24.父と娘とマーブルケーキ(1)
胡桃の実家は東京の端っこで、電車とバスを乗り継いで一時間ほどの場所にある。それほど遠いわけではないし、何も言わずに突然帰ることもあるのだが、胡桃は事前に連絡をしておくことにした。父には家に居てもらわないと困るからだ。
実家に帰る3日前の夜。母に電話をかけると、ワンコールですぐに出てくれた。
『胡桃? いきなりどうしたの』
「あ、お母さん。わたし、今週末に帰ろうと思うんだけど……いいかな」
『別にいつでも帰ってきたらいいわよ、アンタの家なんだから』
「……週末、お父さん家にいるよね?」
『いるわよ。キッチンに閉じこもってお菓子作ってるか、散歩するかしかしてないわ。最近は腰の調子も良いみたいだし』
「そうなんだ。ならよかった……それで、あのね」
そこで胡桃は短く息を吸い込んで、素早く唇を湿らせてから、言った。
「……お父さんに、とっても大事な相談があるから、絶対家に居てねって伝えておいて!」
『……大事な、相談?』
「その……わたしの将来に関わる、大事なことだから……」
『! わ、わかったわ。外出しないように、ちゃんと伝えておく』
「うん、よろしく。じゃ、また週末にね!」
胡桃は電話を切って、ホッと息をついた。切ったあとで、佐久間を連れて行くことを伝えておいたほうがよかったかもしれない、と思ったが、わざわざかけ直すほどでもないだろう。
そして訪れた、9月最初の土曜日。胡桃は佐久間とともに、胡桃の実家へと向かっていた。
バスに揺られながら頬杖をついている佐久間は、先ほどから視線を彷徨わせ、ソワソワと落ち着きない様子を見せている。きっと大好きなko-jiyaのパティシエに会えるのが、楽しみで仕方がないのだろう。
(……あなたの大好きなお菓子屋さんはわたしの実家だし、パティシエはわたしのお父さんなんですけど! ちょっとは緊張するとか、ないのかな……)
なんだか面白くない気持ちになって、胡桃は隣の彼を軽く睨みつけた。端正な横顔の向こう側に流れる景色は、東京都内とは思えないほど長閑だ。田んぼや畑が多く、四方は山に囲まれている。
すると、佐久間が窓の外を向いたまま、ふいに「懐かしいな」と呟いた。もしかして、と思った胡桃は尋ねる。
「佐久間さん、このあたりに住んでたことがあるの?」
胡桃の実家であるko-jiyaは、地元のひとしか訪れないような小さな店だ。雑誌やテレビに取り上げられるような、有名店ではない。佐久間がko-jiyaを知っていたということは、意外と近くに住んでいたのではないか、と思っていたのだ。
「ああ。デビューして4年目だったから……もう、7年前になるか。この街で一人暮らしを始めた」
「なんでこんなとこに? 都心からは結構離れてるし、不便でしょ?」
「家賃が安かったからだ。当時は金がなかったからな」
「そうなんだ……」
7年前、というと胡桃はまだ実家から大学に通っていたはずだ。当時佐久間が自分の家に来ていたなんて、なんだか不思議な気がする。
「……当時の俺は、鳴かず飛ばずで一番どん底の時期だったからな」
「佐久間さんにも、そんな時代があったんですね」
「良かったのは最初だけで、下積みが結構長かったぞ。この街には、ろくでもない記憶しかないが……ko-jiyaの……きみのお父さんが作ったお菓子だけが、幸せな思い出だな」
今は順調そうに見える佐久間だけれど、作家業が軌道に乗るまでは、辛いこともたくさんあったのだろう。才能を武器にして生きる人間の苦悩は、きっと胡桃の想像も及ばないところにある。
佐久間はバスの外を流れていく景色を眺めて、遠い目をしている。胡桃はその横顔を見つめながら、難しい顔でキッチンに立っていた、かつての父の姿を思い出していた。
バスを降りると、佐久間は胡桃が案内するまでもなく、胡桃の実家に向かって歩き出した。住宅街のはずれの、ややわかりにくい場所にあるのだが、彼の足取りには迷いがまったくない。未だに覚えているほど、よほど足繁く通っていたのだろう。
胡桃の家の目の前で、佐久間はぴたりと立ち止まった。自宅のすぐ隣にあるko-jiyaの店舗は、もうずっとシャッターが閉められている。やけに寂しげな声で、佐久間がポツリと呟いた。
「……本当に。もう、ないんだな……」
その声を聞いただけで、彼にとってko-jiyaがどれだけ大切な存在だったのか、痛いほどに思い知らされた。胡桃は俯いて、下唇を噛み締める。
(きっと、佐久間さん以外にも……ko-jiyaがなくなって悲しい思いをしたひとは、たくさんいたんだろうな)
