29.幸せのクッキー缶(1)

 10月9日、三連休の最終日。ハンドメイドマルシェ当日は、清々しい秋晴れのいいお天気だった。

 朝6時に鳴り響いた枕元のアラームを、手探りで止める。昨日は緊張と興奮であまり眠れなかったけれど、頭はしゃっきりと冴えていた。

 服を着替えて顔を洗い、キッチンへと向かう。既に父は起きており、道具の手入れをしているようだった。


「……おはよう」

「おう。おまえは相変わらず、朝が弱いな。プロのパティシエになったら、早起きは基本だぞ」

「ええ……今日はこれでも早く起きたのに……」


 そういえば、父も昔から早起きして仕込みをしていた。夜も遅くまでキッチンに篭っていたし、一体いつ寝ているのだろうか、と不思議に思っていたものだ。


 昨日のうちに作った焼き菓子は、ケーキクーラーの上にずらりと並べられている。マーブル模様のパウンドケーキに、フィナンシェ、マドレーヌ、マフィン。ひとつひとつ透明の小袋に入れて、乾燥剤とともにシーラーで密封する。

 焼き菓子の個包装が終わったら、次はクッキー缶だ。正方形の可愛い缶の中に、大きいものから順番にクッキーを詰めていく。

 まずは、ガレットブルトンヌ。それから、ほんの少しほろ苦い記憶もあるフロランタンを。真ん中には、栞との思い出のレモンクッキー。次に、佐久間の伯母に教えてもらったレシピをアレンジした、紅茶のクッキー。お花の形が愛らしい、シュガークッキー。雪玉みたいなブールドネージュ。佐久間に無理やり名前を呼ばせた、胡桃のキャラメリゼ。隙間を埋めるように、ふわふわの小さなメレンゲクッキー。ひとつひとつ、心をこめて詰めていく。

 どのお菓子も全部、佐久間は「美味しい」と言ってたくさん褒めてくれた。これまでに彼がくれた言葉と、お菓子を食べたときの幸せそうな表情には、きっとひとつの嘘もないと信じている。

 

 会場である公園までは、父が車で送ってくれた。運転席に座った父は、相変わらずむすりとした表情のまま、一言も喋らなかった。胡桃も何を話していいものかわからず、無言で窓の外を見つめていた。お菓子を介さずには、なかなかコミニュケーションができない父娘なのだ。

 父は公園の入り口で車を停めて、後部座席から段ボールに入った商品を下ろしてくれた。


「これだけでいいのか」

「うん。ひとつだけだし、一人で持てるよ。腰痛いのに、手伝わせちゃってごめんね」

「構わん。大したことはない」


 マルシェのお菓子を作るにあたって、父にもたくさんのアドバイスをしてもらった。胡桃は改めて礼を言おうと、ぺこりと頭を下げる。

 

「お父さん。その、いろいろと……ありがとう」

「何を言っとるんだ。礼を言うのは、立派に一人前になってからにしてくれ」

「それは、たしかに」

 

 まだまだこれからも、父からの厳しい指導は続くのだ。再び運転席に戻った父は、胡桃に向かって「……楽しんでこい」と言ったあと、車を発進させた。

 

 胡桃は段ボールを受け取り、自分のブースへと運ぶ。既に島本はやって来ており、テントの下にあるテーブルに、可愛らしいアイシングクッキーを並べていた。


「糀谷さん、おはようございます」

「おはようございます! 島本先生、早いですね」

「イベントの日はいつもドキドキワクワクして、落ち着かなくて」

「わ、わかります。わたしもあんまり眠れませんでした」

「糀谷さんも、今日はたくさん楽しみましょうね」

「はい!」


 胡桃は笑顔で頷くと、早速商品のセッティングを始めた。既に準備を終えている島本も、一緒に手伝ってくれる。

 テーブルの上に白のクロスを敷いて、トレイの上に商品を並べていく。商品の前には値札プレートを置いて、クッキー缶の横には、中身が撮影された写真とともに、小さな札を置いた。なかなか可愛くディスプレイできたと思う。


「……ma douce noix 《マ・ドゥース・ノア》?」


 そこに書かれた商品名を見て、島本が小さく首を傾げた。胡桃ははにかみながら答える。

 

