12.独占欲のシュガークッキー

 佐久間はゲーミングチェアに腰掛け、絶望的な気分で原稿と向き合っていた。カタカタとキーボードを叩いていた指のスピードが次第に遅くなり、ついには完全に止まってしまった。ぐつぐつと煮詰まった頭を抱え、乱暴に髪を掻きむしる。


(……あー、くそ。気分を変えるか)


 煙草の箱を持ってベランダに出ると、いつのまにかすっかり日が落ちていた。じめっとした空気が肌にまとわりつく。昼間は良い天気だったようだが、雨が降る前の空気の匂いがする。

 肺いっぱいに煙を吸い込みながら、隣の部屋をチラリと確認する。閉まったカーテンの向こうに、電気が点いているのが見えた。今日は杏子と出掛けていたはずだが、もう帰ってきているらしい。

 

(お土産買って帰りますね、などと言っていたくせに、顔も見せてくれないのか)


 そんなふてくされた気持ちで、ふーっと紫煙を吐き出す。と、煙草の匂いに混じって、隣の部屋から甘いお菓子の香りが漂ってきた。

 もしかすると、佐久間のために何か作ってくれているのかもしれない。エプロン姿でオーブンを覗き込む胡桃を思い浮かべて、ふわりと心が浮き上がった。

 

(……自分のためだけに、とびきり美味しいお菓子を作ってくれるひとがいるというのは……信じられないぐらいに、幸せなことだな)


 佐久間は煙草を消すと、ベランダのへりに頬杖をついて、目を閉じる。漂ってくる甘い香りに、遠い昔の記憶が呼び起こされた。

 両親を亡くしたばかりの幼い佐久間には友人のひとりもおらず、部屋に閉じこもり、自分の中から湧き上がってくる衝動を、ただひたすらにノートに書き殴っていたのだ。文章は拙く、起承転結も何もない。物語とはとてもいえない、読むに堪えないものだった。

 佐久間が机に向かっていると、閉ざされた部屋の扉をトントンと叩いて、ひょっこりと伯母が顔を出す。そうして「お菓子作ったんだけど、食べない? 杏子にはナイショね」と悪戯っぽく笑ってくれるのだ。

 佐久間は幼少期から「大きくなったらお菓子屋さんと結婚する」とのたまうほどの甘党だったし、何より「誰かが自分のためにお菓子を作ってくれること」が嬉しかったのだ。

 それはきっと、大人になった今も変わらない。


(……早く、食べたいな。一体何を作っているんだろうか)


 締切を目の前にして、日々死にそうな想いで文字を絞り出している佐久間にとって、胡桃の存在はかけがえのない癒しだった。彼女が持って来てくれるお菓子はもちろんのこと、彼女が隣でニコニコと笑って「美味しい?」と問いかけてくれるだけで、擦り減った心が満たされるような気がする。

 執筆に行き詰まった佐久間は、何度となく死んでしまおうと考えるのだが、胡桃の作るお菓子と、他でもない胡桃のことを思えば、生きる気力が湧いてくるのだ。


 ――ごほうびの続きは、原稿が終わってからにしましょうね! なんでもしてあげますから!


 そんなことを言われた日には、意地でも死ぬわけにはいかないだろう。

 腕の中に抱きしめた身体の柔らかさと、甘いバニラのような香りを思い出して、知らず体温が上昇する。どうして彼女の身体は、どこもかしこも柔らかいのだろうか。フワフワのシフォンケーキのような肌を口に含めば、きっと甘い味がするに違いない。

 もしかして彼女も自分のことを、と期待しない気持ちがないわけではない。ただ考えれば考えるほど、彼女のような魅力的な女性が、自分のようなくだらない男に好意を抱くはずがない、という結論に行き着くのだ。

 万が一、そんなことが有り得るとしたら――やはり彼女は、よほど男を見る目がない。


 ベランダからリビングに戻ったところで、インターホンが鳴った。佐久間はそのまま玄関に向かい、扉を開ける。期待通り、胸の前でタッパーを抱えた胡桃が立っていた。


「こんばんは、佐久間さん!」


 彼女の顔を見た瞬間に、力いっぱい抱きしめたい衝動に駆られてしまう。いとおしさ、だとか、ときめき、だとか。少し前の自分が鼻でせせら笑っていた感情を、今この身に染みて思い知らされている。

 恋愛とは恐ろしいものだ。己ではどうしようもない感情の渦に呑まれて、自分が自分でなくなってしまう。


「……入ってくれ」


 突き上げてくる衝動を理性で押し留め、胡桃を部屋へと招き入れる。彼女が差し出してしたタッパーの中には、グラニュー糖がまぶされたクッキーが入っていた。


「ごめんなさい! お土産買おうと思ってたのに、すっかり忘れちゃってて……代わりに、シュガークッキー作ってきたんです」

「ああ、美味そうだ。座っててくれ、紅茶を淹れる」


 シンプルなシュガークッキーには、ダージリンティーが良いだろう。ちょうど、今の時期が旬のセカンドフラッシュを取り寄せたところだった。二人分の紅茶を淹れると、胡桃が「いいにおーい」と表情を綻ばせる。

