23.試行錯誤のガレットブルトンヌ(2)

(うーん、困ったなあ……誰か、的確なアドバイスくれそうなひと、いないかなぁ……もっともっと、美味しいものを作れるようになりたいのに……)


 ダージリンティーを飲みながら胡桃が考え込んでいると、ローテーブルの上に置いてある佐久間のスマートフォンが鳴った。

 胡桃の隣に座った佐久間は、手を伸ばしてディスプレイを確認する。その瞬間、露骨に嫌な顔をした。


「誰ですか? もしかして筑波嶺さん?」

「……いや……」

「わたしのことは気にせず、出てもいいですよ」


 胡桃の言葉に、佐久間は無言でスマホを差し出してきた。反射的に受け取ると、ディスプレイには「杏子」と表示されている。


「杏子さん?」

「……今、あいつと話す気になれない。きみが出て、適当に相手をしてくれ」

「えっ、ええ〜? いいのかな……」


 胡桃は躊躇いつつも、受話ボタンをタップした。スマホを耳に当てて「く、胡桃です」と言うと、『あらあらぁ!』という甲高い声が響く。


『胡桃ちゃん!? ごめんなさい。わたし、凌の電話にかけたつもりだったんだけど、間違えちゃったかしら?』

「い、いえ。合ってます。佐久間さんのスマホです」


 胡桃が慌てて言うと、電話の向こうで杏子が黙り込んだ。数秒ののち、『……ん? ちょっと待って?』と小声で呟く。


『こっちはサマータイムで19時なんだけど……今、日本って何時だったかしら?』

「……深夜2時……ですね」

『……あら……』


 改めて口にすると、なかなかすごい時間帯だ。もうとっくに慣れっこになってしまったけれど、深夜2時に恋人でもない男性の部屋で、ソファに並んで座って、お菓子を食べて紅茶を飲んでいる。常識に照らし合わせると、とんでもないことだ。

 

『……もしかして、凌が今隣で裸で寝てる、なんてことないわよねぇ?』

「ま、まさか! 佐久間さんもわたしもちゃんと服着てます! 大丈夫です!」


 胡桃の言葉に、佐久間がギョッとした顔でこちらを向いた。


「な、なんなんだ。一体何の話をしてるんだ」

「もうっ、佐久間さんのせいで変な勘違いされてますよ!」 

『それならいいのだけど……いや、いいのかしら……そんなことより! ちょうどよかったわぁ。凌に電話したのは、胡桃ちゃんの様子を訊こうと思ったのよ』


 杏子の言葉に、胡桃は内心ギクリとした。一緒に働かないか、という申し出の返答はまだしていない。もしかすると、佐久間経由でやんわり督促をするつもりだったのだろうか。

 

「あっ! あの……お店の件は……まだ決められてなくて……その、もう少しだけ……」


 胡桃が口籠っていると、杏子はのんびりした口調で『そのことなら、まだいいのよぉ』と答える。

 

『胡桃ちゃん、ハンドメイドマルシェに参加するんでしょう? 大和くんから聞いたわ』

「あ、実はそうなんです」

『10月って言ってたかしら? 絶対、わたしも買いに行くわね! 加賀見さんも連れて行くから!』

「ひっ、ひええ……ありがとうございます……!」


 アドリエンヌのオーナーとチーフパティシエが揃って買いに来るとなれば、半端なものを作るわけにはいかない。ますます気合いを入れなければ、と胡桃は背筋を伸ばす。


(ちょっと、緊張するけど……杏子さんに食べてもらえたら、アドバイスもらえるかなあ)


 胡桃は膝の上でぎゅっと拳を握りしめると、勇気を振り絞って尋ねた。


「……あの、杏子さん。近いうち、日本に帰国される予定、ありますか?」

『それが、結構忙しくて。マルシェの日には帰るつもりだけど……何かあったかしら?』

「今、マルシェの試作品を作ってるんですけど……自分じゃよくわからないから、誰かにアドバイスをいただけたら、と思って。よ、よかったら、杏子さんに食べていただきたいんですけど……」

『素敵ね。向上心があるのは素晴らしいことだわぁ』

「佐久間さんに訊いても、改善点なんかない、全部美味しいって言われちゃうし……」

『あらあら、まあまあ。惚気かしら』


 電話の向こうで、杏子がクスクスと笑っている。胡桃は恥ずかしくなって、「いえ、そういうつもりでは」と慌てて否定した。


『でも、ごめんなさい。喜んで引き受けたいところなんだけど……やっぱり、10月までに帰国できそうな日程がないわねぇ』

「そうですか……無理言ってすみません」

『でも、わたしより……胡桃ちゃんがまず助言を求めるべきひとは、他にいると思うわ』

「え? 誰ですか?」

『あなたのお菓子作りのお師匠さんよ』


 杏子が誰のことを言っているのか、胡桃は瞬時に理解できなかった。少し考えてから、自分のお菓子作りの師は一人しかいないことに気付く。


「わ……わたしの父ですか!?」

『ええ。あなたの作るお菓子、基本がとてもしっかりしているもの。きっと素晴らしい先生なのだと思うわ』

「で、でも……」


(もしわたしがこれから、プロのパティシエになりたいって言ったら……お父さんはまた、わたしにお菓子作りを教えてくれる……?)


