13.思い出のクラフティ(1)

 午前6時。休日のわりに、やけに早く目が覚めた胡桃は、ベッドに寝転んだままぼんやりと天井を見上げていた。

 閉め切ったカーテンの向こうから、ぱらぱらと雨が窓を叩く音が聞こえる。先週から梅雨入りして、ここ最近は雨続きだ。もともと胡桃はインドアな方だが、外出するのが余計に億劫になってしまう。


 ――よかったら、私と一緒に働かない?

 ――胡桃ちゃんさえよければ、あなたをオープニングスタッフとして雇いたいと思ってるの!


 杏子の申し出を受けてから、二週間が経った。

 胡桃はことあるごとに杏子の言葉を思い出しては、舞い上がったり落ち込んだりしている。アドリエンヌのオーナーに見初めてもらえた喜びと、本当にできるのだろうかという不安が同居しているのだ。


(嬉しい気持ちはある、けど……怖い)

 

 杏子と別れたあと、胡桃はクッキーを作って佐久間の元へと向かった。クッキーを食べながら、佐久間に興奮気味に経緯を話したが、彼はそっけなく「俺が決めることじゃないだろう」と言った。

 佐久間の言葉に、胡桃は恥ずかしくなった。本当は一緒に喜んで、背中を押してくれるのではないか、と期待をしていたのだ。佐久間の後押しがあったなら、きっと胡桃は杏子の申し出を受け入れていただろうに。


(でも、それじゃダメなんだ……自分が進む道なんだから、ちゃんと自分で決めなくちゃ)


 しばらくゴロゴロと寝返りを打っていたが、胡桃は勢いよく跳ね起きた。顔を洗うと、エプロンをつけてキッチンに立つ。冷蔵庫を覗き込んで、何を作るか考え込んだ。


(このあいだ作った、ダークチェリーのコンポートがある……よし、クラフティ作ろう。簡単だし)


 クラフティというのは卵や牛乳をベースとした生地を、フルーツとともに型に流し、オーブンで焼き上げるお菓子である。こうやって説明すると敷居が高そうに感じるけれど、実際はとても簡単で、お店で食べるお菓子というよりは、お母さんがお休みの日に作ってくれるお菓子、という感じがする。

 ダークチェリーを入れるのが一般的だけれど、ベリーやリンゴ、桃なんかを入れても美味しい。今日は王道のダークチェリーがたっぷり入ったものにする。

 クラフティの作り方は非常にシンプルだ。まずは液状の生地――アパレイユを作る。卵と砂糖、ふるった薄力粉を入れて更に混ぜる。胡桃のレシピは、通常よりも粉が少なめのものだ。さらに牛乳と生クリームを加えて混ぜて、濾し器で濾す。

 ダークチェリーのコンポートを型にぎっしり詰めて、アパレイユを流し込む。180℃に予熱したオーブンで30分焼くと、完成だ。あったかいまま焼きたてを食べるのもいいけれど、今日はしっかり冷やすことにしよう。


 冷蔵庫でクラフティを冷やしているあいだ、ソファに寝転がって読書をして過ごした。

 登場人物の半数ほどが惨たらしい死を遂げたところで、お昼の12時を回っていることに気付く。昨日から降り続いていた雨も、どうやら止んでいるようだ。そろそろ佐久間も起きているだろうと思い、クラフティを持って部屋の外に出た。


「あっ」


 すると、ちょうどタイミング良く、隣の部屋から佐久間が出てきたところだった。七分袖の開衿シャツに細身のパンツという、久々に見るおでかけスタイルだ。最近はずいぶんと疲れた様子だったが、顔色も良い。


「佐久間さん! 原稿終わったの?」

「ああ、昨夜仕上げて送ったところだ。久しぶりにゆっくり寝れた。……まあ、また次の締め切りが迫ってるんだが」


 佐久間はそう言って、やれやれと首を振った。まだ完全に解放されたわけではなさそうだが、ひとまず落ち着いたらしい。原稿の進捗もそうだが、何より彼の体調が心配だったので、胡桃はホッとした。


「とりあえず、終わったならよかったです。今からどこか行くの?」

「実家に帰るところだ」

「そうなんですか。クラフティ作ったんですが……また明日にしましょうか?」


 胡桃の言葉に、佐久間は手元を覗き込んできた。タルト型に入ったクラフティを見て、ぱあっと表情を輝かせる。


「おお、ダークチェリーのクラフティか……! 美味そうだ」

「ありがとうございます。中に入ってる、ダークチェリーのコンポートも手作りなんですよ!」

「それは是非とも食べたいな。……ちょうどいい、きみも一緒に来るか」

「え、どこに」


 キョトンと瞬きをした胡桃に、佐久間は呆れたような目線を向けて、平然と言ってのけた。

 

「俺の実家に決まってるだろう」

「……ええええ!?」


 予想外の提案に、胡桃は素っ頓狂な叫び声をあげた。まさか、佐久間の実家にお呼ばれすることになるとは。そんな事態が起こるのは、もう少し未来さきのことだと思っていたのに。

 呆然としている胡桃に気がついたのか、佐久間は頬を掻いて、やや申し訳なさそうに言った。


「……あ、いや。もちろん、無理にとは言わないが」

「いえ、あの! 行きます! 行きたいです!」


(佐久間さんのご実家に行くってことは……さ、佐久間さんのご家族にお会いするってことだよね!?)


