25.父と娘とマーブルケーキ(2)

 胡桃の実家は、佐久間の生家ほどは広くない。玄関から続く扉を開けると、10畳ほどのリビングダイニングがある。ローテーブルを大人4人で囲んで座ると、リビングはもう満員になってしまった。


「お父さん、佐久間さんのこと覚えてたの?」


 胡桃が言うと、父は「印象的な男だったからな」と答える。母はじいっと佐久間の顔を見つめたあとで、「ああ!」と両手を合わせた。


「思い出した! 毎日お店の前通って、物欲しそうに眺めては帰って行く男の子!」

「……」

「一週間に一回だけ。水曜日に、店に入ってくるのよね。いつも怖いぐらいに真剣な顔で、お菓子を選んでた」

「……そうです。当時は、毎日好きなものを買うだけの金がなかったので」


 母の言葉に、佐久間は気まずそうに頬を掻く。

 店内に並ぶお菓子を睨みつけては、悲しげに帰って行く佐久間を想像して、胡桃は思わず吹き出してしまった。今はいつでも好きなものを好きなだけ買えるようになってよかったなあ、と心から思う。


「お父さん、よくオマケしてあげてたわよね。ちっちゃいマドレーヌとか、メレンゲクッキーとか」

「よく覚えてます。抹茶のメレンゲクッキーが特に美味かった……」

「えっ、そうなの? お父さん、意外と優しいね」

「胡桃と同じ歳ぐらいだろうから、ってね。苦学生なのかなーと思ってたんだけど……そういえば佐久間さん、ご職業は?」

「……作家です。小説を書いています。一応」


 佐久間はちょっと言いづらそうに答えた。胡桃が「佐久間諒って、有名な小説家さんなんだよ」と付け加えると、余計なことを言うな、とばかりに睨まれる。


「へー、佐久間諒先生ね。あとで検索してみよう」


 母はうんうんと頷いていたが、よく考えれば母はホラーやスプラッターが大の苦手だった。佐久間の作風を知って、卒倒してしまわないか心配だ。

 

「それにしても、あのときのお客さんが胡桃の知り合いだなんて。すごい偶然ね。どういう関係なの?」


 母からの問いに、胡桃と佐久間は思わず顔を見合わせて、揃って黙り込んだ。無言の腹の探り合いののち、しばらく考えて、言葉を選びながら答える。


「……お隣さん、なの。その、わたしが住んでるマンションの隣の部屋に、佐久間さんが住んでて……」

「……定期的に、彼女から手作りのお菓子を差し入れてもらっています」


 二人のあいだの微妙な空気を察知したのか、母はそれ以上突っ込むことなく「そうなの。わかったわ」と頷いてくれた。当然、こんな説明で本当に納得しているはずもないのだが、理解のある母親で助かる。

 母の隣に座った父は、なんとも言えない顔で腕組みをしている。昔から、感情が読み取りにくいタイプなのだ。


「あ、そうだわ。お父さん、フィナンシェ作ったんでしょ? せっかくだから食べてもらいましょうよ」


 母が言うと、父は無言で立ち上がり、キッチンへと消えていった。しばらくして、お皿に乗せたフィナンシェを持って戻ってくる。バニラとショコラと抹茶の三種類だ。当然のことながら、ムラなく美しく焼き上がっている。

 目の前に置かれたフィナンシェを見て、佐久間は感極まったように両手を合わせて拝んだ。


「……まさか、再びko-jiyaのフィナンシェが食べられる日が来るとは……俺は今日ほど神に感謝したことはない」

「そこは神様より、わたしに感謝すべきじゃないですか? わたしがここまで連れて来たんだから」


 胡桃がむくれていると、母が飲み物を持って来てくれた。佐久間が淹れてくれるような高級な紅茶ではなく、グラスに入ったアイスコーヒーだ。おそらく、母がスーパーで買って来た紙パックのものだろう。


「佐久間さん、コーヒーでよかったかしら? ごめんなさい、こんなのしかなくて」

「いえ、いただきます」


 佐久間はまるで何かの儀式かのように、厳かな手つきでフィナンシェにフォークを入れた。父は相変わらずの顰めっ面のまま、じっと佐久間のことを見つめている。

 一口フィナンシェを食べた佐久間は、そのままフォークを置いた。下を向いたまま、もの言わず身体を震わせている。ややあって顔を上げた佐久間は、父に向かって深々と頭を下げた。


「……ありがとう、ございます」

「なんだ、急に」

「俺の人生の中で、節目節目で自分を救ってくれたお菓子がいくつかあって。そのうちのひとつが、間違いなくko-jiyaのフィナンシェでした」

「……」

「小説を書くことが、楽しいと思えなくなって。明日の自分がどうなるかもわからない、辛くて苦しかった時期に。俺はずっと、この味に救われてきました。このフィナンシェを食べるために、あの頃の俺は生きてたんです」


 そこで言葉を切った佐久間は、もう一口フィナンシェを齧り、ほうっと息を吐いた。

 

「あの頃と、同じ味がする……もう一度食べられて、本当に良かった」


 佐久間はそう言って、驚くほど幸せそうに微笑んだ。それを見た父は、「ははっ」と目の下に皺を浮かべて笑う。


「そりゃよかった。あんたみたいな奴の顔を見るために、俺は40年間お菓子を作ってきたんだ」


 佐久間と父のやりとりを傍で眺めながら、胡桃はなんだか泣きそうになっていた。何度も何度も瞬きをして、瞼の奥からこみあげてくる熱をやり過ごす。


(……自分の作ったものが……誰かの生きる希望になるのって、素敵なことだ)


