15.思い出のクラフティ(3)
胡桃はクラフティを食べたあと、佐久間の伯母からあれこれ質問責めにされた。
どうやら彼女は、胡桃が佐久間の恋人だと勘違いしているらしいが、否定するタイミングをすっかり逃してしまったのだ。不愉快な勘違いではなかったし、佐久間の方も何も言わなかったので、胡桃も適当に話を合わせていた。
晩ごはんまでご馳走になったあと、二人は佐久間の家をあとにした。玄関まで見送りに出てきた伯母は、「また遊びに来てね」と何度も繰り返して、胡桃の手をぎゅうっと握りしめた。少しかさついた手は、佐久間と同じようにとても温かかった。
「胡桃さん。凌ちゃんのこと……よろしくね。ちょっとひねくれてるけど、本当に良い子なのよ」
「はい、もちろんです!」
威勢よく返事をしたところで、そういえば自分はまだよろしくされるような立場ではなかった、と思い出したが、まあ否定しなくてもいいだろう。
こちらの姿が見えなくなるまで、ぶんぶんと大きく手を振る伯母の姿に、胡桃はくすっと笑みを零す。ちょっと緊張したけれど、とても楽しいひとときだった。
「佐久間さん、お邪魔しちゃってすみません」
「……いや。こちらこそ、付き合わせて悪かったな。うるさかっただろう」
「ううん! 佐久間さんの小さい頃の写真も見れたし、楽しかった! おばさま、すごく明るくて優しい方ですね。大好きになっちゃった」
胡桃が笑って言うと、佐久間は安堵したように「それはよかった」と答える。
すっかり日も落ちた、住宅街の夜は静かだ。ぼんやりと浮かぶ家の灯りが、なんだかやけに温かく感じられる。佐久間がこの街で過ごした時間に、ぼうっと想いを馳せていると、ふいに右手を掴まれた。
「え?」
「……」
弾かれたように顔を上げたが、佐久間は何も言わない。胡桃の手をぎこちなく握り直して、ふいとそっぽを向いたまま歩いている。耳が赤い。
からかってやろうかと思ったけれど、照れた彼に手を離されてしまうのも嫌で、胡桃も黙っていた。ぎゅう、と強く握り返すと、冷えた指先の温度がどんどん上がっていく。
(佐久間さんのこと、もっともっと知りたい)
小さい頃、どんな子どもだった? 学生時代、部活とかしてたの? どうして小説を書こうと思ったの? 今までに、誰かとお付き合いしたことあるの? わたしがいないとき、普段何してるの?
(……わたしのこと、好きなの?)
訊きたいことはたくさんあったけれど、結局なにひとつ口にできなかった。代わりに胡桃は顔を上げて、彼に話しかける。
「佐久間さん、しょっちゅう実家に帰ってるの?」
「数ヶ月に一回程度だ。それほど遠くないし、顔を見せない方がうるさいからな」
「うふふ、仲良しなんですね」
「どうだろうか。……まあ、昔よりは良い関係が築けているかもしれないな。俺は偏屈で気難しい子どもだったから」
「偏屈で気難しいのは今もでしょ」
胡桃の軽口に、佐久間はムッとこちらを睨みつけてきた。「ごめんなさぁい」と笑って肩を竦めると、「反省の色が見えない」とパチンと額を弾かれる。
「杏子さんもパリにいるし、おばさまはきっと佐久間さんがいなくて寂しいんですよ」
「……そうだろうか。伯母にとっては、俺がいない方がよかったのかもしれない」
「え?」
予想外の言葉に、胡桃は弾かれたように顔を上げた。佐久間は乾いた声と淡々とした口調で続ける。
「……あのひとは杏子を産んですぐに離婚した、シングルマザーだったんだ。ただでさえ苦労していただろうに、血を分けた実の子でもない、偏屈な子どもなど……重荷以外の何者でもなかっただろう」
「そんな……」
「それでも、俺を杏子と区別することなく……育ててくれたことは、感謝している」
佐久間はまっすぐ前を向いたまま、どこか遠くを見つめていた。優しい伯母にあたたかく育てられながらも――彼はずっとそんな想いを抱えて、ここまで生きてきたのだろうか。
