17.卑怯者のカカオリキュール(2)

 ペパーミントとホワイトチョコレートのリキュール、濃厚な生クリームと共にシェイクされたカクテルは、グラスホッパーという名前に相応しい緑色をしている。夏にぴったりの甘くて爽やかな味わいに、胡桃は感嘆の声をあげた。


「わ、美味しい! これ、ほぼデザートですね!」

「そう? ここはカクテルの種類も豊富だし、喜んでもらえたならよかったわ」


 金曜日の夜21時、お洒落なバーのカウンター。隣に座っているのは、大好きな憧れの先輩。

 いつもクールな美女は、甘いカクテルを美味しい美味しいとごくごく飲む胡桃を、まるで孫でも見るかのような優しい目つきで眺めている。

 

「すごく美味しいです! チョコミントのアイスみたいな味! ね、夏原先輩も一口飲みません?」

「美味しそうだけれど、グラスホッパーっていう名前が良くないわね。私、虫が苦手なの」


 鮮やかな緑色のカクテルを見やった栞は、形の良い眉を不愉快そうに寄せる。サラサラの黒髪を耳に掛けて、カクテルグラスを傾ける横顔は、まるで美術品のように整っていた。


 定時を10分ほど過ぎてしまったが、無事に仕事を終わらせた二人は、仲良く揃って会社を出ることができた。

 一軒目は昔ながらの洋食屋に、二軒目はお洒落なバーにやって来た。どちらも栞オススメのお店だ。どうしてこんなに素敵な飲食店をたくさん知っているのだろうか、と不思議に思う。


「それにしても……さすが夏原先輩! オシャレなひとはオシャレなお店を知ってるんですね!」

「私も、こんなお店滅多に来ないわ。同期に教えてもらったの」

「あ。もしかして、常盤主任のことですか? もしかして、二人で来たことあるの?」

「……」


 栞は胡桃の問いに答えず、黙ってカクテルを飲んだ。彼女が飲んでいるのは、ちっとも甘くなさそうな白ワインベースのカクテルだ。しゅわしゅわと泡の立つ透明な液体に、カットレモンが浮いている。


「夏原先輩は、常盤主任とどういう関係なんですか?」

 

 胡桃はふわふわとした酔いに任せて、栞の頬をつんつんとつついた。彼女は心底うんざりした様子で「やめてください」と手を振り払ってくる。うーん、つれない。そういうところも好き。


「彼はただの同期よ。それ以上でもそれ以下でもありません。余計な詮索はやめてちょうだい」

「でも、栞って呼ばれてますよね! ねえねえ、わたしも栞先輩って呼んじゃダメ?」

「……好きになさい」

「やったー!」


 本当はずっと、栞のことをファーストネームで呼ぶタイミングを見計らっていたのだ。「栞せんぱい!」と笑顔で呼びかけると、彼女は呆れたように笑って「はい」と返事をしてくれた。


 グラスホッパーを飲み干したところで、次は何にしようかとメニューを覗き込む。カウンターの向こうに立っていた初老のバーテンダーは、にこやかにに語りかけてきた。


「甘口のカクテルがお好きなら、アレキサンダーはいかがでしょうか」

「アレキサンダー? どんな味なんですか?」

「ブランデーをベースとして、カカオリキュールと生クリームをシェイクしたカクテルです。まるでチョコレートケーキのような味わいですよ」

「へえ、美味しそう! それにします!」


 胡桃が言うと、バーテンダーは「かしこまりました」と柔らかく笑んだ。カウンターの向こうで、カシャカシャという軽快なシェイカーの音が響く。ややあって胡桃の目の前に置かれたグラスには、薄茶のチョコレートムースのような色の液体が入っている。

 胡桃はグラスの細くなっている部分を掴んで持ち上げ、一口飲んでみた。カカオの風味と生クリームのまろやかさが口の中に広がる。


「あ、甘くて美味しい! ほんとにデザートみたい! 飲みやすーい」

「そのカクテル、ブランデーが入っているから、きっとかなりアルコール度数が高いわよ。飲みすぎないように気をつけなさい」

「そうですね。そういえば佐久間さんにも、酔い潰れるまで外で飲むな、って言われてたんだった」


 今日は栞が一緒だから、佐久間が心配していたような事態にはならないと思うけれど。胡桃の言葉に、栞は「ああ、佐久間諒」と呟いた。


「そういえば、彼とはどうなっているの」

「えへへ、順調です。このあいだ、佐久間さんのご実家に挨拶に行ってきました」

「まあ、ずいぶんトントン拍子ね。ちょっと展開が早すぎるんじゃない?」

「でも、まだ告白はできてないんですけどね」

「……は? どういうことなの?」


 栞は軽く髪を掻き上げ、不可解極まりない、という様子でこちらを見つめてくる。

 

「向こうの仕事が落ち着いたら、告白すると言っていたでしょう。まだ忙しそうなの?」

「いえ……今はそうでもなさそうです、けど」

「じゃあ、どうして」


 胡桃は「うーん」と口ごもったあと、カクテルをごくりと飲んだ。チョコレートのような甘さの中に、カッと身体の奥が燃えるようなアルコールをたしかに感じる。


「……わたし。今まで、ろくでもない男のひととしか付き合ってこなかったんです。男のひとを、見る目がなくて……」

「ええ。香西くんみたいなのと喜んで交際してたぐらいだから、よほどね」


 胡桃の元カレである香西彰人のことが、栞はよほど嫌いらしい。普段ひとの陰口をめったに叩かない栞が、彰人にだけはやけに辛辣だ。


「わたし、付き合う前のドキドキ……みたいな? 恋愛の一番美味しいところ、ほぼ経験せずにここまできちゃって……」

「……」

「だからこういう、〝なんとなくお互いに好意を自覚している、付き合ってるわけじゃないけどおそらく両想いの状態〟が……ものすごく、心地良いんです……っ!」


 そう言い切った胡桃に、栞は「まあ」と呆れたように溜息をついた。

 胡桃が今までの恋人と付き合うきっかけは、なんとなくなし崩し的に、その場の空気に飲まれてそのまま、というパターンばかりだった。自分の好きなひとが自分を好きでいてくれるかもしれない、という甘酸っぱいドキドキを味わうことなく、26年間生きてきたのである。