 胡桃が生まれ育った、この場所で。人知れず戦っていた佐久間を救ったのは、父が作ったお菓子だった。

 父に感謝したいような、それでいて妬ましいような――複雑な感情が、胡桃の胸に湧き上がってくる。

 悔しいけれど、今の胡桃はまだ、その域には達していない。これまで胡桃は、佐久間にたくさんのお菓子を作ってきたけれど。父の作ったフィナンシェを食べる佐久間の顔が、今までで一番幸せそうだった。

 胡桃はアイスコーヒーで喉を潤してから、カーペットの上で正座をする。膝の上で拳を握りしめ、父に向かって言った。


「あの、お父さん。お願いがあるんだけど」


 持って来ていた紙袋からタッパーを出して、父の目の前で開ける。中に入っているのは、今朝胡桃が作ったパウンドケーキだった。プレーンとココアの生地で、マーブル模様になっている。マルシェのために試作したものだった。


「これ、食べてみてくれないかな」

「なんだ、これは。おまえが作ったのか」


 胡桃は頷く。しっとりしたパウンドケーキは、胡桃の一番得意なお菓子だ。見た目も可愛くマーブル模様にした、なかなかの自信作だった。

 

「……わ、わたし。来月、ハンドメイドマルシェに出店するんだ。そこで、自分の作ったお菓子を販売しようと思ってるの」

「……」

「それと、それだけじゃなくて……アドリエンヌのオーナーから、新しい店でパティシエとして働かないか、って誘われてる」


 父の片眉がぴくりと動いた。眉間に皺を寄せた険しい表情で、こちらを睨みつけている。胡桃は怖気づきつつも、父の視線から逃げずに、真正面から受け止めた。


「お父さん、わたしね。……プロの、パティシエになりたい……」


 本当は、胡桃の気持ちはずっと前から決まっていたのだ。それなのにいつまでもウジウジと悩んで、誰かに背中を押してもらうことばかり期待していた。

 それでも今日、佐久間にとってko-jiyaが、父の作るお菓子がどれだけ大事なものだったかを目の当たりにして。胡桃はようやく、心を決めた。


「……わたし、もっと美味しいお菓子が作れるようになりたい。お父さんみたいに、食べたひとを幸せにするようなお菓子が作りたいの」

「……」

「だからお父さん、お願いします。わたしにもう一度、お菓子作りを教えてください」


 胡桃はそう言って、床に額を擦りつけるぐらいに、深々と頭を下げた。

 父はしばらく黙っていた。母も佐久間も何も言わないので、リビングに重苦しい静けさが落ちる。沈黙に押し潰されそうになったところで、ようやく父が口を開いた。


「……甘ったれるな。プロになるっていうのは、そんなに簡単なことじゃないぞ」


 胡桃はゆっくりと顔を上げた。父は眉間に深い皺を刻み、腕組みをしたままこちらを見下ろしている。


「……おまえが今やっているのも、楽な仕事では当然ないんだろうが……パティシエは体力的にも精神的にも相当キツい仕事だ。ずっと立ち仕事だし、力も使うし、おまけにいろんなことに気を配らなきゃならん。おまえが想像している以上に過酷だぞ」

「わ、わかってるよ……」

「そもそもおまえには集中力と根性が足りんのだ。小さい頃にピアノを習いたいと言ったときも、結局一ヶ月で辞めただろうが」

「で、でも!」


 ずいぶん昔のことを蒸し返してくる父に、胡桃は大きな声で言い返した。

 たしかに胡桃には根性がないし、これまでもいろんなことから逃げ続けながら、流されるようにゆるゆるふわふわと生きてきた。それでもたったひとつだけ、小さな頃からずっと続けてきたものがある。


「でも、でもっ! わたし、お菓子作りだけは、やめなかったっ……! 小さい頃からお父さんに教わってきた、お菓子作りだけは! 今日までずーっと、やってきたもん……!」


 胡桃の言葉を聞いて、父は呆れ混じりの深い溜息をついた。


「趣味で続けるのと仕事にするのとでは、まったく違う。好きなことを仕事にするっていうのは、それ相応の覚悟が必要だ。毎日毎日何時間も厨房に立ち続けてヘトヘトになったそのときでも、おまえはお菓子作りが好きだと言えるのか」

「……それは、そうなってみないとわからないけど……でも」


 ――きみが〝挑戦したい〟と思ったときが、そのタイミングなんだろう。

 ――大事なのは、他の誰かのせいにしない選択をすることだ。


「わたしは今、挑戦したいの。もし後悔する日がきたとしたって……わたしは、この選択を誰のせいにもしないって誓って言える」

 

 胡桃は真正面から、まっすぐに父の顔を見据えた。

 父は一口大にカットしたマーブルケーキを掴み、しげしげと穴が開くほどに眺める。それから大きな口で、ぱくりと齧りついた。咀嚼し飲み込んだあと、やれやれと首を振った。


「悪くない、が……少々生地が重いな。バターに卵を入れるとき、乳化したのをきちんと確認していないだろう。面倒でも都度確認しろと、何度も言っただろうが」

「うっ」


 的確かつ容赦のない指摘に、胡桃はギクリとした。父はもう一口食べて、眉間の皺を深くする。

 

「こんなもんじゃ、売り物にならんぞ。やっぱりまだまだ、俺の指導が必要みたいだな」

「! お父さん……!」

「もう一度、基本から叩き直してやる。キッチンに行くぞ」


 父はそう言うと、立ち上がってスタスタとキッチンに向かう。胡桃も慌てて立ち上がったが、足が痺れてよろめいてしまった。


「ま、待ってお父さん……! わっ」

 

 転びそうになったところを、隣の佐久間が慌てて支えてくれる。心配そうにこちらを見つめる佐久間に向かって、胡桃は笑ってピースサインをしてみせた。

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