16.卑怯者のカカオリキュール(1)

 6月は梅雨でじめじめしているうえに、祝日がひとつもない。デスクに置いた卓上カレンダーを眺めては、胡桃は日々呪詛を吐いていた。

 しかし、6月にも良いところがひとつだけある。年に2回の、賞与支給日があるところである。

 一般職の事務員である胡桃のボーナスは、それほど多いわけではない。それでも、いつものお給料とは別に、それなりの額が振り込まれるのは嬉しいことだ。

 課長から手渡された給与明細を見て、新しいハンドミキサーを買おうかなあ、と考える。今使っているものは実家から持ってきたもので、ちょっと重くて使いにくいのだ。

 とはいえ、ご機嫌なことばかりではない。胡桃の会社では、賞与支給日のあと、直属の上司とのフィードバック面談がある。胡桃の上司である営業二課の冴島課長は、悪人ではないものの、やや嫌味ったらしい男である。


 7月最初の水曜日。胡桃は小さく息を吸い込んだあと、会議室の扉をコンコンと軽く叩いた。

 中から「どうぞー」と声が聞こえたので、「失礼します」と言ってから中に入る。細長いテーブルの真ん中に、ノートパソコンを広げた冴島課長が座っていた。目線だけで座るように促されたので、胡桃は正面に腰を落ち着ける。


「じゃあ、面談始めようか。よろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いします」

「とはいえ、あんまり話すこともないんだよなあ」


 冴島はそう言って、カチカチとマウスを鳴らしながら、パソコンのディスプレイを見ている。人事担当者と直属の上司にしか見れない、胡桃の評価シートが表示されているのだ。

 どんなことが書いてあるのか、知りたいような知りたくないような。要領が悪く仕事が遅い胡桃の評価は、決して高くはないだろう。


 結局冴島は、ひとつふたつおざなりなアドバイスをしただけで、「まあ、夏原さんと協力して頑張って」と言った。胡桃は「はぁ」と気のない返事をする。目の覚めるような助言を期待していたわけじゃないけれど、もう少し実のある話をしてくれてもいいんじゃないかしら。


「じゃあ、実務の話はこのへんにしておいて……身上面について確認しようか。えーと、生活環境変化ない?」

「……あ。えっと……」


 冴島からの問いに、胡桃は思わず口籠る。そのとき胡桃の脳裏に浮かんだのは、杏子からの「一緒に働かないか」という言葉だった。

 およそ一ヶ月前に受けた申し出の返事は、未だ保留にしたままでいる。年内には回答が欲しいとのことだったが、まだ7月なのだから急がなくても、と先延ばしにしているのだ。

 もし杏子の店で働くなら来年の4月から、という話だった。もし彼女の申し出を受けるならば、当然今の会社は辞めねばなるまい。引き継ぎのことなどもあるだろうし、もし退職するなら、ある程度早めに伝えた方がいいだろう。


(ど、どうしよう……杏子さんに、ちゃんと返事もしてないし……まだ、会社には言うべきじゃないよね……)


 胡桃が躊躇い言葉を探していると、冴島は「もしかして」と身を乗り出してきた。


「糀谷さん、結婚するの?」

「え!? ち、違います!」


 斜め上の勘違いに、胡桃はぶんぶんと首を振って否定した。たしかに結婚も大きな生活環境の変化であるが、今のところそんな予定はまったくない。これからもし佐久間と交際できたとしても、きっとすぐに結婚することにはならないだろう。そもそも佐久間に、結婚願望があるのかもわからない。

 冴島は怪訝そうに眉を顰め、首を傾げている。


「じゃあ、他に何かあるの?」

「え……あ、いえ。何も。変わりないです」

「ふぅん、そう。健康面は? 手の怪我はもう治ったんだっけ」

「はい、問題ないです」

「ならよかった。異動の希望なんかもあれば、一応聞いておこうか」

「……いえ……特に、ないです」


 胡桃は結局、何も言わないことにした。もし転職するにしても、もう少し先のことだ。まだどうなるかわからないのだから、余計なことは言わない方がいいだろう。

 冴島は「はいはい、わかりました」と言って、パソコンに何かを打ち込んだ。面談結果を入力しているのだろうか。


「じゃ、これで面談は終了です。お疲れさまでした」

「はい……ありがとうございました。失礼します」


 胡桃は軽く頭を下げてから、会議室を後にした。扉を閉めて課長の目から逃れると、ほっと安堵の息を吐く。


 ほんの20分ほどの面談だったが、自席に戻ると、デスクの前に置いたボックスに仕事が積み上げられていた。不在のあいだに営業社員たちが置いていったものだろう。

 一番上の書類を手に取って確認してみると、一目でわかるほどに不備だらけでげんなりした。この適当極まりない書類は、営業部きってのトラブルメーカーである田山たやまのものだ。

 胡桃より先に面談をしていた栞は、まだ戻ってきていない。営業一課の小林課長は4月にやって来たばかりだし、いろいろと話しておきたいことがあるのだろうか。


 田山を呼びつけ、不備だらけの書類を整備してもらったあと、10分ほどで栞が戻ってきた。相変わらずクールな表情で、「遅くなってごめんなさい」と腰を下ろす。


「夏原先輩、面談長かったですね……何話してたんですか?」

「……まあ、いろいろと」


 竹を割ったような物言いが多い栞にしては、歯切れの悪い回答だ。もしや異動の話でもあったのでは、と不安になる。せっかく仲良くなれたのに、栞と離れ離れになるのは寂しい。そんなことを考えて、はっとした。


(……そっか。もし、わたしが会社辞めるとしたら……夏原先輩とも、お別れなんだ)


 栞と胡桃は、ただの同僚だ。プライベートで連絡を取り合ったり、休日に二人で出かけるほど仲が良いわけではない。彼女はきっと少しの未練も見せず、「お疲れさまでした」と送り出してくれるだろう。そんな場面を想像して、ちょっと泣きそうになってしまった。

 大好きな栞と、もっともっと仲良くなりたい。そう遠くない未来に、彼女とお別れするときがきたとして、少しでも「寂しい」と思ってもらえるように。


「……あの、夏原先輩! 今日、お暇ですか?」

「内容を言わずに暇かどうかを訊くのは、卑怯だと思うわ」

「う……すみません」

「予定はないけれど……何かしら?」

「もしよかったら、ごはんでもどうかなって。二人で!」


 胡桃は胸の前で拳を握りしめ、勢い込んで言った。すげなく断られることも覚悟していたのだが、栞は口元に笑みを浮かべて「いいわね」と答えてくれる。


「ほ、ほんとですかぁ!」

「私、美味しい洋食屋さんを知ってるんです。特にデミグラスソースが絶品で……ハンバーグがお薦めよ」

「やったー! 絶対絶対食べたいです!」


 その一言で、胡桃の頭の中はすっかり肉汁溢れるハンバーグでいっぱいになってしまった。想像してうっとりしていると、「早く仕事に戻りなさい」と栞に注意される。

 

「今日は絶対に定時で仕事を終わらせましょう。終わらないなら置いていくわよ」

「はい! 頑張ります!」

 

 胡桃は慌てて頭からハンバーグを追い出すと、ぱちんと両頬を叩いて気合いを入れる。栞とのデートにウキウキと胸をときめかせながら、未決ボックスに入った仕事に取り掛かった。

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