31.幸せのクッキー缶(3)
マルシェも半ばを過ぎ、客足が途切れたタイミングで島本と雑談をしていると、向こうから見覚えのある男性がやって来るのが見えた。眼鏡をかけた人の良さそうな男は、筑波嶺大和だ。連れの男性と、何やら話しながら歩いている。
まさか佐久間が来てくれたのでは、と胸を高鳴らせたが――隣にいたのは、水羽だった。
「こんにちは、胡桃さん!」
「糀谷さん、お疲れさま。調子はどう?」
「お二人とも、来てくださってありがとうございます! 調子はぼちぼちです!」
そういえば、水羽が大和に「一緒に行こう」と誘っていた。休日にわざわざ二人で来るなんて、本当に仲良くなったものだ。偶然とはいえ引き合わせた身としては、馬が合って良かったな、と思う。
「僕、このクッキー缶にします。ひとつください」
「じゃあ俺も。妹への土産にするよ」
「あ、ありがとうございます! よかったぁ、クッキー缶全然売れてなくて……」
「そうなんですか? すごく美味しそうなのに。編集部のみんなで食べますね!」
クッキー缶が一気にふたつ減って、胡桃はほっとした。テーブルの上に残ったクッキー缶は、これで残りふたつ。個包装の焼き菓子も、だんだん少なくなってきた。
(もしかすると焼き菓子は、佐久間さんのぶん、なくなっちゃうかも……)
佐久間がやって来たときに商品がほとんど残っていなければ、残念がるかもしれない。もし来ないのなら、そんな心配をする必要などないのだが。
胡桃は大和に向かって、おずおずと尋ねた。
「あの……筑波嶺さん。今日、佐久間さん……来るとか来ないとか、何か聞いてます?」
「はぁ? あの男、まだ来てないんですか!? もう14時過ぎてるのに」
「……やっぱり。来てくれないのかな……」
大和は心底呆れたように、やれやれと首を振る。それから胡桃を慰めるように、優しい声を出した。
「心配しなくても、きっと来ますよ。絶対、めんどくさいことゴチャゴチャ考えてるだけなんで」
「そう、かなぁ……」
「あの甘党男が、胡桃さんのお菓子を食べるチャンスを逃すわけないでしょ」
「……たしかに、ですよね。ふふ、ありがとうございます」
胡桃が頷いて笑うと、大和もにっこり笑みを返してくれた。すると水羽が「そういえば」と口を開く。
「夏原さんは、もう来たの?」
「いいえ、まだ」
「そうなんだ。さっき駅で筑波嶺さんと待ち合わせしてるときに会ったから、そろそろ来ると思うよ」
「えっ、ほんとですか?」
水羽の言葉に、胡桃はほっと安堵の息をついた。誘ったときには「気が向いたら行く」と言っていたから、あまり期待していなかったのだが。栞にもたくさん試作品を食べてもらったのだから、是非来てほしいと思っていたのだ。
(会社辞める前に、栞先輩にもちゃんとお礼言わなきゃ……)
胡桃はこれまでたくさん、栞に助けられてきた。同僚ではなくなってしまうけれど、このまま縁が切れてしまうのは嫌だ。彼女への感謝の気持ちとともに、これからもずっと仲良くしてください、と伝えよう。
大和と水羽が立ち去ってから、胡桃は通りかかる来場者の中に栞の姿を探し始めた。栞は目立つ美人だから、きっとすぐに見つかるだろう。
目を皿のようにしてキョロキョロしていると、少し離れたところで、遠巻きにこちらを見ている女性の姿を見つけた。見間違えるはずもない、あの美貌は栞だ。いつもはひとつに結んでいる黒髪のロングヘアを下ろしており、より美しさに磨きがかかっている。
「し、栞せんぱぁーい!」
胡桃が立ち上がってブンブンと手を振ると、栞はやや戸惑った様子を見せてから、くるりと背中を向けてしまった。なかなかこちらに来てくれないので、もう一度「栞先輩!」と名前を呼ぶ。すると、ようやくチラリとこちらを向いて、ノロノロと近付いてきた。
(? 栞先輩、なんだか様子が変だな……)
目の前で立ち止まった栞は、唇をへの字に結んで、なんだかやけに不機嫌そうな顔をしている。どうしたのだろうかと不安になったが、栞が来てくれた嬉しさが勝り、はしゃいだ声をあげた。
「栞先輩! 来てくれて嬉しいです!」
「……」
「そういえば、お休みの日に会うのはじめてですね! 私服姿もとっても素敵です!」
「……焼き菓子全種類とクッキー缶。ふたつずつ、いただけるかしら」
「え、ふたつも?」
「……常盤くんに、お遣いを頼まれているんです」
「あ、は、はいっ! 喜んで!」
胡桃は元気いっぱい返事をすると、焼き菓子とクッキー缶を紙袋に詰める。だんだん、袋詰めや会計もスムーズにできるようになってきた。お金を受け取りお釣りを渡し、両手で恭しく商品を手渡す。
「はいっ、お待たせしました! あのっ、こんなにたくさん食べたら、太っちゃうかもしれないけど……」
「……気にしないわ、もう」
「多少太っても、栞先輩の美貌は損なわれないと思うので……美味しく食べてもらえたら、嬉しいです!」
「……ええ、もちろん。あなたの作るお菓子は、どれもとっても美味しいもの」
