11.女王のシャルロットケーキ(2)

 結局胡桃は杏子に連れられ、パティスリーを合計4軒回った。杏子のお薦めということもありどこも美味しく、胡桃は大満足だったが、本日のメインイベントはこれからである。

 なにせ憧れのアドリエンヌの、新作ケーキが食べられるのだ!


 店に到着するなり、杏子は「従業員専用」と書かれたパーキングに車を停めた。

 パティスリー〝アドリエンヌ〟は、都心からは少し離れた高級住宅街にある。最寄りの駅からは徒歩15分ほどかかり、アクセスが良好とは言い難い。お客様用の駐車場などもないらしい。しかし多くのファンがここのお菓子を求めて、はるばる足を運んで来るのだ。

 黒を基調としたガラス張りのスタイリッシュな外観で、入り口の上に〝Adrienne〟という看板が出ていた。今日は定休日らしく、ドアにはcloseの札が掛けられている。

 杏子は鍵を開けて、薄暗い店の中へと入っていく。イートインスペースのようなものはないし、店内はそれほど広くない。お客さんが五人も入れば満員だろう。入ってすぐのところにある透明なガラスケースの中は空っぽだ。杏子はさらにスタスタと歩いていくと、店の奥にある扉を開けた。胡桃はやや気後れしつつも、おずおずと杏子のあとについて中に入った。どうやらここが厨房のようだ。

 高級パティスリーの厨房はどれほど立派なのだろうかと思っていたのだが、実家であるko-jiyaのそれと大きく変わらない。さすがにオーブンや冷蔵庫は最新式のようだが、それ以外の器具は普段胡桃が使っているものと似たり寄ったりだ。プロは道具を選ばない、ということなのだろう。


「お疲れさまぁ」

「あっ、オーナー。おかえりなさい」


 中にいたのは、白いコックコートを着た背の高い男性だった。年齢は30代後半、というところだろうか。杏子は「ただいまー!」と笑って、勢いよく男に抱きつくと頬にキスをした。相変わらずの西洋式の挨拶に、胡桃は一人でアワアワしてしまう。


(よく考えると、わたし……部外者なのに、こんなところまで来てもいいのかな?)

 

 杏子に抱きつかれた男は、美女からのキスにも眉ひとつ動かさなかった。「はいはい」と引き剥がしたあと、胡桃に気付いて片眉を上げる。


「あれ。オーナー、そのへんで可愛い女の子ナンパしてきたんですか?」

「うふふ。胡桃ちゃんは可愛いうえに、お菓子作りも上手なの! ウチの凌のお嫁さん候補なのよぉ」

「え!? お、およめさんだなんて、そんな! き、気が早いです!」


 胡桃が真っ赤になって否定すると、男は「なるほど、オーナーの好みのタイプだ」と笑った。とびきり顔立ちが整っているわけではないけれど、落ち着いた雰囲気と清潔感がある素敵なひとだ。


「初めまして。僕はアドリエンヌのチーフパティシエの加賀見かがみです」

「は、初めまして。糀谷胡桃といいます」

「わたしは今パリにいるから、お店の方はほとんど加賀見さんにお任せしてるの。優秀なパティシエで助かるわぁ」


 アドリエンヌのチーフパティシエ、と聞いて、胡桃の背中はしゃんと伸びる。今目の前にいる男は間違いなく、日本でも五本の指に入るほどのパティシエである。

 

「加賀見さんはね、わたしが心底惚れ込んでスカウトした、世界一のパティシエなのよぉ! 何回も断られたのを、三年かけて口説き落としたんだから」

「いやいや。当時20代前半のお嬢さんに〝わたしの店でパティシエやらないか〟って誘われたら、普通断るでしょ」


 加賀見は苦笑した。杏子はたしか佐久間よりもふたつ歳上、まだ30そこそこのはずだ。この若さで名だたるパティシエを集め、アドリエンヌの経営を成功させている手腕は見事なものである。歳若い杏子がどうやって加賀見を口説き落としたのか、少し気になった。


