30.幸せのクッキー缶(2)

 杏子たちが立ち去ってからしばらく、胡桃のブースに客が訪れることはなかった。

 胡桃はパイプ椅子に座ったまま、行き交うひとびとをぼんやりと眺めている。マルシェはなかなかの賑わいを見せており、通りかかるひとはたくさんいるものの、わざわざこちらにやって来ることはない。

 今になって、もう少しちゃんと宣伝するべきだったかなあ、と後悔していた。一応今日のために、インスタグラムのアカウントは作ったものの、フォロワーはほぼゼロだし、今日このイベントに来場しているひとは、きっと誰も胡桃のことを知らない。


(頑張って作ったけど、全然売れなかったらどうしよう……)


 張り切ってたくさん作ってきただけに、売れ残ってしまったら悲しい。段ボールいっぱいの焼き菓子をすごすごと持ち帰る自分を想像して、ちょっと泣きそうになってしまった。

 もしそうなったら、佐久間が全部残さず食べてくれるだろうか。しかしさすがに、糖尿病が心配だ。


「わっ、可愛い! 全部ほしー!」


 そのとき、隣のブースからはしゃいだ声が聞こえてきた。若い女性の二人組が、島本の作ったアイシングクッキーを見ているようだ。島本は「どうぞごゆっくり、ご覧くださいね」と優しい笑みを浮かべている。


「このネコのやつ、めっちゃ好き! ねえねえ、あとで写真撮ってインスタにあげようよ」

「ほんとだ、可愛い〜! じゃあ、あたしはこっちのクマにしよ」


(……うう。島本先生が作ったクッキーに比べて、わたしのお菓子って、地味かも……)


 島本の作ったアイシングクッキーは、当然のことながら色鮮やかで形もさまざまで、とても華やかだ。自分で作ったお菓子はどれもとびきり可愛くて愛おしいけれど、茶色をベースとした焼き菓子に、SNS映えするような華やかさはない。

 がっくり落ち込んでいると、アイシングクッキーを購入した女性二人組が、そのままスライドするように胡桃の前にやってきた。


「あ、お菓子だ。おいしそう〜」

「へえ、クッキー缶だって! 可愛い!」


 胡桃ははっと我に返った。慌てて顔を上げると、口角を持ち上げてややぎこちない笑顔を見せる。


「あ、ど、どうぞ! 見て行ってください!」


 女性二人はトレイに並んだお菓子を眺めて、「どれも美味しそうだねー」とニコニコしている。しばらくして、一人の女性がパウンドケーキとフィナンシェに手を伸ばした。


「私、これにしよ。すみません、これください」

「あ、あ、あ、ありがとうございます……!」


 胡桃は感極まりながら、裏返った声でお礼を言うと、ぶるぶると震える手で商品を受け取った。明らかに挙動がおかしい胡桃に、女性はややギョッとしたような表情を浮かべる。しかし、胡桃はそれを気にするどころではなかった。


(……わたしのお菓子、お客さんに売れた! 買ってくれるひとがいた!)


 そのときの胡桃の喜びは、筆舌に尽くし難いものだった。今すぐ目の前の女性に抱きついて、ワッショイワッショイと胴上げして差し上げたいぐらいだ。しかし当然そんなこともできないので、慌ててお会計をして、震える手のまま紙袋を手渡す。


「わあ、ありがとうございます! 食べるの楽しみです」


 そう言ってくれた女性は、まるで神様かのように後光がさしていた。胡桃は両手を合わせて、「こちらこそ、ありがとうございます……」と拝む。


「マキちゃんは買わないの?」

「うーん、あたしはいいや。クッキー缶可愛いけど、ちょっと高いし」

「そっかあ。あ、あっちにアクセサリー売ってたよ。私、ピアス欲しいんだよねぇ。見に行こ!」


 最後にもう一度頭を下げて二人組を見送ったあと、胡桃は改めて喜びを噛み締めていた。堪えきれずに、その場で両手を上げてバンザイをする。と、隣にいた島本が微笑ましそうにこちらを見ていた。


「よかったですね、糀谷さん」

「は、はい! う、嬉しいです! 夜通しサンバ踊れそうなぐらい!」

「きっとこうして買ってくれたひとが、またリピーターになってくれますよ。そうしてどんどん、ファンが増えていくといいですね」


 島本の優しい言葉が、じんわりと胸に沁み込んでいく。こうして少しずつでも、自分の夢に近づいていくだろうか。どうか美味しく食べてもらえますように、と胡桃は心の中で祈った。



