18.挑戦のアイシングクッキー(1)

 ハート型のクッキーの上に、袋に入ったアイシングクリームを慎重に絞っていく。ぷっくりとした薄ピンクのベースの上に、白のクリームをハートの曲線に沿って引いて、どんどんラインを足していき、繊細なレース模様を作っていく。なんとか完成したところで、詰めていた息をふぅっと吐き出した。

 先生の見本と見比べて、胡桃が作った模様はところどころ線が歪で、ガタガタになっている。お菓子作りは好きだけれど、実のところ胡桃は細かい作業が得意なわけではない。父によく指摘されていたように、集中力が足りないのだ。


(やっぱり、わたしには向いていないのかも……)


「糀谷さん、できましたか?」


 柔らかな笑みを浮かべて手元を覗き込んできたのは、アイシングクッキー教室の先生である島本しまもとである。胡桃よりひとまわりほど歳上の女性で、物腰が柔らかく穏やかで丁寧だ。高校時代に一番好きだった、古典の先生を彷彿とさせる。

「あんまり上手にできなかったんですけど……」とがっくり肩を落とした胡桃を、島本先生は優しい口調で褒めてくれた。


「いえいえ、綺麗にできてますよ! 丁寧にやろうとしているのが伝わってきます。ベースの塗り方もとても上手だし」


 予想外に褒められて、胡桃は照れ笑いを浮かべた。今までの胡桃のお菓子の先生は厳しい父だったので、こうして褒められるのはなんだか新鮮な気持ちがする。


 一ヶ月ほど前から、胡桃は週に一回のアイシングクッキー教室に通い始めた。

 以前佐久間と行ったクリスマスマーケットで、胡桃は彼にアイシングクッキーをプレゼントしてもらった。そのとき出店していた女性から、アイシングクッキー教室のチラシを貰っていたのだ。

 いつか参加してみようと思いつつ、指の怪我のこともあり先延ばしにしていたのだが、先月ついに勇気を出して参加してみた。緊張する胡桃を、先生は温かく迎え入れてくれた。

 アイシングクリームの作り方、色の作り方、クリームを入れる袋の作り方。線の引き方から教えてもらい、先生のデザイン画通りに模様をつけていく。なかなか難しい作業ではあったけれど、新しいことを覚えるのは楽しいものだ。


「でも、なかなか先生みたいにはできませんね……」

「最初はなかなかハードルが高そうに見えるかもしれませんが、不器用さんでも可愛くできるデザインはたくさんあります。最終的には、自分でデザインを考えるところまでできればいいですね!」

「はい、頑張ります! 上手にできたら、手作りのロールケーキに乗せるのもいいなあって思ってたんです!」

「それは素敵ですね。糀谷さんのインスタ見てても、手作りのお菓子がいつもとっても美味しそうで……」


 島本はそこで言葉を切ると、「そういえば」と話題を転換させた。


「10月に、大規模なハンドメイドマルシェが開催されるんです。私もそこに出店しようと思ってて」

「え、そうなんですか! いいなあ!」

「よかったら、糀谷さんも一緒にやりませんか?」


 島本はそう言うと、教室の隅に置いてあるチラシを一枚取って、胡桃に渡してきた。見ると、「秋のハンドメイドマルシェ」と書いてある。会場は会社の近くにある公園。日時は二ヶ月後の10月、三連休の最終日だ。

 

「一緒に、というのは……わたしが先生のお手伝いするってことですか?」

「いいえ。糀谷さんが出店されたらどうかな、と思って。一緒に申し込むと、ブースがお隣同士になりますし」

「……そ、それって」

「糀谷さんが、ご自身で作ったお菓子をマルシェで販売するんです!」

「……え、えええっ!?」


 島本の言葉に、胡桃は素っ頓狂な声をあげた。

 自分の作ったお菓子をマルシェに出店するなんて、そんなこと考えたこともなかった。たしかに胡桃がSNSでフォローしている、お菓子作りアカウントのひとたちも、ちょこちょこイベントのお知らせを投稿している気がする。楽しそうでいいなあ、だなんて他人事のように思っていたのだが。


「でも、わたし……こういうイベント、参加したことないんです」

「みなさん、意外と気軽に参加されてますよ。もちろん食べ物を扱うものですから、衛生管理はしっかりしないといけませんけど」


 胡桃はチラシに書かれた参加要項をしげしげと眺める。昨年開催されたイベントの様子も掲載されており、晴天の下でひとびとが楽しげに笑い合っている。販売されているのはアクセサリー、雑貨、工芸品などさまざまだ。もちろん、手作りのお菓子もある。


