20.負けず嫌いのロールケーキ(1)
7月も後半に差し掛かると、暑さはますます厳しさを増した。今年は過去に例を見ないほどの猛暑日が続いています、というニュースキャスターの声を、胡桃はぼんやりと聞いている。
まだ朝も早い時間帯だというのに、夏の日射しは厳しく、じりじりと室温を上昇させていく。フローリングの上に寝そべっていた胡桃は、手を伸ばしてエアコンのスイッチを入れた。ブゥン、という音とともに、ひんやりとした風が送られてくる。
ローテーブルの上には、島本から貰ったハンドメイドマルシェのチラシが置いたままになっている。マルシェで販売するお菓子を考えて試作しなければ、と思っているのだが、今ひとつやる気が出てこない。
(うう……これもぜんぶ、佐久間さんのせいだ……佐久間さんのバカ……)
佐久間にマルシェの話をしてから一週間が経つが、胡桃はあれから一度も彼に会いに行っていなかった。
残業続きでお菓子を作るタイミングがなかったせいもあるのだが、理由はそれだけではない。胡桃は佐久間に冷たくされて、拗ねているのだ。
(楽しみだよとか買いに行くよとか、ちょっとぐらい温かい言葉をかけてくれたっていいのに……)
彼の態度が悪いのは、今に始まったことではないけれど。それでもここ最近は、ずっと優しかったのに。どうして急にあんな突き放すようなことを言われたのか、理由がちっともわからない。
(……でも、ほんとは……そろそろ佐久間さんに会いたい……)
結局のところ、胡桃は佐久間にいくら突き放されたところで、彼に怒りを感じる資格すらない。俺が決めることじゃない、という彼の言葉は全面的に正しい。胡桃が勝手に欲しい言葉を期待して、一人で拗ねているだけだ。
いくら手を繋いだりハグをしたり、ご実家に挨拶に行ったりしたところで、胡桃と佐久間の関係はあくまでも「ただのお隣さん」なのだ。
その状況に甘んじているのは、他でもない胡桃自身である。
(……うん、意地を張るのはやめよう。美味しいお菓子作って、佐久間さんに会いに行こう)
きっと佐久間はまだ眠っているだろうが、今から作れば昼過ぎには完成するはずだ。
これから作るのは、ひんやり冷たいミルクプリンだ。涼しげな透明のグラスに入れて、上にイチゴのマリネを乗せることにしよう。
まず鍋にアガーと砂糖を入れてよくかき混ぜ、水を加えて火にかける。アガーが溶けて、半透明になったところで牛乳を加える。バニラエッセンスを加えて、80℃ぐらいになるまで温める。あとは、器に移して冷やすだけだ。
次に、上に乗せるイチゴのマリネ作りだ。イチゴを小角切りにして、ボウルに入れる。そこに砂糖と洋酒を加えてよく和えて、冷蔵庫で休ませる。
しっかりと冷えた白いプリンの上に、イチゴのマリネと緑色のミントを乗せた。簡単にできるわりに、なかなかオシャレな見栄えになったと思う。
ミルクプリンが完成したのは、13時すぎだった。胡桃は半袖のシャツワンピースに着替えると、佐久間の部屋へ向かい、インターホンを押す。すぐに顔を出した佐久間は、胡桃を見るなり、心底安堵したようにホッと頬を緩めた。
「……ああ。来てくれたのか」
(もしかして、佐久間さんもわたしに会いたいと思ってくれてた?)
