27.甘党男子に捧げるショコラテリーヌ(1)

 実家から帰ってきてすぐ、胡桃は杏子に電話をかけて、「杏子さんのお店でパティシエとして働きたいです」と意思を伝えた。杏子は「嬉しいわ。これから一緒に頑張りましょう」と言ってくれた。まるで、胡桃の出す答えなど最初からわかっていた、というような口ぶりだった。

 そしてその翌日の、月曜日には。胡桃は出社するなり、冴島課長に「12月末で退職したい」旨を伝えた。

 冴島は驚いていたが、三ヶ月先の話だったこともあり、特に引き止められることもなく了承してもらえた。胡桃の後任としてもっと優秀な事務職員が来てくれるなら、そちらの方がいいと思ったのかもしれない。

 それからすぐに、栞にも退職する旨を伝えた。少しは残念がってくれるだろうかと期待していたのだが、「そうですか。頑張ってください」という、想像以上にそっけない反応だった。


 それからの胡桃は、平日はこれまで通りに仕事をして、家に帰ったらお菓子を作って、隣人に差し入れをして。週末になると実家に帰って、みっちりと父からの指導を受けて。

 そうして瞬く間に、一ヶ月が経った。




「いやー……糀谷さんがいなくなるなんて、寂しくなるなあ……」


 そう言って、もう何度目になるかわからない溜息をついたのは水羽だった。ビールジョッキをぐいっと呷って、再び「はああああ」と深い溜息をこぼす。


「糀谷さんの笑顔だけが、俺の癒しだったのになぁ……夏原さんはおっかないし……」

「水羽係長、私がここに居ること忘れていませんか」

「ね、糀谷さん。やっぱ辞めるのやめない?」

「いまさら何言ってるんですか! ごめんなさい、わたしもう決めたんです」

「そんなあ……糀谷さんのいない会社なんて、内臓の飛び出さないスプラッター映画みたいなものだよ……」


 がっくりと項垂れる水羽を、隣に座った大和がぽんぽんと肩を叩いて慰める。


「水羽さん、もしかしてまだ胡桃さんのこと諦めてないんですか? これ以上、僕の推しカップルに波乱起こすのはやめてくださいね! 残り話数も少ないですし!」


 10月初旬、マルシェを直前に控えた金曜日の夜。胡桃は水羽と栞、そして何故か筑波嶺大和を交えた4人で、大衆居酒屋のテーブルを囲んでいた。

 最初は水羽と栞と3人で飲んでいたのだが、酒が進んできたところで、唐突に水羽が「あーもう、やってられない。筑波嶺さんを呼ぼう」と電話をかけたのだ。突然のことにも関わらず、大和はすぐに飛んできた。フットワークの軽い男だ。

 大和は焼き鳥盛り合わせをムシャムシャと食べながら、「ところで」と水羽に尋ねる。


「これ、何の集まりなんですか? 僕が居ても大丈夫な感じです?」

「糀谷さんの退職を惜しむ会だよ! 筑波嶺さんも一緒に惜しもう」

「ああ! そういえば胡桃さん、杏子さんのお店で働くんですってね」

「あ、はい! 実際に働くのは、まだもう少し先なんですけど……」


 来年の4月から研修が始まり、実際に店がオープンするのは秋だという。今の胡桃は週末になるたびに実家に帰り、みっちりと父からの指導を受けている。おかげでヘトヘトだが、毎日が充実していて楽しい。


「新しいことに挑戦するひとを見るのは、なんだか眩しくて嬉しいです。僕も陰ながら応援してるので、頑張ってくださいね」

「ありがとうございます!」


 大和に向かってニッコリ笑いかけると、水羽が再び「ううっ、寂しい……」とグズグズ言い始めた。栞が呆れたように肩をすくめる。


「水羽係長、いい加減にしてください。彼女の新しい門出は、おめでたいことでしょう。応援してあげるべきです」

「そりゃ、俺だって応援はしてるよ! でも寂しいものは寂しいの! 夏原さんは、糀谷さんがいなくなって、寂しくないの」

「……。まだ2ヶ月も先の話です。今から悲しんでいては、涙が干からびてしまうわ」


 栞はそう言って、ワイングラスに口をつけた。相変わらずのクールさに、胡桃は内心しょんぼりする。じっと栞を見つめていると、視線に気付いたらしい栞と目が合った。シュンと眉を下げている胡桃を見て、ふいっと視線を逸らされてしまう。

