26.父と娘とマーブルケーキ(3)

 それから胡桃は、父に製菓の基本の「き」を改めて叩き込まれた。

「まったくなっとらん」「集中しろ」「作業が雑になってるぞ」「ちゃんと温度を測ったのか」「やり直し」などと容赦なくしごかれ、今日はここまで、と言われた頃にはどっぷりと日が暮れていた。


(忘れかけてたけどお父さんの指導、かなりスパルタだった……)

 

 ヘトヘトになった胡桃がリビングに戻ってくると、母と佐久間がまったりとお茶を飲みながら親しげに話していた。母はにこやかに微笑んでおり、佐久間の表情も普段より柔らかい。


「あら、胡桃。お疲れさま」


 胡桃に気付いた母が、そう声をかけてきた。胡桃は「ほんとにつかれたよぉ……」と言いながら、佐久間の隣に腰を下ろす。

 テーブルの上には、父の作ったケーキやクッキーが置いてあった。佐久間はコーヒーを飲みながら、至極幸せそうにモグモグと頬張っている。


「……天国だ。一生ここに住みたい」

「もうっ! 佐久間さんってば、何言ってるんですか!」

「佐久間さん、ほんとによく食べるわね。見てて面白いわ。よかったらこれも食べて」


 どうやら母も、佐久間のことが気に入ったらしい。チョコクリームを挟んだラングドシャを差し出され、佐久間はご機嫌でそれを受け取った。なんだか餌付けをされているようで、胡桃は面白くない。


「ねえ、なんだか楽しそうだったけど……二人で何の話してたの?」

「アンタの話よ。小学生の頃、好きだった先生が結婚して大泣きしたこととか。中学生の頃、好きだった先輩の第二ボタン貰いに行ってフラれたこととか」

「な、なんで佐久間さんにそんなくだらない話するの! 昔の話ですからね、佐久間さん!」

「お父さんの指導が厳しくてワンワン泣いても、翌朝になったらケロッとしてるとか」

「もう! そんな話聞いても、つまんないですよね?」

「いや、なかなか興味深かったぞ。きみという人格がいかにして形作られたのか、少しだけ理解できた気がする」

「……まさか、小さい頃のアルバムとか見てないですよね!?」

「自分はさんざん俺のアルバムを見ておいて、よく言えたものだな。生まれた頃から高校卒業まで、しっかり見せてもらったぞ」

「うわあー! 恥ずかしい……!」


 胡桃は両手で頬を覆う。幼い頃の自分は、それなりに子どもらしい可愛げはあったと思うけれど、天使のように愛らしいわけではなかった。しかし佐久間は満足げに「きみは、赤子のときから今と同じ顔をしていたんだな」と唇の両端を持ち上げた。

 

 お菓子天国を満喫していた佐久間だったが、やがてハッとしたように腕時計に視線を落とす。時刻は、20時を回ったところだった。


「しまった、随分長居してしまったな。そろそろ帰ります」

「あら、泊まっていけばいいのに」

「い、いや。そ、そういうわけには。ご遠慮します」


 母からの申し出を、佐久間は固辞した。それも当然だ。この家に客間などというものはなく、一階はリビングダイニング、二階には胡桃の部屋と父と母の寝室があるだけである。

 そうなると、佐久間は胡桃のベッドで一緒に寝るか、父と母と川の字になって寝るかの二択である。そうなるときっと彼は、川の字を選ぶだろう。


「胡桃はどうするの。帰るの?」

「いや、今日はここに泊まるよ……お父さんが、明日も朝からビシバシ特訓だって!」


 そう言いながらも、胡桃の口元はにやにやと緩む。どれだけ厳しくしごかれたとしても、昔のように父にお菓子作りを教えてもらえるのは嬉しかったし、楽しかった。


「それなら、俺は先に帰るぞ。その前に、きみのお父上にも挨拶しておこう。まだキッチンにいらっしゃるのか」

「うん。おとうさーん! 佐久間さん、帰るよー!」


 胡桃が大声で叫ぶと、キッチンからのっそりと父が出てきた。手には茶色い紙袋を持っている。懐かしいko-jiyaのロゴが入ったものだ。


「ああ、帰るのかね。ちょうどよかった、これを持って帰れ」

「? これは……」

「さっき、胡桃が作ったマーブルケーキだ。最初に作ったものよりは美味いはずだから、食ってみろ」


 それは先ほど、父に教えてもらいながら作ったものだった。粗熱が取れたものをラップして、袋に入れてくれたらしい。佐久間は嬉しそうに「ありがとうございます」と袋を受け取った。