「いやあ、えへへ」
「……あなたは本当に、すごいわね」
栞はそこで、ようやく胡桃の顔をまっすぐに見てくれた。栞の言葉には嘘がない。憧れの栞に褒められると、胡桃はいつだって誇らしく、背筋がピンと伸びるような気持ちになるのだ。
「私、あなたのこと尊敬してるわ。たったひとつ誇れるものがあって、夢を叶えるために踏み出そうとしてる」
「そんな、わたしなんて……栞先輩の方が、よっぽど」
栞は胡桃の言葉を押し留めるように片手を上げると、静かな口調で続けた。
「……私。業務職に職種転換して、管理職にならないかって言われてるの」
「え!? す、すごい! さすがです!」
驚いたが、栞の仕事ぶりを考えると、ちっとも不思議なことではない。前回の課長との面談がやけに長かったのも、そういうことだったのか。
「対外的なアピールのために、女性管理職を増やしたいんでしょうね。会社の都合に利用されるのは、癪だけど……こうなったら、のし上がれるところまでのし上がってやろうと思って」
そう言って、栞は胸の前で拳をぐっと握りしめた。ややつりあがった猫のような瞳の奥に、静かな野心と決意に燃えているのを感じる。
「私には、あなたみたいな特別な才能はない。でも……あなたが夢を追いかけてるのを見て、私も今の仕事を全力で頑張ろうって思えたの」
「栞先輩……」
「……あなたも頑張ってね。心の底から、応援してるわ」
栞はそう言うと、胡桃の目を見て微笑んでくれた。ようやく笑顔を見せてくれたことが嬉しくて、胡桃は彼女の両手をぎゅっと握りしめる。
「……栞先輩。今までほんとに、ありがとうございました」
「……ええ」
「わたし、栞先輩のこと大好きです。真面目で仕事ができて、きれいで強くて、正しくて優しくてまっすぐで。でもとっても可愛くて」
「……」
「その……おこがましいけど……わたしも、栞先輩みたいな女性になれたら、って……」
胡桃が言い終わらないうちに、栞の顔から笑みが消えて、下唇を噛んで俯いてしまった。華奢な肩を小刻みに震わせた栞に、胡桃は慌てる。
「えっ、あ、あの……栞先輩!? わ、わ、わたし、また何か変なこと……」
「…………い」
「え?」
「……さみしい……」
喉の奥から絞り出すように言った栞は、ポロッと大粒の涙を溢した。人目も憚らず、ボロボロと泣き出した栞に、胡桃はギョッとする。
オロオロとハンカチを差し出したが、「結構です」と断られた。肩に掛けたバッグからハンカチを取り出した栞は、目元を押さえながら、ずびずびと鼻をすする。
「私、ほんとはね。あ、あなたのことが、可愛くて仕方ないの……」
「えっ」
「……あなたと仲良くなってから、会社に来るのが、楽しくなったのに……」
「せんぱい……」
「も、もし後任者がきたって、きっと……あなたみたいには、仲良くなれないわ。今までもずっと、そうだった。私は性格がキツいから、優しくできなくて、絶対、嫌われるもの」
「そ、そんなことないです」
「やっぱり、あなたぐらいに図太くて、遠慮がなくて、空気を読まずに距離を詰めてくる子じゃないと……」
「……あのう、栞先輩。それ、褒めてます?」
「……女の子の後輩と、こんなに仲良くなれたのは、初めてだったから……あなたが、いなくなるのは。……とっても、さみしいわ」
栞はそこで言葉を切って、涙をいっぱいに溜めた瞳で、こちらを見つめてきた。栞の泣き顔を見るのは二度目だが、やっぱり彼女はアイラインがよれていても、ファンデが崩れていても、鼻水を垂らしていても、とっても綺麗だ。
「だったら、なんで……最近はあんなに、よそよそしかったんですか。わたしだって、寂しいのに……」
「だって……これ以上仲良くなると、別れがもっと辛くなるでしょう。嫌よ、私。絶対みっともなく泣いてしまうわ」
「もう泣いてるじゃないですかぁ……」
でも、そういう不器用さも栞らしくて好きだ。胡桃は栞の両手をぎゅっと握りしめると、ニコッと笑いかける。
「わたしは、仕事辞めても栞先輩と疎遠になりたくないです。たまには一緒にごはん食べに行きたいし……あと、寂しくなったらLINEしてもいい?」
「……私は、意味のないLINEのやりとりはしない主義です」
「えーっ、そんなぁ……」
がっくりと項垂れた胡桃に、栞は頬に涙の跡を残したまま、くすくすと可愛らしい声を立てて笑った。
「そうね、でも……電話なら、してもいいかしら。ときどき、二人で飲みに行きましょう」
とびきり愛らしい笑みを浮かべた先輩に、胡桃の胸の奥がきゅーんと音を立てる。衝動に逆らわないまま、ばっと両手を広げた。
「し、栞先輩。抱きしめてもいいですか!?」
「……もう、仕方ないわね」
胡桃は勢いよく栞に抱きつくと、華奢な肩に顔を埋めて、ぎゅうっと背中に腕を回す。「……今回だけよ」と言った栞は、また少し涙声になっていた。
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