 勢いで答えたものの、何の準備もできていない。胡桃は慌てて自分の格好を確認する。部屋着同然のTシャツにスウェットスカート、適当なひとつ結びだ。こんな格好で、好きなひとの家族に挨拶などできるはずがない。


「ちょっ、ちょっと待ってください! すぐに着替えてきます!」

「なんでだ。べつに、必要ないだろう」

「ダメです! 佐久間さんのご家族に、ちょっとでも素敵なお嬢さんだと思ってもらいたいもん!」

「……きみは、その……そ、そのままで、充分だと思」

「5分だけ待ってください!」


 モゴモゴと呟く佐久間を遮って、胡桃は自分の部屋へと戻った。手持ちの服の中では比較的きれいめなセットアップに着替え、髪を結び直す。クラフティを保冷剤をセットした箱に入れて、念のため保冷バッグの中に入れた。


(……ああ、佐久間さんちに行くことがわかってたら、もっと凝ったもの作ったのに!)


 とはいえ、いまさら後悔しても仕方がない。旬のダークチェリーがたっぷり入った素朴なクラフティも、きっと美味しくできたはずだ。部屋から飛び出した胡桃は、佐久間に向かって「お待たせしました!」と頭を下げる。


「どうです? 素敵なお嬢さんに見えますか?」

「何の問題もない。そのうえ、クラフティで100点加点だ。さっさと行くぞ」


 佐久間はそう言うと、さっさとエレベーターに乗り込んでしまった。胡桃は慌てて、彼の背中を追いかける。




 佐久間の実家までは、地下鉄とJRを乗り継いで一時間ほどかかった。

 道中の佐久間は言葉少なだったが、胡桃は彼の眠そうな横顔を眺めているだけで楽しかったので、ちっとも退屈しなかった。先ほどまで読んでいた小説の感想を伝えると、やたらと恥ずかしそうにするところも可愛かった。やはり彼の照れ顔は健康に良い。


 電車を降りたのは、都心からは少し離れた住宅街だった。駅前には大きなスーパーがあり、小学校や公園がある。家族が暮らしやすそうなのんびりとした空気は、どことなく胡桃の実家近くにも似ていた。

 公園から出てきた子供たちが、水溜りを軽やかに飛び越え、はしゃいだ声をあげて傍らを駆けていく。胡桃はそれを微笑ましく見守りながら、隣を歩く佐久間の袖を引いた。


「ねえねえ。もしかして佐久間さん、そこの小学校通ってたの? どんな小学生だった?」

「ああ。途中で転校してきたんだが、友人が一人もできずに、ずっと図書室に篭っていた」

「わあ、イメージ通りです!」

「……そう言われると、少し複雑だな」


 なにげない住宅街の風景も、幼い佐久間が見ていた景色なのかも、と思えば特別なものに思える。楽しそうにあれこれ話しかけてくる胡桃に、佐久間は「何がそんなに面白いんだ」と不思議そうにしていた。


 駅から10分ほど歩いたところで、佐久間がぴたりと足を止めた。見ると、青い瓦屋根の一軒家が建っている。それなりに年季は入っていそうだが、なかなか大きな家だ。緑色の芝が生えた、こじんまりとした庭もあり、シルバーの表札にはローマ字で「SAKUMA」と刻まれていた。ここが佐久間の生家なのだろう。

 鍵を持っていないのか、佐久間は門の横にあるインターホンを押した。まだ心の準備が、と胡桃が慌てていると、玄関の扉が開いて小柄な中年女性が現れた。


「あらぁ、凌ちゃん。おかえりなさい」


 にっこり笑った顔と声は、佐久間杏子に驚くほどそっくりだった。前髪を斜めに流したショートヘアで、なかなかの美人である。

 胡桃が挨拶をするタイミングを窺っているうちに、彼女の方が胡桃に気がついた。目を真ん丸にして、こちらをまじまじと見つめている。胡桃はしゃんと背筋を伸ばしたあと、身体を二つ折りにしてお辞儀をした。


「あのっ、は、はじめまして! こ、糀谷胡桃といいます! えっと、わ、わたしは、さ、佐久間さんの……」


 そこで、胡桃は困ってしまった。佐久間との関係を、ご家族に何と説明したらいいのだろうか。ただの隣人なのか、それとも。

 口ごもる胡桃に気付いたのか、佐久間が胡桃の代わりに口を開いた。

 

「……その。彼女は、俺の」

「まーっ! あなたが噂の胡桃ちゃん!? 杏子から聞いてるわ! 凌ちゃんの素敵なお嫁さん候補だって!」

「およっ……!?」

「凌ちゃんが、凌ちゃんが! あの凌ちゃんが、可愛いお嫁さん連れてきたわよー!!」


 ご近所中に響き渡るほどの大声で叫んだ女性に向かって、佐久間は耳まで真っ赤になって「そういう関係じゃない!」と否定した。

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