21.負けず嫌いのロールケーキ(2)

 一歩外に出ると灼熱のような日差しが注いでおり、太陽の光で溶けてしまわないように、二人は足早に地下鉄の駅へと向かった。タイミング良くホームに到着した電車に乗り込むと、ひやりと冷たい空気にほっとする。

 先ほどまでよれたTシャツにスウェット姿だった佐久間は、紺色の半袖シャツとチノパンに着替えている。結構きちんとした格好だ。


「佐久間さん、ちゃんとオシャレしてきたんですね。お菓子買いに行くだけなのに」

「何を言ってるんだ。お菓子を買いに行くときこそ、身なりを整えないと失礼だろう」

 

 胡桃は思わず吹き出した。そういえば彼は、お菓子に対しては最大限の敬意を払うべき、という男なのだった。

 クーラーの効いた車内はまるで天国だったが、幸せとは儚いもので、すぐに目的の駅へと到着してしまった。「降りるぞ」と促され、胡桃は渋々下車する。


「この駅、降りるの初めてです」

「ここから少し歩くぞ」

「はい……」


 佐久間と一緒とはいえ、真夏の炎天下を歩くのはちょっとげんなりする。日傘をさしていても、アスファルトからじりじりと立ちのぼってくる熱に、焦げついてしまいそうだ。

 隣を歩く佐久間の額にも汗が滲んでいる。日傘がないぶん、胡桃よりももっと暑いだろう。赤信号で立ち止まったタイミングで、そっと彼に日傘をさしかけてあげる。

 二人で黙々と歩いていくと、なんだか周りの風景が怪しげになってきた。それほど広くはない道の両脇には、キャバクラやガールズバー、風俗店がずらりと並んでいる。やけに扇状的な文句が書かれたピンクの看板を横目に、胡桃は前を歩く佐久間に「あの」と声をかけた。


「一応、確認ですが……お、お菓子を買いに行くんですよね?」


 佐久間のことを疑っているわけではないが、少し不安になってきた。足を止めて振り向いた佐久間は、怪訝そうに眉を寄せている。


「? さっき、そう言っただろう」

「そ、そうですよね……」


 妙な勘ぐりをしてしまった自分が恥ずかしく、胡桃は頬を染めて俯く。タイミングの悪いことに、二人が立ち止まった場所はラブホテルの真ん前だった。やや安っぽい紫色の建物に、古ぼけたネオンライトでホテルの建物が書かれている。

 佐久間もようやく今自分がいる場所に気付いたのか、小さく「あっ」と声をあげて狼狽する。


「……ち、違う! べつに下心があって、ここに連れてきたわけじゃない! 本当に、この近くに店があるんだ!」

「だ、大丈夫です! わ、わかってます! 信じてます!」


 胡桃がこくこく頷くと、佐久間は真っ赤な顔で足早に歩き出した。もうほとんど競歩選手日本代表みたいなスピードだ。「休憩3時間3000円〜」の看板を見ないふりしながら、胡桃は小走りで彼を追いかける。


 ようやく到着したお菓子屋さんは、「本当にこんなところに?」と言いたくなるような雑居ビルだった。

 エレベーター横にあるテナント案内を見ると、居酒屋やスナックに紛れて、「スイーツ ココット」という店名が書かれている。佐久間はエレベーターに乗り込むと、迷わず5階のボタンを押した。

 5階で降りると、白い扉の前に小さな黒板が置かれていた。どうやら、本日販売されているお菓子のラインナップが書かれているらしい。イチジクとアールグレイのマフィン、バナナとココアのスコーン、ブラッドオレンジのタルト、そしてロールケーキ。

 ワクワクと心をときめかせながら扉を開くと、「いらっしゃいませ!」という声に迎えられる。カウンターの上に焼き菓子が並べられているが、もう何種類かは売り切れているようだった。

 店にいるのは一人だけで、胡桃と同世代の若い女性だった。どうやら彼女が店主らしい。佐久間の顔を見るなり、ぱあっと嬉しそうに瞳を輝かせる。


「あっ、さくまさん! こんにちは!」


(……さくまさん?)