素直な反応が可愛くて、胡桃は思わず笑ってしまう。なんだか、つまらない意地を張っていたのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
「……あの、佐久間さん。冷たいもの、食べたくないですか?」
胡桃はそう言って、ミルクプリンの入ったグラスを差し出す。佐久間はまっすぐこちらを見つめたまま、少しの迷いもなく答えた。
「きみの作ったものなら、いつでも食べたいに決まっているだろう」
そのたった一言だけで、胡桃は彼をたやすく許してしまった。自分でもちょろい女だと思う。
胡桃は「えへへ」と笑って、開いた扉の中に身体を滑り込ませた。
「入ってもいい? もう入ってるけど」
「もちろんだ」
佐久間に迎え入れられ、胡桃はプリンを持ってリビングへと向かう。ソファに腰を下ろすと、佐久間も隣に座ってきた。
半袖のTシャツを着た胡桃と佐久間の二の腕がぶつかって、ぴったりとくっつく。クーラーの効いた涼しい部屋の中なら、少しぐらいくっついても平気だ。
「簡単なものですけど……ミルクプリンのイチゴマリネ添え、です」
佐久間は「いただきます」と丁寧に手を合わせたあと、銀色のスプーンでぷるぷるのプリンをすくいとった。
「……ミルクプリンの優しい甘さに、イチゴの爽やかな酸味がマッチしている。イチゴのマリネに入っている、洋酒の風味が効いているな」
「ありがとうございます! アールグレイの茶葉を入れて、ミルクティープリンにするのもいいかな、と思ったんですけど。その場合は、上に生クリームを添えたいですね」
「それも美味そうだな。いつか食わせてくれ」
胡桃は「はぁい」と答えて、ミルクプリンを一口食べた。冷たいプリンは喉をつるっと通って、ひやりと胃へと落ちていく。焼き菓子もいいけれど、夏はこういうさっぱりしたものが食べたくなるものだ。
ミルクプリンを食べ終わった佐久間は、「ごちそうさま」と両手を合わせる。そして、くるりと身体を向けて、胡桃にまっすぐ向き合った。
こちらを見つめる男は、やけに怖い顔をしている。すっかりいつも通りの空気に戻ったと思っていたのに、もしかしてまだ怒っているのだろうか。
「ど、どうしたんですか?」
「……その……このあいだは……すまなかった」
「えっ」
予想外に真正面から謝罪されて、胡桃は目を丸くした。いつもの不遜な態度はどこへやら、佐久間はなんだか落ち込んでいるように見える。
「……みっともなくきみに当たり散らして、申し訳ないと思っていたんだ。きみが帰ったあと、筑波嶺くんにも怒られた」
そう言って項垂れた佐久間は、まるで飼い主に叱られた犬のようだった。胡桃の胸はきゅんと高鳴り、愛おしさがこみあげてきて、手を伸ばしてよしよしと彼の頭を撫でてあげる。
「もう、いいです。ぜんぜん、怒ってませんから。わたしの方こそ、勝手に拗ねてごめんなさい」
「……そう、か」
「はい! それじゃあ、仲直りの握手」
そう言って手を差し出すと、佐久間はおそるおそる手を伸ばしてきて、そっと握ってくれた。繋いだ手をぶんぶんと振り回してみても、彼はされるがままになっている。
自分が悪いと思ったとき、素直に謝ってくれるひとは素敵だなと胡桃は思う。元カレである彰人は、どんなに自分に非があっても、へらへらと笑ってうやむやにすることが多かった。
(でも、どうして佐久間さんはあんなに不機嫌になったんだろう……もしわたしの言動が佐久間さんを怒らせたなら、わたしもちゃんと謝らなきゃ……)
先日のやりとりを思い返してみても、佐久間が不機嫌になったのは、マルシェの話をしたあとだった。もしかして、と思い当たった胡桃は、おずおずと口を開く。
「あの、佐久間さん。わたしが……」
わたしがマルシェに出店するの嫌なんですか、と言いかけたところで。佐久間が壁にかかった時計を見て「あっ」と声をあげた。
「しまった、もう14時か。焼き菓子の取り置きを、15時に依頼していたのを忘れていた」
「焼き菓子? どこのお店ですか?」
「ふたつ隣の駅に、半年前にオープンした店だ。前回はコーヒーとヘーゼルナッツのマフィンと、キウイフルーツのチーズタルトを食べたが、美味かった」
「へえ、そんなお店あるんですね! どっちも美味しそう……」
近所に新しいお店がオープンしていたなんて、知らなかった。さすが筋金入りのスイーツオタクは、甘味に対するアンテナの感度が高い。
マフィンもタルトも名前を聞くだけで美味しそうだ、と味を想像していると、佐久間が胡桃に向かって言った。
「きみもついてくるか」
「えっ、いいんですか! 行きます!」
佐久間の言葉に、胡桃は一も二もなく頷いた。美味しいお菓子屋さんならば、是非ともチェックしておきたい。
新たなお菓子との出逢いの予感と、佐久間とのおでかけに浮かれた胡桃は、先ほど自分の頭に浮かんだ疑問のことなんて、きれいさっぱり忘れてしまった。
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