 最後に父と母に挨拶をしたあと、玄関で靴を履いている佐久間に、胡桃は駆け寄る。


「待って。わたし、バス停まで送って行きます」

「道ならわかるから大丈夫だ」

「ううん。わたしがもうちょっと佐久間さんと一緒に居たいだけ」


 胡桃がそう言うと、佐久間は「そういうことなら」とすんなり受け入れてくれた。

 家の外に出ると、二人並んで最寄りのバス停へと向かう。佐久間は最後にチラリと振り向き、シャッターの閉まったかつてのko-jiyaを名残惜しそうに見つめた。


「……今日は、ここに来れてよかった。きみには本当に感謝している」

「それは、よかったです。また遊びに来てくださいね」

「……ああ……」


 そう言って歩き出した佐久間は、妙に言葉少なだった。もともと口数の多い方ではないひとだが、なんだか物思いに耽っているように見える。胡桃も何も言わず、玄関で適当につっかけてきた黒のサンダルをじっと見つめていた。


 バス停に到着して時刻表を確認すると、あと5分ほどで駅に向かうバスが来るようだった。佐久間と二人、バス停のそばにあるベンチに並んで座る。

 九月の夜は蒸し暑く、木製のベンチは未だ昼間の熱を含んでいる。じっとしているだけで汗ばむぐらいの気温だ。どこからともなく聞こえてくる、ジィジィという虫の鳴き声だけが、妙に秋めいている。

 佐久間は膝に乗せた紙袋を、両手で大事そうに抱えていた。中には胡桃の作ったマーブルケーキが入っているはずだ。ko-jiyaの紙袋の中に自分の作ったお菓子が入れられているのは、妙に誇らしいような気がした。


(わたしがもっと努力して、お父さんが守ってきた味を受け継ぐことができたら……佐久間さんは、喜んでくれる?)

 

「ね、佐久間さん」

「……なんだ」

「わたし、いつか……佐久間さんの大好きだったko-jiyaを復活できるように、頑張ります。なかなか簡単には、認めてもらえないと思うけど」

「……」

「だから、佐久間さんも……わたしのこと、応援してくれますか……?」


 佐久間は胡桃の方を見向きもせず、正面を向いたままじっと一点を見つめていた。何かに耐えるように、苦しげに眉間に皺を寄せている。

 やがて、膝の上に置いた胡桃の手の上に、佐久間のてのひらがそっと重ねられた。温度の高い手が、すっぽりと胡桃のそれを包み込む。


「胡桃」

「は、はい」


 佐久間に名前を呼ばれるのは、おそらく二度目だった。一度目は今年のバレンタイン、キスをされそうになったときだ。彼の唇から紡がれるだけで、まるで自分の名前が特別なものかのように感じられる。

 ついに告白かしら、と胡桃の鼓動は早くなる。ドキドキと期待に胸を高鳴らせていたが、佐久間の口から出たのは、予想外の言葉だった。


「……俺は、きみのことを……心の底からは、応援できない」

「え……」


 ガツンと、死角から頭を殴られたような衝撃が走った。「どうして」と尋ねる声が震える。目の前の男はなんだか今にも泣き出しそうな顔で、必死で言葉を絞り出している。

 

「俺は。きみが……」


 そのとき、目の前の停留所にバスが停まった。佐久間ははっとしたように目を見開き、胡桃の手を離す。それから何も言わず、背を向けてバスに乗り込んでいった。胡桃は立ち上がると、その背中に向かって、大きな声で叫ぶ。


「さ、佐久間さん!」


 名前を呼ぶと、佐久間は振り向いてくれた。バスの扉が閉じる寸前に、彼の唇が僅かに動く。それでも、何を言ったのかはわからなかった。

 ぷしゅう、と音を立ててバスが発車する。バスが闇の向こうに消えてすっかり見えなくなるまで、胡桃はその場に立ち尽くしていた。


(ねえ、佐久間さん。応援できないって、どういうこと? さっき、何を言おうとしたの……?)


 胡桃なんかがko-jiyaの看板を継ぐことを、佐久間は良しとしていないのだろうか。胡桃はがっくりと項垂れると、自宅までの道を、一人寂しくトボトボと歩いていった。

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