 思いのほか親しげなトーンに、胡桃は思わず身構えてしまった。佐久間は無表情のまま「こんにちは」と挨拶を返す。


「いつもありがとうございます! お待ちしてました! そろそろいらっしゃるかなーと思ってたんです」

「ああ」

「さくまさん、ご予約の一番乗りでしたよ」

「ロールケーキの告知を見て、いの一番に予約したからな」

「お取置きの商品、すぐ用意しますね」


 店主は焼き菓子をひとつずつと、冷蔵庫から取り出した箱を紙袋に詰めた。店主が準備をしているあいだに、佐久間は胡桃に話しかけてくる。


「ここの焼き菓子はどれも美味いが、中でも一番のお薦めはロールケーキだ。ふわふわの生地に口当たりが滑らかな生クリームが最高だ。帰ったらきみも一緒に食べよう」

「……へえ。そうですか」


 少しは慣れてきたとはいえ、佐久間が自分以外のひとが作ったお菓子を褒めていると、なんだか面白くない気持ちになる。とはいえ、目の前に並んだお菓子を見ていても、美味しそうなことには間違いない。嫉妬で胸中が掻き乱されて、たいへん複雑だ。

 胡桃が口元をもにゃもにゃさせていると、佐久間は「どうしたんだ」と不思議そうに瞬きをした。


「……あの店員さん、お知り合いなんですか?」

「知り合い、というわけではないが……何度も店を訪れているうちに、顔を覚えられてしまったらしいな」

「ふぅん。そうですか」

「何をそんなに拗ねているんだ」

「いえ、べつに……」


(こんなに素敵なひとがしょっちゅうお菓子を買いに来てくれたら、わたしだったら絶対好きになっちゃう……)


 胡桃の胸に、にわかに不安が湧き上がってきた。頭がボサボサでスウェット姿の佐久間は人相の悪い不審者だが、おでかけモードの佐久間はただの爽やかイケメンである。


「お待たせいたしました!」


 そのとき袋詰めを終えた店主が、にこやかな笑顔で紙袋を差し出してきた。佐久間は「ありがとう」とそれを受け取る。店主は胡桃の方をチラリと見て、ふふっと笑みを見せる。


「さくまさん、目立ちますから。一人でこんなに大量に買っていくお客さん、めったにいませんよ」

「……あ。で、ですよね」


 どうやら先ほどの会話が聞こえていたらしい。ヤキモチ妬いてるのバレちゃったかな、と恥ずかしくなっていると、店主はニコニコと笑みを浮かべたまま続ける。


「それに、いつもインスタから丁寧な感想送っていただけますし。あんなにたくさん褒めていただけたら、パティシエ冥利に尽きますよ!」

「えっ!?」

「あ、合計で10500円ですー」


 突如として知らされた事実に、胡桃は少なからず衝撃を受けた。胡桃のショックなどつゆ知らず、佐久間は平然と革財布を出して小銭を漁っている。


(佐久間さん、わたし以外のひとにも、お菓子屋の感想伝えてるんだ……そりゃ、そうだよね……)


 佐久間のお菓子を作る人間への敬愛は、決して胡桃だけに注がれているわけではない。わかっていたことだれど、目の当たりにすると少し落ち込んだ。どうして、自分だけが特別などと思い上がっていたのだろう。


「ありがとうございました! またいらっしゃってくださいね」


 店主に見送られ、二人は店の外に出た。再び歓楽街へと舞い戻ったところで、佐久間が「遠回りになるが、別の道から帰るぞ」と強い口調で言った。

 佐久間が歩き出そうとしたところで、胡桃は思わず、彼の腕にぎゅっと抱きついていた。


「!? お、おい。な、何をしてるんだ!」


 驚いた佐久間は、目を見開いて狼狽している。はっと我に返った胡桃は、「ごめんなさい」と慌てて身体を離した。佐久間はホッとしたような、ちょっと残念そうな表情を浮かべている。


「べ、べつに嫌なわけでは……俺は、構わないんだが……い、いやでも。こ、ここではちょっと」

「佐久間さん、帰りましょう! わたし、早くロールケーキ食べたいです」


 胡桃は鼻息荒くそう言うと、日傘をさしてスタスタと来た道を戻り始めた。

 佐久間があれだけ褒めるのだから、きっととびきり美味しいロールケーキなのだろう。しっかり味わって、自分の糧にしなければ。自分の中に、メラメラと対抗心が燃え上がっているのがわかる。胡桃は、こう見えても意外と負けず嫌いなのだ。


(……わたし、やっぱりこのままじゃダメだ。もっともっと頑張って、佐久間さんの胃袋をがっちり掴まないと……!)


 いつまでも、佐久間が胡桃のお菓子だけに夢中でいてくれるとは限らない。まずは来たるマルシェに向けて、全力で試作を行わなければ。

 ぴたりと立ち止まった胡桃は、くるりと振り向く。唖然と突っ立っている佐久間に向かって、大きな声で叫んだ。


「佐久間さん! これからお菓子買いに行くとき、あんまりオシャレしていかないでくださいね!」

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