「このクッキー缶の名前です。えへ、か、かっこよすぎますかね……?」

「いえ、素敵だと思います。このままお店の名前にできそうなぐらい。ご自身で考えられたの?」

「まさか! お隣さんがつけてくれたんです。よくわからないんですけど、翻訳アプリで調べたら、甘いクルミ? みたいな意味らしくて。わたしの名前にちなんでくれたのかなぁ」


 中身にもこだわり抜いた可愛いクッキー缶に、佐久間が素敵な名前をつけてくれた。いつか念願叶ってko-jiyaが復活したときに、新たな看板商品にできるといいな、と思う。


 準備が整ったところで、11時になり開場となった。一般のお客さんが、ぞろぞろと入ってくる。だんだん緊張が高まってきた。果たして、本当にお客さんが来てくれるのだろうか。


「胡桃ちゃん!」


 開場とともに、一目散にこちらにやって来たのは、ツヤツヤとしたショートボブの美女だった。ニッコリ笑って手を振っているのは、アドリエンヌのオーナー佐久間杏子である。ノーカラーのジャケットに、ワインレッドのワンピースが華やかだ。


「きょっ、杏子さん! 早速お越しいただき、ありがとうございます……!」


 彼女は近いうち、自分の雇い主となる女性である。胡桃は勢いよく立ち上がり、深々とお辞儀をした。杏子は「そんなに緊張しないで。胡桃ちゃんは従業員である以前に、わたしの妹みたいなものなんだからぁ」と眉を下げて微笑んだ。


「……久しぶりに休みくれて、デートしましょうって言うからノコノコ来てみたら。やっぱこういうことですか、オーナー」

「あら、こういうことってどういうことかしら?」

「期待して損した……」

 

 よく見ると、杏子の隣にはアドリエンヌのチーフパティシエである加賀見が立っていた。前回会ったときには、落ち着きのある大人だと思っていたけれど、今はちょっとふてくされたような顔をしている。幼く見えるのは、貫禄のあるコックコートではなく、ラフな普段着だからかもしれない。

 拗ねている加賀見を無視した杏子は、ディスプレイされた商品を見て感嘆の声をあげる。


「あらまあ、どれも美味しそうね! クッキー缶をひとつと、それ以外は全部ふたつずついただけるかしら」

「あ、ありがとうございます!」

「加賀見さん。あとで食べたお菓子の感想を聞かせてちょうだいね。今後の糀谷さんの指導の参考にします」

「はいはい、わかりましたよ……」


 胡桃が慣れない手つきで商品を詰めていると、隣の島本が「私がやります」と助け舟を出してくれた。そのあいだに電卓を弾いて、モタモタと会計を済ませる。杏子は小銭をたくさん持ってきており、お釣りのないようぴったり支払ってくれた。


「ところで、胡桃ちゃん。このクッキー缶の名前、あなたが考えたの?」


 商品を受け取った杏子は、優雅な仕草で小首を傾げる。胡桃は「いいえ」とかぶりを振った。

 

「佐久間さんがつけてくれたんです! 甘いクルミ、みたいな意味なんですよね?」

「凌が? ……あらあら、まあまあ」

「えっ、もしかして間違ってます?」

「うーん、ちょっとニュアンスが違うのよねぇ……」

「……凌くん、意外とロマンチストだったんだなぁ」

「おそらく気付かれないと思ってやってるところが、ヘタレな男よねぇ。我が身内ながら、恥ずかしいわ」


 杏子と加賀見は互いに顔を見合わせて、ニヤニヤしている。胡桃がキョトンとしていると、杏子は悪戯っぽく笑って囁いてきた。


「……わたしがバラすのも、ちょっと申し訳ないわねぇ。今度、凌に意味を訊いてみるといいわ」

「は、はい」

「じゃあまたね、胡桃ちゃん。あなたと一緒に働けるのを、楽しみにしてるからね」


 杏子はそう言って、ひらひらと手を振って立ち去っていく。「さあ、金の卵を発掘するわよぉー!」と意気揚々と歩いていく杏子を、呆れた顔の加賀見が追いかけていった。

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