22.試行錯誤のガレットブルトンヌ(1)
「さあさあ栞先輩、どうぞ召し上がってください! そして感想を聞かせてください!」
昼休みが始まるなり、栞を捕まえた胡桃は食堂に引っ張っていき、クッキーが入った小袋を手渡した。栞は呆れた顔で溜息をつく。
「私、あなたと仲良くなってから体重が3キロも増えたわ」
「え!? 栞先輩、わたしと仲良しだと思ってくれてるんですか!? 嬉しいです! わたしも大好き!」
胡桃が投げキッスを飛ばすと、栞は真顔のまま叩き落とすジェスチャーをした。こういう意外なノリの良さも、栞の好きなところである。
「でも、美味しそうね。見た目も可愛らしいし」
「でしょでしょ! でも生地を絞り出すのが結構大変で、あやうく上腕二頭筋がムキムキになっちゃうとこでした!」
胡桃が持ってきたのは、真ん中に赤と緑のドレンチェリーを乗せた、どこか懐かしさを感じる絞り出しクッキーだ。焼く前のクッキー生地は意外と硬く、天板の上に綺麗に絞り出すのになかなか苦労した。
夏休みも終わった、8月の末である。
胡桃はここ一ヶ月ほど、ハンドメイドマルシェに出店するお菓子をあれこれ試作している。改良を重ねようと思ってはいるのだが、どうにも採点が甘くなってしまう。自分で作ったお菓子は、どれもこれもとびきり美味しく感じるのだ。
(そりゃそうか……自分が一番好きな味で作ってるんだもんね……)
基本のレシピは父に教わったものではあるものの、少しずつ自分好みにアレンジを加えている。やはり冷静な第三者の助言がないと、ブラッシュアップは難しい。
そこで胡桃は試作品を会社に持ってきて、栞に食べてもらうことにしたのだ。最初は栞も喜んでいたが、一週間も続くとさすがにげんなりしてきたらしい。
「ずいぶんいろいろと作ってるみたいだけれど……何を販売するつもりなの?」
「そうですねえ……わたしの得意なパウンドケーキと、フィナンシェとマドレーヌとマフィン、あとクッキー缶を作ろうと思って!」
見た目もおしゃれな缶の中に、さまざまなクッキーがぎっしり詰め込まれたクッキー缶は、まさしく幸せの象徴である。胡桃もいつか、自分のオリジナルのクッキー缶を作りたいと目論んでいたのだ。今日作ってきた絞り出しクッキーも、クッキー缶に入れるときっと可愛くなるだろう。
お弁当を食べたあと、栞は絞り出しクッキーに齧りついた。白い頬を緩ませて「うん、美味しいわ」と嬉しそうに頷いている。やっぱり栞先輩の笑顔は最高、と胡桃はうっとりとしていた。
「美味しいならよかったです! どうですか!? 具体的に、もっとこうしたらいいとか……」
「ごめんなさい。細かいことはよくわからないわ」
「そ、そうですよね……」
栞はお菓子作りのプロではないのだから、当然である。正面に座った栞は、ボトルに入ったお茶を飲みながら、美しい仕草で首を傾げた。
「たくさん食べさせてもらって、なんだか申し訳ないわ。私は味見役に適さないと思うのだけれど」
「そんなことないです! だって栞先輩、正直じゃないですか。こないだだって、わたしのクッキーはもう食べられない〜とか言ってたのに、アドリエンヌのサブレは平らげるし……」
「まあ、根に持つわね」
栞は肩を竦めた。水羽のくれたサブレを食べて以来、栞はアドリエンヌのお菓子の虜になってしまったらしく、予約戦争にチャレンジしては肩を落としているようだ。
当然のことながら、胡桃の作るものはアドリエンヌのそれには遠く及ばない。栞の反応を見れば、それぐらいわかる。
「でも、褒めてるんですよ。わたし、栞先輩のそういうところが好きなので」
栞はいつだってまっすぐで正しくて、嘘をつかないひとだ。具体的なアドバイスなんてなくたって、彼女の口から「美味しい」の言葉が聞けるだけで、胡桃は安心できるのだ。
「でも味見をしてもらうなら、もっと適任者がいるでしょう。スイーツが大好きな、あなたのお隣さんは?」
「佐久間さんには、当然味見してもらってますよう。その絞り出しクッキーも、ゆうべ食べてもらいました」
「あら。それなら、私に食べさせる必要はないんじゃない?」
「うーん、それはそうなんですけど……」
胡桃はサクッと音を立てて、絞り出しクッキーを食べる。卵白を使用した軽めの食感で、とっても美味しい。佐久間も昨夜、美味しいと言ってたくさん食べてくれた、けれど。
「……わたし、気付いたんですけど。実はあのひとこそ、味見役に一番向かない気がしてるんですよねえ……」
会社から帰った胡桃は、晩御飯もそこそこにお菓子作りを始めた。今日作るのは、ガレットブルトンヌという、バターがたっぷり入った厚焼きのサブレだ。
通常のクッキーと比較してもバターの配合が非常に多く、なんと粉と同じぐらいの分量のバターが入っている。栞はおそらくカロリーを気にするだろうが、やはりカロリーは美味しいのだ。