泣かせないでちょうだい、と言った伯母の涙を思い出して、胡桃は胸が苦しくなる。実の親でなくてもきっと、彼女は佐久間に愛情を持って接していたはずだ。
胡桃が佐久間の手をぎゅっと握りしめると、彼が目線をこちらに向けた。胡桃は少し怒ったような表情を取り繕ってから、繋いでいるのと反対の手で額をつんと突いてみる。
「こらっ、佐久間さん」
「……なんだ」
「……お菓子作りってね。実はとっても面倒で大変なんですよ」
「いきなりどうしたんだ」
胡桃の言葉に、佐久間は怪訝そうに眉を寄せた。胡桃は小さな子どもに言い聞かせるような口調で、ゆっくりと続ける。
「手順も多いし、気を配ることもたくさんあるし。材料もたくさんあるし、洗い物も多いし。手は荒れるし、立ちっぱなしで腰は痛いし。時間がかかるのに、食べるのは一瞬だし。……カップケーキを作った佐久間さんなら、ご存知でしょうけど」
「そう、だな。いつもありがとう」
「いえ、わたしはいいんです。好きでやってることですから」
「……」
「でも、もともとお菓子作りが得意じゃないひとが……そんな大変なことを、好きでもないひとの笑顔のために、やろうとは思いません」
慣れないお菓子作りに勤しんだ伯母の気持ちが、胡桃にはなんとなくわかる気がする。普段ムスッとしている男が、美味しいお菓子を目の前にしたときの笑顔は、それはそれは可愛くて――このうえなく、愛おしいのだ。
「佐久間さん、おばさまの作ったお菓子が一番美味しかった、って言ってましたよね」
「……ああ」
「それはきっと、おばさまが佐久間さんのことが大好きだからです」
胡桃の言葉に、佐久間は足を止めて、横っ面を引っ叩かれたような表情を浮かべた。まじまじとこちらを見つめる佐久間に、胡桃はニッコリ笑いかける。
「知ってますか? 大好きなひとのために心をこめて作ったお菓子が、世界で一番美味しいんですよ」
佐久間は何も言わない。長い長い沈黙が、二人のあいだに横たわる。吹き抜ける風が、ざわざわと木々を揺らす音がする。夜の闇の中に、街灯の光を跳ね返す黒い瞳が輝いている。
胡桃の手を握りしめたまま、佐久間がポツリと呟いた。
「……それは、こちらも同じことだ」
「え?」
「……大好きなひとが、自分のために作ってくれたお菓子が……世界で一番美味しい」
そのとき胡桃が思い出したのは、佐久間が作ってくれた不器用なカップケーキの味だった。硬くてパサパサの、チョコチップが入ったカップケーキ。あの瞬間の胡桃にとっては、佐久間が自分のために作ってくれたケーキが、何より美味しく感じられたのだ。
「……うん」
胡桃は頷いて、佐久間の手をぎゅっときつく握り返す。思い切って一歩近づくと、肩と肩が軽くぶつかった。街灯に照らされた二人の影はひとつに繋がって、アスファルトの上に長く伸びている。
「ね、佐久間さん」
「なんだ」
「わたし今度、おばさまに紅茶のクッキーのレシピ教えてもらいます。……佐久間さんが好きだった味、再現できるように」
胡桃の言葉に、佐久間はほんの一瞬だけ、柔らかく笑んだ。不意打ちの笑顔に、ドキリと心臓が跳ねる。
しかしすぐに仏頂面に戻った彼は、ふいとそっぽを向いて「期待している」と言った。
(佐久間さんが、わたしの作ったお菓子を美味しいって思ってくれるのは……わたしが佐久間さんのこと、大好きだからなのかもしれないな)
そして、それはその逆も然り、なのかもしれない。
大好きなひとと手を繋いで歩きながら、胡桃の胸は切なくて甘い期待に満たされる。うっすらと、なんとなく察していることはあるものの――決定的な一言は、お互いにいつまでも口に出せずにいた。
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