずっと応援してます!」
その瞬間、温かなものがこみ上げてきて、胸の奥が震える。じわじわと体温が上がって、なんだか叫び出したいような、走り出したいような気持ちになる。
(……たぶん、きっと。わたしの才能が、わたしを必要としてるひとに……届いたんだ)
恋に破れて、このまま世界が終わってしまえばいい、と絶望していたあの夜。アプリコットタルトを佐久間の元に持って行かなければ。きっと胡桃は、誰かに手作りのお菓子を食べてもらおうとは思わなかっただろう。そうすれば、こんなに幸せな気持ちを味わうことも、きっと一生なかった。
「ううん、こちらこそ。ありがとうございます……!」
胡桃は心の底から彼女に礼を述べると、深々と頭を下げる。紙袋を持った彼女が足取り軽く歩いていくのを、見えなくなるまでずっとずっと見つめていた。
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