10.女王のシャルロットケーキ(1)

 5月最後の日曜日。今日はまるで夏を先取りしたかの陽気で、雲ひとつない空からさんさんと降り注ぐ日差しも眩しい。駅前を行き交う通行人の中には、半袖のTシャツ姿のひともいるぐらいだ。


 今日は杏子とともに、パティスリー巡りをすることになっている。一応出る前に佐久間に声をかけてきたが、「俺のことは気にせず、楽しんでくるといい」と言われた。口ではそう言っていたけれど、かなり恨みがましい顔をしていた。

 待ち合わせの駅の改札を出たところで、胡桃はキョロキョロと周囲を見回した。10時5分前だが、まだ杏子は来ていないらしい。

 バッグからスマホを取り出し、今着きました、とメッセージを送ろうとしたところで、クラクションの音が聞こえてきた。見ると、駅前のロータリーに、真っ赤なオープンカーが停まっている。ヒラヒラと手を振る運転手の顔を見て、ぎょっとした。


「! 杏子さん!」


 ド派手なオープンカーに乗っている美女は、佐久間杏子だった。胡桃が駆け寄ると、「乗って」と言われたので、素直に助手席に乗り込む。ちょうど通りかかった男性が、物珍しそうにこちらを見ていることに気がついて、少し照れた。


「びっくりした? この車、ちょっと目立つのよねぇ」

「は、はい。すごいです。杏子さん、かっこいいですね!」

「うふふ、ありがと」


 杏子はまるでハリウッド女優のようなサングラスをかけると、颯爽と車を発進させた。爽やかな初夏の風がふわりと頬を撫でて心地良い。

 まさかのデートに少し緊張していたが、ワクワクと心ときめく気持ちの方が大きかった。美味しいお菓子が食べられるのは楽しみだし、胡桃は綺麗な歳上のお姉さんが好きなのだ。



 胡桃は杏子に連れられ、杏子のお薦めのパティスリーへとやって来ていた。

 店を入ってすぐのところにあるガラスケースには、色も形もあざやかなケーキがずらりと並んでおり、奥にこじんまりとしたカフェスペースがある。あたたかみを感じるウッド調で統一された店内のインテリアには、店主の拘りが感じられた。

 店の奥が厨房になっているようで、ガラス窓の向こうにコック帽をかぶった男性の姿が見える。今は無き実家のお菓子屋さんを思い出して、ほんの少し切なくなった。もちろん、胡桃の実家である〝ko-jiya〟は、こんなにお洒落なパティスリーではなかったけれど。


「今日はわたしがご馳走するわ! 好きなものを選んで」

「えっ、いいんですか!? うわあ、どれも美味しそうで悩んじゃうな……ええと、じゃあこの、ピスタチオのやつにします。飲み物はどうしようかな」

「いいわねぇ。ムースケーキには、ストレートのキャンディティーがお薦めよ」

「じゃあ、それにします!」


 ケーキと紅茶のセットを注文し、胡桃と杏子はカフェスペースへと案内された。ふかふかのソファ席に、二人で並んで腰を下ろす。ほどなくして、ケーキと紅茶が運ばれてきた。

  

「お待たせいたしました。グラン・ピスターシュとキャンディティーでございます」


 ピスタチオグリーンのムースに包まれたケーキは、気後れするほど大きな皿の上で、可憐に佇んでいた。ツヤツヤと輝く半円形のケーキの上には、生クリームとフランボワーズが控えめに乗せられている。ワクワクと高鳴る気持ちでフォークを入れると、鮮やかなピンク色のフランボワーズムースが姿を現した。


「わあ、美味しそう……! いただきます!」

 

 ぱくりと一口頬張ると、香ばしいピスタチオと甘酸っぱいフランボワーズの風味が、絶妙のバランスで広がる。ふわふわのムースが口の中でとろけて、胡桃はほうっと感嘆の息を吐いた。濃厚でありながらしつこくなく、上品な甘さだ。杏子がお薦めしてくれた紅茶も、すっきりと癖のない味わいでケーキによく合う。


「ケーキも紅茶も美味しいです!」

「でしょう!? ここのケーキはムースが濃密で、ほんとに美味しいのよぉ」

「ほんとに、ふわっふわのムースですね! この食感、どうやったら出せるんだろう。やっぱり、ピスタチオとフランボワーズって合うなあ……」


 今度、ピスタチオとフランボワーズのマフィンでも作ってみようか。ピスタチオペーストを練り込んだ生地の中に、冷凍のフランボワーズをたっぷり入れるのだ。マカダミアナッツをトッピングするのも良いかもしれない。


「はぁ、ほんとに美味しいわ……」

 

 うっとりと呟いた杏子が食べているのは、イチゴとホワイトチョコのムースケーキだ。そっちも美味しそうだな、と思って見ていると、胡桃の視線に気付いたらしい杏子がニコッと微笑む。


「よかったら、一口食べる? はい、あーん」

「あ、あーん……」


 おずおずと口を開いた胡桃に、杏子はケーキを食べさせてくれた。こちらも抜群の美味しさだったが、美女の手ずからケーキを食べるのはドキドキする。


(休みの日に、こんな綺麗なひとと一緒にとびきり美味しいケーキ食べるなんて、なんという幸せ……!)