「そんなことより、加賀見さん。頼んでおいたものはできてるかしら?」

「はい、オーナー。もちろんです」


 加賀見はまるで女王に傅く従僕のような仕草で、恭しくお辞儀をした。杏子は優雅な笑みを湛え、胡桃の手を軽く引く。

 

「じゃあ胡桃ちゃん、こっちに来てちょうだい」


 厨房のさらに奥にある扉の向こうに、狭い事務スペースがあった。事務机がひとつと、応接テーブルとソファがあるだけだ。事務机の上にはデスクトップのパソコンと、ファイルや書類が乱雑に置かれている。几帳面な栞が見たら、「きちんと整理しなさい」と怒り狂いそうな光景だ。

 胡桃と杏子がソファに向かい合って座ると、加賀見がトレイの上にティーセットとケーキを持ってやってした。胡桃の前にプレートを置き、耳に心地良いバリトンの声で囁くように言う。


「お待たせいたしました。甘夏のシャルロット・オ・フリュイでございます」

「わぁ……!」


 胡桃は思わず感嘆の声をあげた。

 シャルロットというのは、貴婦人の帽子に見立てたフランス菓子である。ビスキュイ生地でできた土台に、冷たいババロアとフルーツが詰め込まれている。胡桃の目の前にあるケーキには、オレンジ色の甘夏がたっぷりと乗せられている。さりげなく飾られたミントが、見た目にも爽やかだ。美しい断面は、淡いイエローとホワイトの二層からなっている。


「う、美しい……! 芸術品……! 美味しそうです!」

「6月から限定販売する予定なのよぉ。よかったら食べて、感想を聞かせて」

「はい! いただきます!」


 胡桃は両手を合わせて、ウキウキとケーキを口に運んだ。軽くてサクサクのビスキュイ生地は、口に入れた瞬間に心地良い音を立てる。フロマージュのババロアはひんやりなめらかで、口触りが良い。果肉がたっぷり入った甘夏のジュレは、それ単体でも勝負できるほどの美味しさだ。生地とババロアの甘さも絶妙なバランスで、みずみずしい甘夏の甘酸っぱさとの相性が最高だった。

 あまりの美味しさに圧倒され、胡桃は何も言えなくなってしまった。今まで自分が作っていたものは一体何だったのだろうかと、虚しささえ覚える。そういえば先日サブレを食べたときも、似たようなことを考えてしまった。


「……あの……すごく……美味しいです」


 やっとのことで、それだけ言えた。杏子は「よかったわ」と満足げに頷いてくれる。胡桃はもう一口ケーキを頬張り、ほぅっと甘い溜息をついた。


「すごい……スイーツ界の女王様って感じですね。満足感がすごい……」

「うふふ。ちなみにこれ、ワンカット3000円で販売する予定だから」

「さ、さんぜん……さ、さすが、高級感あります」


 改めて値段を聞くと、フォークを持つ手が震えた。アドリエンヌの価格帯を考えると、びっくりするほど高いわけではない。材料も最高級のものを使用しているだろうし、胡桃には想像もつかないほどの手間がかかっているはずだ。おそらくこの値段でも、きっと予約分は即日完売するのだろう。

 

 胡桃は3000円のケーキを、存分に堪能し完食した。紅茶とともに余韻に浸っていると、杏子は「さて、ここからが本題なのだけれど」と切り出してくる。

 どうやら彼女は、単に胡桃とパティスリー巡りをしたかっただけではなかったらしい。胡桃も居住まいを正し、「はい」とティーカップをソーサーの上に置く。


「胡桃ちゃんは、うちの店のことをどう思う?」

「どうって……すごいお店だと思います。なかなか買えないし、おいそれとは手が出せないですけど……一生に一度、特別な日に訪れたいお店って感じで」

「やっぱり、そうよね」


 杏子はうんうんと頷くと、まっすぐに胡桃を見つめてきた。焦茶色のアーモンド型の瞳は、驚くほどに澄み切っている。


「わたしね、今新しい店舗をオープンする計画を立ててるのよ」

「え!? そうなんですか!?」

「アドリエンヌはわたしの拘りが強すぎて、少し敷居が高くなりすぎたと思ってるの。今度はもっと気軽に立ち寄れるような、町のお菓子屋さんを作りたくて」

「町の、お菓子屋さん……」


 そのとき胡桃の脳裏に浮かんだのは、実家であるko-jiyaだった。常連さんである近所のひとたちが訪れては、店頭に立つ母と雑談を交わして、父の作った焼き菓子をニコニコと買っていく。幼い頃の胡桃は、その光景を見るのが好きだった。


