28.甘党男子に捧げるショコラテリーヌ(2)

 居酒屋を出たあと、佐久間の元へ向かうという大和が、胡桃を送ってくれることになった。水羽と栞に別れを告げ、胡桃は大和の車に乗り込む。

 こんな時間に二人きりで車に乗っていても、筑波嶺大和は不思議と危険な匂いがしない男だ。胡桃に対する下心がまったく感じられない。胡桃が今まで知らなかっただけで、世の中にはまともな男性もたくさんいたんだなぁと改めて思う。


 大和とマンションに帰ってきて、部屋の前で別れたところで、胡桃は唐突にお菓子が作りたくなった。他の誰でもない、佐久間のために。

 最近は父との特訓やマルシェの試作のため、たくさんお菓子を作ってはいたけれど、お菓子を作ることはほとんどなくなっていた。久しぶりに、気軽な気持ちで――大切なひとに食べてもらうためのお菓子を、作りたくなったのだ。


(……うーん、どうしようかな……よし、ショコラテリーヌにしよう)


 ショコラテリーヌというのは、チョコレート、卵、バターなどを合わせ、型に入れてじっくり低温で焼いたケーキだ。まるでチョコガナッシュそのもののような、ねっとりとした濃厚な味わいが魅力である。胡桃はビターチョコレートで作った、ほんの少しほろ苦いものが好きだ。


 まず、刻んだビターチョコレートとバターを湯煎で溶かす。別のボウルに卵と砂糖を入れて、こちらも湯煎にかける。冷たいままだと、チョコが冷えて固まってしまうのだ。人肌ぐらいに温まったところで、最初のチョコとバターのボウルに少しずつ加えて、泡立てないように混ぜる。ココアパウダーを加えて、綺麗なツヤが出るまで優しく混ぜる。ダマが残らないように一度濾して、仕上げにオレンジリキュールを加えると、生地の完成だ。

 バターを塗った型に生地を静かに流し込み、お湯を張ったバットに乗せて、150℃のオーブンでじっくり50分焼く。いわゆる「湯煎焼き」と呼ばれる方法だ。たくさんの水分でケーキを蒸しあげるので、しっとりと仕上がるのだ。

 焼けたらオーブンから取り出して、粗熱が取れたらラップをかけて冷蔵庫へ。一晩かけてしっかりと冷やすことにして、胡桃はようやく床についた。

 

 翌日、昼前に目覚めた胡桃は、冷蔵庫からショコラテリーヌを取り出した。型から外して、包丁で慎重にスライスする。上からココアパウダーを振りかけて、上にオレンジピールをトッピングすると、ショコラテリーヌの完成だ。

 味見をするまでもなく、きっととびきり美味しいに違いない。今すぐにでも、大好きなひとに食べてもらいたくなる。


(佐久間さん、起きてるかな……)


 昨夜も夜遅くに大和と打ち合わせをしていたようだし、もしかするとまだ寝ているかもしれない。

 胡桃はとりあえずラフなパーカーとデニムに着替えて、隣の部屋のインターホンを押す。二、三度鳴らしたところで、ようやく佐久間が顔を出した。ふああ、と大きな口を開けて欠伸をする。


「……ああ、きみか……おはよう……」

「おはようございます、佐久間さん。もう昼ですけど。まだ寝る?」

「いや。入ってくれ……眠いが、きみの作ったお菓子は食べたい……」


 佐久間はそう言って、胡桃を部屋の中に招き入れた。キッチンに立つと、眠そうに目を擦りながら紅茶の準備をしている。


「ちなみに、今日は何を作ったんだ」

「ショコラテリーヌです! ちょっとビターテイストで、隠し味としてオレンジリキュールが入ってます」

「オレンジリキュールが入っているのならば、柑橘系の香りのあるアールグレイにしよう。きみは皿にテリーヌを乗せてくれ。長方形のシンプルなプレートだ」


 胡桃は棚から白いプレートを取り出して、綺麗にカットしたテリーヌを乗せる。ティーセットを準備した佐久間が、ひと足先にソファに座っていたので、胡桃も隣に腰を下ろした。


「寝起きに食べるものじゃないかな……食べられます?」

「きみが作るものなら、いつなんどきでも食べたいと言っただろう。いただきます」


 佐久間はフォークでテリーヌを切り分けると、ぱくりと一口頬張る。しばらく酔いしれていたようだが、やがてうっとりとした様子で「素晴らしい……」と呟いた。


「かなり濃厚でしっとりしているのに、まったく重たくない。ほろ苦いチョコレートに、オレンジリキュールの香りがたまらなく絶妙で、大人な味わいになっているな」

「ありがとうございます! オレンジとチョコの組み合わせっていいですよね。わたし、ショコラオランジュも大好きです!」


 いつものように喜んでもらえて、胡桃はホッと胸を撫で下ろした。やはり佐久間のために作ったものを佐久間に褒めてもらえるのは、格別の喜びがある。

 