 大きめの窓の外には鮮やかな空が見えて、ぽかぽかと穏やかな日差しが射し込んでいる。フカフカのソファ席に座って紅茶の芳しい香りを嗅いで、甘いケーキを食べていると、なんだか夢の中にいるような心地になってきた。

 きっと佐久間は今ごろ、締切に追われてウンウン苦しんでいるのだろう。ちょっと申し訳なくなってきた。何かお土産を買ってあげよう、と胡桃は心に決める。

 杏子は優雅にケーキを食べて、とろけるような笑みを浮かべている。その幸せそうな表情は、彼女の従弟である偏屈な男を思い起こさせて、胡桃は思わず笑ってしまった。


「ふふっ。杏子さん、佐久間さんに似てますね」

「……あらまあ。それはあんまり、嬉しくないわねぇ」


 胡桃の言葉に、杏子は不服そうに唇を尖らせた。胡桃にしては最大級の褒め言葉のつもりだったのだが、彼女にとってはそうではないらしい。


「す、すみません。お菓子食べたときの反応がそっくりで」

「まあ、小さい頃から一緒にいるからねぇ。昔はよく、わたしの母が作ったお菓子を取り合って喧嘩をしたものよ」

「へえ! 杏子さんのお母さんも、お菓子作りされるんですか?」

「うふふ、そういえば昔はよく作ってくれたわねぇ。もちろんプロじゃないから、胡桃ちゃんみたいに上手ではなかったけど……わたしと凌のお菓子好きは、母の影響なのかも」


 杏子はそう言って、何かを懐かしむように遠い目をした。杏子の母親、ということは、佐久間にとってはにあたるはずだ。


(そういえば、佐久間さんのご両親の話って聞いたことないな……)


 佐久間は胡桃に、自分の話をあまりしない。おそらく訊けば教えてくれるのだろうが、胡桃自身も彼に対してどこまで踏み込んでいいものか、距離感を測りあぐねているのだ。

 そのうちそれとなく尋ねてみようか、と考えているうちに、杏子が話題を転換させた。


「胡桃ちゃんのご実家は、お菓子屋さんなのよね?」

「はい! ko-jiyaっていう小さな店で……」

「ふむふむなるほど、ko-jiyaさんね。ごめんなさい、存じ上げなかったわ」

「いえ、知らなくて当然です! ほんとに地元のひとしか来ないような、ローカルなお店だったので」


 思えば、佐久間が実家の店を知っていたのも奇跡のようなものだ。もしかすると、意外と近くに住んでいたことがあるのかもしれない。


「それに父が腰を痛めたから、今はもう閉めてるんです」 

「あらあ、それは勿体無いわねぇ。凌があれだけ褒めるぐらいだから、きっと美味しいのでしょうに。胡桃ちゃんが、お父様の跡を継げばいいんじゃない?」


 杏子はあっさりと言ってのけたが、胡桃は力なく首を振る。残しておいたケーキの最後の一口をぱくりと食べ、紅茶を飲んでから、答えた。


「……きっと、父は……わたしなんかに、お店を任せないと思います。たぶん、おまえなんかじゃ修行が足りないって、叱られちゃう。もっときちんと、勉強しておけばよかったんですけど……」


 素人に教えるようなものじゃない、と胡桃を突き放す父の声を思い出して、溜息をつく。

 いまさら店を継ぎたいと言ったところで、おそらく父は許してはくれないだろう。これまで大事にしてきたko-jiyaの看板をおまえなんかに任せられるか、と憤る姿が目に浮かぶようだ。


「……と、いうことは。胡桃ちゃんがどこかできちんと修行をすれば、問題ないのよねぇ?」

「え?」

「さあ! もう少しゆっくりしたい気持ちもあるけど、そろそろ次に行きましょうか! まだまだ、胡桃ちゃんと一緒に行きたいお店がたくさんあるのよ!」


 杏子はそう言うと、意気揚々と立ち上がった。胡桃も瞳を輝かせて「はい!」と答え、軽い足取りで彼女の背中を追いかける。

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