「ちゃんとしたキッチンがないなら、ここをお貸ししてもいいですし。食品衛生責任者の資格も、一日講義を受けるだけで取れますよ」

「そうなんですね……わたしに、できるかなぁ」

「そんなに気負うことはありませんよ! 糀谷さんが一緒だったら、きっと楽しいと思います。どうでしょうか?」


 たしかに、とっても楽しそうだ。自分の作ったものを、たくさんのひとに食べてもらえるいいキッカケになるかもしれない。


(わたしの作ったお菓子で、他の誰かを笑顔にできたら……それってすごく、素敵かもしれない)


「……そうですね。先生、わたしもやります!」

「よかった! 嬉しいです。では、糀谷さんのぶんも一緒に申し込みをしておきますね」


 威勢よく返事した胡桃に、島本先生はニコッと笑った。

 胡桃は貰ったチラシを丁寧に畳んで、大切にハンドバッグにしまいこむ。もしマルシェで売るならば、日持ちのするクッキーとか、小分けにできる小さな焼き菓子がいいかしら。そんなことを想像して、胸がわくわくとときめいた。




 ……マルシェへの参加を決めてから、一晩経ち。やはり安易に引き受けすぎたのでは、と胡桃は少し後悔していた。

 販売するということは、自分の作ったものの対価として、お金を貰うということだ。自分のお菓子を他人に食べてもらうことには慣れてきたけれど、果たして自分がそのレベルに到達しているのだろうか。一人になった途端に、にわかに不安が押し寄せてくる。


 悶々とする気持ちを吹き飛ばすように、胡桃はクッキーを焼いた。教室に教わったアイシングクリームを作り、デザイン見本の通りに、ハート型のクッキーを慎重にアイシングしていく。作業に没頭しているあいだは、余計なことをウダウダと考えずに済んでよかった。

 アイシングクッキーが完成した頃には、もう日付が変わっていた。常識的に考えると、かなり遅い時間ではあったが、佐久間にとってはこれからがゴールデンタイムである。胡桃は完成したアイシングクッキーを持って、佐久間の元へと向かった。インターホンを押すと、すぐに彼が顔を出す。


「こんばんは、佐久間さん」

「ああ、きみか。今は筑波嶺くんも来てるんだが、構わないか」

「はい、わたしは全然。むしろ、わたしがお邪魔なら帰りましょうか」

「いや、大丈夫だ。そろそろ休憩にしよう」


 佐久間について部屋の中に入って行くと、ダイニングチェアに大和が座っていた。目と目が合うと、「こんにちは!」と愛想良く挨拶をされる。


「胡桃さん、お久しぶりです」

「たしかに、最近お見かけしませんでしたね」


 水羽を連れてきた日を最後に会っていなかったから、実に二ヶ月ぶりだ。胡桃がこの部屋にやって来る頻度を考えると、もっと遭遇してもおかしくないはずだが。


「わたし、しょっちゅうここに来てるのに。筑波嶺さん、いつのまに来てたんですか?」

「お邪魔虫にならないように気をつけてましたから! 佐久間先生の機嫌を損ねるのも嫌ですし」

「え?」

「おい、筑波嶺くん。余計なことを言うな」


 佐久間がそう言って、ティーセットをダイニングテーブルの上に置く。「座れ」と隣の椅子を引かれたので、胡桃はいそいそと腰を下ろした。


「アイシングクッキー、作ってきたんです。教室で習ったから、お披露目しようと思って!」


 白い皿の上には、ピンク色のベースの上に白いレース模様を描いた、ハート型のアイシングクッキーが乗せられている。こうして可愛い食器に盛りつけてみると、なかなか上手くできたんじゃないか、という気がしてきた。


「おお、繊細な模様も綺麗にできているじゃないか。流石だな」

「へー! これ、胡桃さんがやったんですか。難しそうなのに、すごいですねぇ!」

「いやあ、えへへ……」


 二人に褒められて、胡桃は照れ笑いを浮かべて頭を掻く。「よかったら食べてください!」と言うと、佐久間が不服そうに呟いた。


「……筑波嶺くんも、食べるのか」

「え、僕はダメなんですか?」

「……」

「いえ、全然! 筑波嶺さんもどうぞ。アイシングする前の型抜きクッキーも、たくさん持ってきたので」


 胡桃が言うと、佐久間は何故だか不機嫌そうに顔を顰める。まるでハート型のクッキーを親の仇でもみるかのように睨みつけると、ぱくりと一口で頬張った。

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