 そんなことを考えて、きっと教えてはくれないだろうな、と落ち込んだ。

 胡桃は自分が就職するときも、父が腰を痛めて店を閉めることになったときも、ko-jiyaを継ぐ、なんてことは少しも考えなかった。そんな薄情な娘が、いまさら教えを乞いに来たところで、「ムシが良すぎる」と突っぱねられるのが関の山だ。


「……たぶん、無理だと思います。素人に教えることなんてないって……きっと怒られちゃう」

『あらあらぁ、そうなの? なかなか、職人気質なお父様なのねぇ』


 杏子はのほほんとした口調でそう言ってから、ワントーン低い、真剣な声色で続けた。


『……でもね、胡桃ちゃん。あなたが本気で何かを成し遂げようとするならば、それ相応の覚悟が必要だと思うわ』

「覚悟……」

『せっかく素晴らしい先生が身近にいるのだから、地べたに這いつくばって、頭を下げてでも教えを乞いなさい。ご実家には立派なキッチンもあるんでしょう』

「……」

『あなたは世の中のパティシエ志望の人間が望んでも手に入らないものを、たくさん持っている。利用できるものは利用しないと損よ』

「はい……」


 若くして成功したオーナーの言葉には、相応の説得力があった。強い口調に押されるように、胡桃は頷く。『それじゃあ頑張ってね、胡桃ちゃん』と言って電話を切った杏子の声は、いつもの優しいものに戻っていた。


 ツーッツーッという電子音を聞いたあと、胡桃はスマートフォンを佐久間に返した。しょんぼりと俯く胡桃の顔を、佐久間が心配そうに覗き込んでくる。


「どうした。杏子に苛められたのか」

「い、いえ。違います!」

「あの女は、意外とズバズバものを言うからな。気にすることはない」


 佐久間はそう言って、優しい手つきで胡桃の背中を撫でてくれる。初めて会った頃に比べると、彼もずいぶんと胡桃を慰めるのが上手くなったものだ。

 そっと身体を寄せると、佐久間はぎこちなく胡桃の肩に腕を回してきた。彼の胸に頭をもたせかけながら、胡桃は囁くように言う。


「……杏子さんが。わたしのお父さんに、教えを乞うべきだって」

「……そうか」

「わたし、実家に帰って……一度父と、話してみようと思います」


 今後胡桃がどんな道を選ぶにせよ、〝もっと美味しいものを作れるようになりたい〟という気持ちに変わりはない。本気でそう願うならば、きっと父に頭を下げるのが一番の近道なのだろう。杏子の言う通り、胡桃は恵まれているのだ。


「もしかしたらお父さんは、もうとっくにわたしのことなんて見限ってるかもしれないけど」


 そう言って力なく微笑むと、肩に回された腕に力がこもった。顔を上げると、佐久間は真剣なまなざしでこちらを見つめている。


「どうかしました?」

「……俺も、一緒に行ってもいいか」

「え、どこに」

「きみの実家だ」

「……はい?」


 真顔で言ってのけた佐久間に、胡桃はキョトンとする。一体このひとは、何を言っているのかしら。


「……え? わ、わたしの実家に? 佐久間さんが?」

「当然、来るなと言うなら、諦めるが」

「あ、いえ! その……」


 胡桃は躊躇った。来てほしくないわけではないが、自分の実家に異性を連れて行く、というのは、相応の意味を持つものである。現に胡桃が佐久間の実家に行ったときも、彼の伯母は胡桃のことを佐久間の恋人だとすっかり勘違いしていた。


(それって、一体どういう立場で来るつもりなんですか!?)


 胡桃と佐久間の関係は、現状非常にフワフワしたものである。まだ恋人ではないが、実家に連れて帰る以上、父と母はそうは思わないだろう。

 胡桃はしばし考え込んだあと、口を開いた。


「……そう、ですね。じゃあ、佐久間さんも一緒に来てください」


 佐久間を家族に会わせたい気持ちもあったけれど、結局のところ胡桃は、一人で父と向き合うのが少し心細かったのだ。

 胡桃の言葉に、佐久間は嬉しそうに表情を綻ばせる。もしかすると彼の申し出に深い意味はなくて、ただ単に胡桃の父が作るお菓子を食べたいだけなのかもしれない。彼の意図はどうあれ、まずは外堀を埋めておこうかしら、なんてずるいことを考えてしまった。

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