 胡桃は食器棚から、ナチュラルなクリーム色のプレートを出して、シュガークッキーを盛りつけた。佐久間が軽々と届く食器棚の上段も、彼女は背伸びをして手を伸ばさないと届かないらしい。そんな仕草を見ただけで、何故だかどうしようもなく胸が苦しくなる。


 二人でリビングに移動して、ソファに並んで腰を下ろした。プレートに乗せられたクッキーは花の形をしていて、まるで彼女自身のような素朴な愛らしさがあるな、などと馬鹿げたことを考えてしまう。


「いただきます」

「はい、召し上がれ! 生地は冷凍してたものだから、ちょっぴり手抜きですけど……」

「きみの作ったものを、手抜きだと感じたことはない」


 佐久間はそう言って、クッキーに齧りついた。さっくりとした食感に、口の中に入れた瞬間に広がる、優しいバターと砂糖の甘み。やはり彼女の作る焼き菓子は絶品だ。


「本当に美味いな……しっかりとバターを感じるが決してくどくなく、まぶされたグラニュー糖の食感も良い。サクサクなのにパサパサではない、どうしてこの食感が出るのか不思議でたまらない」

「えへへ、ありがとうございます」


 胡桃の頬は紅潮しており、いつもより落ち着きなくソワソワとしている。どうしたのだろうかと思っていると、「佐久間さん、聞いてください!」と興奮気味に身を乗り出してきた。


「……どうした。何かあったのか」

「……今日、杏子さんと、アドリエンヌに行って来たんです。お店はお休みだったんですけど、特別に中に入れてもらえて」

「ほう。よかったな」

「新作の甘夏のシャルロットケーキ、美味しかったなあ……」


 胡桃はそう言って、うっとりと表情を蕩けさせた。甘夏のシャルロットケーキとは、名前を聞くだけで美味そうだ。また熾烈な予約戦争に勝ち抜かなければならないと思うとうんざりするが、アドリエンヌのケーキにはそれだけの価値がある。

 羨ましそうな顔をしている佐久間に気付いたのか、胡桃は慌てて「えっと、それでね」と話を続けた。


「……杏子さん。新しいお店を出そうとしてるらしいです」

「そうなのか。初耳だな」


 ふたつ歳上の従姉は、おっとりした雰囲気に似合わずしたたかで、向上心とガッツのある女だ。現状に満足せず、事業の幅を広げようとするのは不思議ではない。


「もっと気軽に立ち寄れるような、日常に寄り添ったお菓子屋さんを作りたいんだって。わたし、すごく素敵だなあって思って……」

「そうだな」

「それで、あの……杏子さんが、わたしを……その新しいお店で、雇いたいって言ってくれてるんです」


 胡桃の言葉に、佐久間は一瞬言葉を失った。

 べつに、予想していなかったことではなかった。胡桃は以前から「お菓子作りを仕事にすることを考えている」と言っていたし、彼女の腕を考えるならば、遠くない未来に実現させるのだろうと思っていた。

 しかしそれは、もう少し先のことだと思っていたのだ。


「それで、その……さ、佐久間さんは、どう思いますか? 引き受けても、いいかなあ……?」


 おずおずと尋ねてきた胡桃に対し、佐久間は何も言えなかった。

 胡桃が夢を叶えるのは、喜ばしいことだ。彼女は今、新しい道に踏み出す躊躇いはあれど、きっと杏子の申し出を受けたいと思っているのだろう。

 佐久間は胡桃の作るお菓子が好きだし、彼女の才能を心の底から信じている。背中を押してやりたい気持ちは、もちろんあるのだが――それでも、心中は複雑だった。


(もし、そうなったら……彼女は、〝俺だけのお菓子屋さん〟ではなくなってしまう)


 そんな浅ましく図々しいことを考えて、ほとほとうんざりした。やはり自分は彼女に相応しくない、ろくでもない男なのだと思い知らされる。


「……佐久間、さん?」


 黙り込んでいる佐久間に不安になったのか、胡桃は眉を下げて顔を覗き込んでくる。黒目がちな瞳に映る男が今どんな顔をしているのか、知りたくない。


(……彼女の才能が、彼女を必要としているひとに届けばいい、と言ったのは……嘘ではなかったはずなのに)

 

 佐久間は彼女からふいっと視線を逸らすと、乾いた声と平坦な口調で言った。


「……それは、俺が決めることじゃないだろう。きみの人生だ」


 その瞬間、胡桃ははっと恥じ入ったように目を伏せた。くるりとカールした睫毛が、悲しげに震える。

 こんな突き放すようなことを、言うつもりじゃなかったのに。もしかすると彼女を落ち込ませたのかもしれない、と思うと、ズキリと心臓が痛んだ。


「そ、そうですよね……ちゃんと自分で、考えます。佐久間さん、前にも〝誰かのせいにしない選択を〟って言ってましたもんね」

「……」


 佐久間は黙って紅茶を飲み、シュガークッキーを掴んで口に運んだ。佐久間にとってはどんな高級パティスリーのクッキーよりも、作ってくれたクッキーが一番美味しい。

 いつか食べられなくなる日が来るのかもしれないな、としんみり思いつつ、優しくて甘いバターの味を噛み締めた。

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