 退職を告げてからの栞は、なんだか妙によそよそしい。最近はランチに誘っても、断られてばかりいる。胡桃は仕事を辞めることより何よりも、栞と離れることが辛いというのに。やはり、彼女と仲良くなれたと思っていたのは胡桃だけだったのだろうか。

 落ち込んでいる胡桃に気が付いたのか、大和が明るい声で話題を振ってくれた。


「それにしても。胡桃さんの会社、美男美女多いですね。例の元カレもイケメンだったんでしょ? 入社するときに顔面審査でもあるんですか?」

「まさか! もしそうなら、わたしは入社できてませんよぅ」

「いやいや、胡桃さんは可愛いですけどね。あっ、でもあんまり言うと佐久間先生がヤキモチやくからやめておきます」


 大和はそう笑って、通りかかった店員にウーロン茶を注文する。胡桃たちは思い思いにお酒を飲んでいるが、大和は一切アルコールを口にしていない。先日佐久間の部屋で飲んでいたし、下戸というわけではなさそうだが。


「そういえば筑波嶺さん、飲まないんですか?」

「はい。車ですし、このあと仕事で佐久間先生のところに行きますから。打ち合わせです」

「うわあ、当然のように労働基準法が破られてますね……」

「そういや、佐久間先生元気? 月末に新作の連作短編出るよね、楽しみだなぁ」

「僕が見る限り、あんまり元気じゃないですけど。まあ、あのひとが元気いっぱいなときなんて、ほぼありませんから」


 大和の言葉を聞きながら、胡桃はぼんやりと佐久間のことを思い浮かべる。


 ――俺は、きみのことを……心の底から応援できない。


 二人で胡桃の実家に帰ったあの日、佐久間はたしかにそう言っていた。あの言葉の意味を、胡桃は未だに佐久間に問いただせずにいる。理由を訊くのが、恐ろしくて。

 表面上はこれまで通りに、胡桃は佐久間にお菓子を差し入れて食べてもらっている。美味しいとたくさん褒めてはくれるものの、本心ではどう思っているのだろうか。

 これまでに彼から貰った、大切な言葉の数々が、もし全部嘘だったらしたら――胡桃はきっと、立ち直れないだろう。


「そういや胡桃さん、ハンドメイドマルシェは明々後日でしたっけ。楽しみですね!」

「そうなんです! もう、今からドキドキで」


 胡桃は父からの指導を受けつつ、マルシェの準備も抜かりなくやっていた。販売するお菓子は、どれも父からのお墨付きを貰った自信作だ。日曜の夜に実家のキッチンで仕込みをして、持って行くことになっている。

 

「もしご都合がよかったら、みなさんも遊びに来てください。あ、でも水羽係長は甘いもの食べられないか……」

「いや、仲間はずれにしないでよ。もちろん俺も行くよ。筑波嶺さん、一緒に行こう」

「……栞先輩も、来てくれますか……?」


 胡桃がおずおずと尋ねると、栞は黒髪を耳に掛けながら「ええ。行きます」と答えた。口調はそっけなかったが、胡桃はホッとする。


(佐久間さんも。マルシェには、来てくれるかな……)


 佐久間は最初から、胡桃がマルシェに参加することに乗り気ではなかったし、もしかすると来てくれないかもしれない。それでもダメ元で、「よかったら遊びに来てください」と伝えてみよう。


 胡桃が手元の酎ハイに入ったライムを弄んでいるうちに、いつのまにか話題が変わっていた。どうやら、水羽が栞と常盤の関係についてせっついているらしい。

 二人のやりとりを隣で聞いていた大和が、「イケメン同期に靡かないクール美女!? 新たなラブコメの波動! 詳しく教えてください!」と鼻息を荒くしていた。

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