まずは室温に戻しておいたたっぷりのバターを、ゴムベラでクリーム状にする。塩と粉砂糖を加えて混ぜ合わせ、ハンドミキサーで白っぽくなるまで撹拌。卵黄とラム酒を入れて、さらに撹拌。余った卵白は、今度メレンゲクッキーでも作ることにしよう。
ふるっておいた薄力粉、アーモンドプードル、ベーキングパウダーを入れて混ぜる。ここで、練らないように充分注意が必要だ。ひとまとまりになったところで、生地の完成。
生地をラップで包んで、ルーラーを使って縦長の形に伸ばす。そのまま冷蔵庫で3時間ほど休ませたあと、丸く型抜きをして、再び冷蔵庫で30分休ませる。卵黄と牛乳を合わせたものを表面に塗って、交差した三本ラインの模様をナイフでつけておく。200℃に予熱したオーブンを170℃に下げて、30分焼いたら完成だ。
20時から作り始めたというのに、完成したのは深夜1時だった。起きているとは思うが、一応ベランダに出て隣の部屋の電気が点いているのを確認してから、佐久間の元へと向かう。
「待っていたぞ。今日は何を作ったんだ」
インターホンを押すなり、すぐに佐久間が顔を出した。胡桃は佐久間に向かってタッパーを差し出す。
「ガレットブルトンヌです」
「最高だ。やはりきみは素晴らしい」
佐久間に感極まった様子で両手を握られ、いつものことだが少し照れた。彼は深夜の方が比較的テンションが高い。
「座っていてくれ。すぐに紅茶を淹れる」
ここ最近、毎日のように試作品を持って行っているため、佐久間はやけに上機嫌だ。「マルシェに参加しようと思っている」と伝えたときの不満げな反応は、いったい何だったのだろうか。あのときはたまたま、虫の居所が悪かっただけなのか。
「昨日は絞り出しクッキーで、今日はガレットブルトンヌか」
「はい! 実は、マルシェで販売するクッキー缶に入れようと思ってるんです」
「……ほう」
「わたしのオリジナルのクッキー缶を作ろうと思ってて。せっかくだから、オシャレな名前もつけちゃおうかなあ……ねえねえ佐久間さん、何がいいと思う?」
「……なんで俺に訊くんだ」
「だって、作家さんでしょ! 小説家のセンスでひとつ、お願いします!」
胡桃が冗談めかして言うと、「俺にそういう期待をするな」とパチンと額を弾かれた。しかし茶葉を蒸らしながら、真剣な表情で考えてくれている。
ややあって、佐久間が小さな声でぽつりと呟いた。
「……ma douce noix 《マ・ドゥース・ノア》」
「へ!? クッキー缶の名前ですか!? ま、待って! メモします!」
「……いや……気に入らないなら、べつに」
「ううん、素敵です! オシャレ! ありがとう、佐久間さん!」
意味はよくわからないが、きっとフランス語だろう。胡桃がはしゃいで抱きつこうとすると、耳を赤くした佐久間に「紅茶を淹れているときにふざけるな! 危ないだろう!」と叱られてしまった。
リビングに移動すると、二人並んでソファに腰を下ろす。佐久間はローテーブルの上にティーセットを置いた。
「ストレートのダージリンだ。バターの香りを邪魔せず、より引き立ててくれる」
「ありがとうございます。じゃ、さっそく食べてください!」
佐久間は「いただきます」と手を合わせてから、ガレットブルトンヌに齧りつく。その瞬間に幸せそうに綻ぶ表情を、胡桃はニコニコと眺めている。
「想像以上の美味さだ……外側は香ばしいザクザクとした歯ごたえで、口の中でバターたっぷりの生地がホロホロと崩れていく。ほんのり感じる塩味と、ふわっと香るラム酒の風味もまた、たまらない」
「うふふ、ありがとうございます!」
いつものように褒め言葉に酔いしれていたところで、胡桃ははっと我に返った。
「だ、だめです佐久間さん! もっと、こう……改善点を教えてください!」
「そんなものはない」
「そんなぁ……これじゃあ、わたしが一人で気持ち良くなるだけで終わっちゃいます……」
「な、なんできみはそう語弊のある言い方をするんだ」
「ね、昨日の絞り出しクッキーとどっちが美味しい?」
「どちらも甲乙つけ難いな。序列をつけられるものではない」
「んもー! 佐久間さんはそればっかり!」
胡桃は頬を膨らませて、佐久間の背中をぽこぽこ叩く。佐久間は「きみは一体何が不満なんだ」と眉を寄せている。
「佐久間さんは、わたしの作ったものなんでも美味しいって言うから……参考にならない……」
「全部本当に美味いんだから仕方ないだろう」
しれっと答えた佐久間に、胡桃はがっくりと肩を落とした。褒めてくれるのは嬉しいのだけれど、今はちょっと困る。
普段はちっとも甘くない(いや、最近はちょっと甘い)、口と態度の悪い甘党男は、胡桃が作ったお菓子に対しては甘々なのである。
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