「特別な日に食べる、特別なお菓子もいいけれど……もっと身近な、日常に寄り添ったお菓子屋さんを作りたいと思ってて。仕事帰りの会社員や、週末の家族連れがフラッと買いに来れるような。予約なんかしなくても、ちょっと落ち込んだときに立ち寄れて、元気が出るようなお菓子を届けられたらいいなって」

「……それは、素敵ですね」


 辛いことがあったとき、胡桃を励ましてくれるのはいつも甘いお菓子だった。落ち込んでいるときは甘いものに限る、と栞も言っていた。そうやって誰かに元気を与えられるお菓子を、胡桃も作りたいと思っていたのだ。

 身を乗り出した杏子が、胡桃の両手をぎゅっと握りしめてきた。彼女の手は胡桃のそれより小さく、佐久間と同じくらいに体温が高い。


「胡桃ちゃん。よかったら、私と一緒に働かない?」

「……え」

「新しい店舗は、来年の秋以降にオープンする予定なんだけど……胡桃ちゃんさえよければ、あなたを製菓スタッフとして雇いたいと思ってるの!」

「わ、わ……わたしを!?」


 予想だにしない提案に、胡桃は目を白黒させた。杏子の表情は真剣そのもので、握りしめた手に力がこめられる。


「で、でも……そ、それって、こ、コネじゃないですか!?」


 胡桃が言うと、杏子はふふっと目を細めて笑った。まるで少女のような純真無垢な笑みに、このひとの笑顔は本当に魅力的だな、と胡桃は思う。


「ただの情や義理で、一緒に仕事をするひとを選ぼうとは思わないわ。わたしはこれでも、ひとを見る目があると思っているの」

「そ、そんな……わたしなんて」

「あなたのカヌレもミルクレープも、素晴らしい出来栄えだったわ。丁寧で素朴で、とっても優しい味で。わたしが求めてるブランドイメージにぴったりなの」


 まっすぐに褒められて、胡桃の背筋は知らず伸びた。まるで女王の賞賛を受けた従僕のように、誇らしい気持ちになる。このひとには、何故だかひれ伏したくような不思議な魅力があるのだ。


「で、でもわたし。これまでパティシエとして働いた経験もありません」

「もちろん、うちで働く前にしっかり勉強はしてもらいます。研修体制もきちんと整えてるから、安心してね」

「……」

「もしあなたが将来独立したり、実家のお店を継ぐつもりがあるなら、修行の場だと思ってくれてもいいわ。どう、悪い話じゃないと思わない?」


 杏子はそう言ってウィンクをした。彼女の言う通り、胡桃にとっては悪い話ではない。むしろ、願ったり叶ったりだ。

 それでも胡桃は、即答できなかった。漠然と追ってきた目標が現実味を帯びてきた高揚感と同時に、なんだか急に恐ろしくなってしまう。今すぐにでも飛び込んでしまいたいのに、本当にそれでいいのか、と尻込みしてしまう。


「……すみません。すぐには……決められません」


 俯いてそう答えると、杏子は優しく「そうよねぇ」と頷く。そこでようやく、胡桃の手を離してくれた。


「今のお仕事のこともあるでしょうし、返事は急がないわ」

「……すみません……」

「引き受けてくれるのなら、来年の春頃から研修に入ってもらおうと思っているの。そうね、年内にはお返事をいただけるかしら?」

「わ、わかりました。必ず」

「うふふ、いいお返事を期待してるわぁ」


 そう言って優雅に微笑んだ女の顔は、「わたしの誘いを断るはずがないでしょう?」という自信に満ち溢れている。お菓子の城の女王様は余裕の笑みを浮かべ、優雅な仕草でティーカップを口を運んだ。

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