 

 それからも、胡桃のブースにはぽつぽつとお客さんがやって来た。ひっきりなしに、というほどではないけれど、足を止めたひとびとが、個包装の焼き菓子を買っていく。

 しかし残念なことに、クッキー缶は売れなかった。「可愛い」「美味しそう」などと言ってくれるひとはいるのだが、売れない。お客さんの反応を見ていた胡桃は、ようやく理由に思い至った。


(クッキー缶……マルシェで買うには、値段が高いんだ……)


 1000円以下で気軽に手に取れる個包装の焼き菓子に比べて、クッキー缶は2000円。クッキー缶の相場としてはそれほどでもないはずなのだが、フラッと立ち寄ったところで買おう、という気にはならない。

 おまけに胡桃がお菓子を販売するのは初めて。つまり、認知度はほぼゼロだ。わざわざ2000円も出して、美味しいかわからないクッキー缶を買おうとは思わない。

 用意したクッキー缶は8個。残りのクッキー缶は6個。ひとつは杏子に、もうひとつは島本に売ったものだ。おそらくマルシェが終わっても、完売はしないだろう。

 胡桃はテーブルの上のクッキー缶をひとつ取ると、段ボールの中に戻した。ひとつは、佐久間にあげることにしよう。ma douce noix、という彼がつけてくれた名前を反芻して、一体どういう意味なのかしら、とまた考える。


「あれ、糀谷?」


 もう一度調べてみようかとスマホを取り出したところで、出し抜けに声をかけられた。声のした方を見ると、そこに立っていたのは、今年の3月に退職した元同期の柏木かしわぎだった。偶然の邂逅に、胡桃は目を丸くする。


「え、柏木くん!? どうしたの!?」

「いや。たまたま通りかかったら、面白そうなことやってんなーと思って」

「まーくん。このひと、知り合い?」


 柏木の後ろから、長い髪をハーフアップにした、可愛らしい女性がひょっこりと顔を出す。ぱちっと目が合うと、「こんにちは」と微笑みかけられた。胡桃も会釈をして笑みを返す。


「前の会社の同期だよ。糀谷、こっちはおれの彼女……というか、婚約者。になったばっかりのひと」

「えっ、そうなんだ。柏木くん、結婚するんだね。おめでとう」

「まーね。転職してしばらくはバタバタだったけど、そろそろ状況も落ち着いてきたし」


 そういえば柏木は、「ゲーム会社で働きたい」という夢のために転職したのだった。やりたいことをやらずに後悔するよりいい、と言った彼の姿に、少なからず背中を押されたのは事実である。


「……毎日、楽しい?」


 胡桃はおそるおそる、そう尋ねる。すると柏木は、ニカッと太陽のような笑みを浮かべた。


「すげえ大変だけど、楽しい!」


 あまりの眩しさに、胡桃は軽く目を細める。勇気を出して新たな道に飛び込んだひとが、毎日を楽しく過ごしているのは、胡桃にとっても希望だった。果たして自分も、そんな風に充実した日々を送ることができるだろうか。


「……柏木くん。わたしも、転職するんだ。パティシエ目指してるの」

「へえ、そうなんだ。このお菓子、すげえ美味そうだもんな」

「ねえ、まーくんまーくん。私このクッキー缶買ってもいい?」

「いーよ。俺もなんか買おっと」


 柏木の婚約者は、やや舌ったらずに「この、ま、どゅーす……ナントカ……ください」と言った。歳はそれほど変わらないのだろうが、やや幼い印象のある可愛いひとだ。柏木はマドレーヌとティグレを選んで、クッキー缶とまとめて会計をしてくれた。


「お、お買い上げありがとうございます!」

「じゃーな。糀谷も頑張れよ! 応援してる」


 柏木はそう言うと、婚約者と手を繋いで仲睦まじげに歩いて行った。二人で顔を見合わせて笑い合って、ずいぶんと幸せそうな後ろ姿だ。転職したばかりで大変なこともあるだろうが、きっと彼女と支え合っているのだろう。


(……いいなあ。わたしも、あんな風に……)


 なんだか羨ましくなってきて、胡桃は溜息をついた。胡桃が新たな道を歩き出したそのとき、果たして佐久間は自分のそばに居てくれるのだろうか。そんなことを考えて、少し落ち込んでしまった。

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