店を訪れていた常連たちが、声を揃えて「残念だ」と言っていたことは、胡桃もよく知っている。
顔を上げた胡桃は、湿っぽい空気を跳ね飛ばすように、明るい声を出した。
「佐久間さん。ご存知だと思いますが、ここがわたしの実家です! お父さんにも、ちゃんと家に居るように伝えておいたので、会えると思いますよ!」
「……そ、そうか」
佐久間は前髪を軽く直し、自分の格好を確認している。今日の彼はブルーの七分袖シャツにネイビーのスラックスという、いつも以上にきれいめなスタイルである。普段より強張っている彼の顔を見て、胡桃は目を丸くした。
「あれ。佐久間さん、もしかして緊張してる?」
「この状況で、緊張しない男がいるのか」
「……それって、ここが大好きだったお菓子屋さんだから? それとも、わたしの実家だから?」
胡桃の問いに、佐久間は数秒考えたのち、口を開いた。
「……両方だ」
「それなら、いいです」
その答えに満足した胡桃は、にんまり笑って家の扉を開ける。隣の佐久間が、ぴんと背筋を伸ばすのがわかった。
「ただいまぁ!」
「おかえりー」
玄関に入るなり、元気いっぱいに挨拶をすると、パタパタとスリッパを鳴らして母がリビングから出てきた。胡桃の隣に立っている佐久間の顔を見るなり、ギョッと大きく目を見開く。
「……胡桃。そ、そちらの方は……」
「あっ。えーと、彼はわたしの……」
佐久間との関係を説明しようとして、やっぱり困ってしまった。いっそのこと「わたしの恋人です」と紹介してやろうかしら、と思っているうちに、佐久間がずいと一歩前に出た。
「突然申し訳ありません。佐久間凌と申します。胡桃さんには、いつも大変お世話になっております」
(……佐久間さんってちゃんと敬語とか使えるタイプだったんだ)
すらすらと紳士的な挨拶をした佐久間に、胡桃は驚く。普段は社会性の欠片もない男だが、どうやら意外と常識的な面も持ち合わせていたらしい。
母は呆気に取られたようにぽかんと口を開いて、佐久間と胡桃を交互に見つめる。それから、胡桃に向かっておそるおそる尋ねてきた。
「……やっぱり〝大事な話〟って、そういうことだったの?」
「え?」
「電話もらった時点で、もしかして、と思ってたけど……でもお正月に会ったときは、そんな予定全然ないって言ってたのに」
「ちょ、ちょっと待ってお母さん」
胡桃は母の言葉を慌てて遮った。どうやらこの流れだと、佐久間が結婚の挨拶に来たものだと思われているらしい。
「あの、け、結婚とか! そ、そういうのじゃないから。まだ! 現時点では!」
「じゃあ、大事な話って何なのよ」
「それは、あとからちゃんと話すから! そ、そういえばお父さんは!?」
今回の帰省の目的は、父と話をすることである。母はリビングに向かって「ちょっと、お父さーん! 胡桃が帰ってきたわよー!」と大声で叫ぶ。
ややあって、いつもの三倍ぐらいに厳しい顔をした父が、リビングからのっそりと姿を現した。ギロリと眼光鋭く、佐久間のことを睨みつけている。
(か、勘違いして殴りかかったりしないよね!? いきなり「うちの娘はやらん」とか言われたらどうしよう……ま、まだそんなんじゃないのに……)
そういえば今まで付き合っていた歴代の彼氏を、実家に連れてきたことは一度もなかった。胡桃の父は頑固で昔気質なところがあるし、もしかすると娘の恋人への当たりが厳しいタイプなのかもしれない。
胡桃は父の前に立ちはだかると、佐久間を庇うように両腕を大きく広げた。
「お、お父さん。ただいま! えーと、このひとはね……わたしの……」
「……ずいぶんと、久しぶりだな」
「そ、そうだね。お正月ぶりだね」
「おまえのことじゃない。そっちの兄ちゃんだ。5年ぶりぐらいか?」
父はムスッとした顔で、佐久間の方を顎でしゃくる。佐久間は「え」と言って瞬きをした。
「……覚えてるんですか」
「ああ。しょっちゅう、ウチの店に来てただろ。毎回フィナンシェを買ってた」
「そ、そうです」
「ちょうどよかった。胡桃が帰ってくると言うから、フィナンシェを焼いたんだ。たくさんあるから、あんたも食うといい」
父はそう言ってくるりと背中を向けると、スタスタとリビングへと戻って行く。胡桃が呆気に取られているあいだに、佐久間はまるで少年のように瞳を輝かせて、父の背中を追いかけていった。
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