 今の胡桃は生まれて初めて、恋愛の一番美味しいところを満喫している。


「気持ちは、わからなくもないけれど……あなたもお相手も、もういい大人でしょう」

「う……そ、そうですよね。わ、わかってます。わかってますよ」


 佐久間も胡桃も、子どもではない。それは充分、わかっているつもりだけれど――胡桃は現状のぬるま湯から、いつまでたっても抜け出せずにいる。

 佐久間と過ごす時間は楽しくて、居心地が良くて。二人で胡桃の作ったお菓子を食べて、佐久間の淹れた紅茶を飲んで――たまに手を繋いだり、ハグをしたり、寄り添って座ったりするだけで、幸せだ。ときおり彼から漏れ出る好意の片鱗を感じるたびに、胸がきゅんと高鳴って満たされる。きっと佐久間も、胡桃と同じ気持ちでいてくれるのだろうと思う。


「もし今、両想いだとしても。あなたがモタモタしているあいだに、向こうが心変わりをしないとは限らないでしょう」

「……うう、た、たしかに……」

「そういうはっきりしない関係、お互いのためにならないと思うわ」

「はい……」

 

 容赦のない正論がビシビシと飛んでくる。栞はいつだって、清く正しくまっすぐだ。


(恋も、仕事も……どうしてわたしは勇気を出して、一歩踏み出せないんだろう……)


 しょんぼりと俯いた胡桃の背を、栞は優しく撫でてくれる。どさくさに紛れて抱きついてみると、驚くほどに芳しい花のような匂いがした。美女の甘い香りを堪能していると、「こら」と軽く額を小突かれる。

 

「あなた、酔ってるんでしょう。だから飲みすぎるなと言ったのに」

「酔ってませんよぅ。栞先輩、いい匂いしますね!」

「……あら、もうこんな時間ね。そろそろ帰りましょうか」

「えーっ、まだ帰りたくないです。栞先輩と、もっと一緒にいたい……」


 胡桃は栞のシャツの袖を掴むと、上目遣いでじっと見つめる。チラリとこちらを見やった栞は、「酔っていなくてそれなら、もっと問題ね」と小さく肩を竦めた。


 


 栞はゴネる胡桃をタクシーに乗せ、マンションまで送ってくれた。「よかったら、上がっていってください!」という胡桃を「帰って寝ます」の一言できっぱり断り、「おやすみなさい」と窓を閉めた。本当にガードの堅い先輩だ。

 頭の中も足取りもふわふわしているけれど、前後不覚になるほど酔っ払っているわけではない。このまま部屋に戻って、一人で寝るのは寂しい気がする。

 胡桃は鼻歌を歌いながらエレベーターに乗り、8階で降りると、佐久間の部屋のインターホンを押した。扉が開いて佐久間が顔を出すなり、胡桃は思いっきり彼に抱きつく。


「!? な、な、何をしてるんだ、きみは!」

「佐久間さん、ただいま!」

「た、ただいまじゃない! いきなりなんだ!」


 佐久間は狼狽していたが、胡桃は酔っ払ったふりをしたまま、彼を離さなかった。調子に乗って、すりすりと彼の胸に頬を寄せると、頭の上から諦めたような溜息が聞こえてくる。


「……きみは、本当に……」

「……だめですか? 離れた方がいい?」

「…………卑怯な訊き方をするな」


 だめじゃない、ことはよくわかっている。

 眉間に皺を寄せた佐久間は、胡桃を振り払うことなく、おそるおそる背中に腕を回してきた。顔を上げて「えへへ」と笑うと、佐久間はなんだか怒ったような、困ったような顔をする。まるで、自分の中の何かと戦っているみたいだ。


「……こんな時間に、男の部屋に来て……こんなことをするなんて、襲われても文句は言えないぞ」


 耳元で、溜息混じりの声が響く。胡桃は聞こえないふりで、彼の背中に回した腕に力をこめた。胸に顔をおしつけて、だいすき、と声にならない声で囁いてみる。


(……佐久間さんになら、襲われても構わないけど……それでも佐久間さんは、酔っ払ってるわたしには、絶対手を出さないって、わかってる)


 今までの恋人は、こちらの都合などお構いなしで、自分勝手に胡桃の身体ばかりを求めてきた。それでも、佐久間は違う。心の底から胡桃のことを気遣って、大事にしてくれているのが、言動の端々から伝わってくる。

 胡桃が黙っていると、佐久間は不器用に背中を撫でてくれた。下心の感じられない優しい手つきに、胡桃はなんだか泣きたくなってしまう。


(……ずるくてごめんね、佐久間さん……)


 いつまで経ってもぬるま湯の関係に甘んじて、彼の気持ちになんとなく気付いていながらも、踏み込まない自分は卑怯だ。わかってはいるけれど、もう少しだけふわふわとした甘い恋に酔っていたかった。

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