「しかし今日は、ずいぶんと気合いの入ったものを作ったな。マルシェのお菓子じゃなくてもよかったのか」

「はい! 久しぶりに、佐久間さんのためだけに何か作りたくなって」


 胡桃がニコニコと答えると、佐久間はなんだか悲しそうに、苦しそうに眉を寄せた。また一口ショコラテリーヌを食べて、「……本当に美味い」としみじみ呟く。

 胡桃も一口食べてみると、口当たりがしっとりなめらかで、チョコレートとともにオレンジリキュールが口の中でふわっと香る。素晴らしい出来栄え、と自分で自分を褒めてあげる。


 結局佐久間は、テリーヌをほぼ一人で一本食べてしまった。満足げな表情で、「ごちそうさまでした」と丁寧に手を合わせる。胡桃は「おそまつさまでした」と笑って、紅茶を飲んだ。彼の淹れてくれる紅茶は、いつも上品で優しい味がする。


「……きみの作るものは、何でも美味いな。このテリーヌも、俺が独り占めするのはもったいない」

「いいんですよ! これは、佐久間さんのために作ったんですから。いっぱい食べてもらえて嬉しいです」

「そうか……」


 佐久間はティーカップを持ち上げて、渋い顔のまま紅茶を飲んだ。溜息とともに、小さな声でポツリと呟く。


「……マルシェは、もう明後日か」

「はい! 明日は実家で準備して、そこから直接向かいます。場所は、前に二人でクリスマスマーケットに行った公園で! 11時から開場なんですけど! あ、ここにチラシ置いておきますね」

「……」

「……だから、その……」


 胡桃は佐久間のシャツの袖をぎゅっと掴んだ。小さく息を吸い込んでから、口を開く。


「……佐久間さんも……来てくれる?」


 佐久間は俯くと、ボソボソとか細い声で答える。

 

「……べつに、俺が行かなくてもいいだろう」

「ううん。佐久間さんに来てほしい。わたしの、夢の第一歩だから」


 胡桃は佐久間の両手を取り、ぎゅっときつく握りしめた。眼前にある佐久間が、戸惑ったように瞬きをする。胡桃は彼から視線を逸らさず、まっすぐに彼の瞳を見つめた。


「……わたしが、お菓子作りを仕事にしようって思えたのも……佐久間さんの、おかげなんです」


 他の誰かに自分のお菓子を食べてもらう喜びを教えてくれたのは、他でもない佐久間だ。佐久間が胡桃の価値を見出してくれて、特別なものだと教えてくれた。


 ――俺はきみの才能が、きみのことを必要としている人間に届けばいいと思う。


 あのときの佐久間の言葉は、今も胡桃の胸の中で、宝石のようにキラキラと輝いている。その光は、これから歩んでいく胡桃の行き先を明るく照らしてくれているのだ。


「いっぱい、試作品も食べてもらったけど……本番は絶対、今までで一番美味しく作ってみせます」

「……」

「あっ、クッキー缶もあるんですよ。佐久間さんの好きな、紅茶のクッキーも入ってます。あとお父さんに教えてもらったフィナンシェもあるし、それから……えっと……」

「……」

「佐久間さんにも、喜んでもらえると思うんです……」


 必死で誘い文句を紡いでいた胡桃だったが、佐久間は何も言ってくれなかった。しおしおと勇気が萎れていって、ついに言葉が出てこなくなってしまう。


(誰よりも門出を祝ってほしいひとに、応援してもらえないなんて……)


 思わず涙ぐみそうになり、唇を噛んでぐっと堪える。佐久間に悟られないよう、勢いよく立ち上がると明るい声で言った。


「じゃ、じゃあわたし、今日はもう帰りますね! またね、佐久間さん。また明後日に!」


 胡桃はそう言って立ち上がると、足早に玄関へと向かった。佐久間は無言のまま、後ろをついてくる。精一杯の笑顔を取り繕ってから、最後にくるりと振り向いた。


「……わたし……佐久間さんのこと、待ってますから」


 佐久間は最後まで、何も言ってくれなかった。

 そのまま彼の部屋をあとにして、足早に自分の部屋へと戻る。堪えきれずにぽろりと一粒だけ落ちた涙をごしごしと拭って、マルシェに向けての準備を始めた。

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