09.ごほうびミルクレープ(3)

 杏子は胡桃に抱きついたまま、胸元に顔を埋めて「……あら?」と不思議そうな声を出した。すんすんと匂いを嗅がれて、少々居た堪れない気持ちになる。


「おい、いい加減に彼女から離れろ」


 オロオロしていると、佐久間の手によって半ば強引に引き剥がされた。杏子は胡桃と佐久間の顔を交互に見比べて、品のある仕草で小首を傾げる。


「どうして胡桃ちゃんから、凌の香水の匂いがするのかしら」

「……う゛っ」

「もしかして、二人でお楽しみ中だったの? 邪魔してごめんなさいね」


 邪魔と言われるとたしかにそうかもしれないが、ハイともイイエとも言い難く、胡桃は真っ赤になって俯いていた。佐久間は頬を染めて、気まずそうに頭を掻いている。

 どこまでもマイペースな美女は、キッチンに置かれたミルクレープを目敏く見つけて、「あらあらあ!」とはしゃいだ声をあげた。


「とっても美味しそうなミルクレープ! もしかして、胡桃ちゃんが作ったの?」

「は、はい」

「いいわねえ、ほんとに美味しそう……ねえねえ、わたしも食べていいかしら?」

「えっ」


 胡桃はドキッとした。なにせ杏子は超有名パティスリー、アドリエンヌのオーナーである。昨日食べたばかりのサブレの味を思い出して、尻込みしてしまった。以前は何も知らずに手作りカヌレを食べさせてしまったが、素人である胡桃の作ったものを食べてもらうのは畏れ多い。


「ねえ、いいでしょう? ちょうど、甘いものが食べたいと思ってたのよぉ」


 しかし、キラキラと期待に輝く瞳に見つめられては、断ることなどできそうもない。圧に負けた胡桃が「はい」と頷くなり、杏子はウキウキとダイニングチェアに腰を下ろした。


「紅茶は……ディンブラにしたのね。なかなか良いチョイスだわ。凌、わたしのぶんも淹れてくれるかしら? ミルクティーがいいわね」

「……」


 佐久間は不服そうにしつつも、杏子のぶんの紅茶を淹れた。いつも傍若無人な佐久間だが、美人の従姉には頭が上がらないらしい。

 胡桃はミルクレープを切り分け、杏子の目の前に置いた。佐久間もおかわりを食べるらしく、ふた切れ目を持ってきている。

 正面に座った杏子が「いただきます」と微笑み、フォークを入れるさまを、胡桃は固唾を飲んで見守っていた。


「……うーん! 美味しいわぁ」


 満足げにふにゃっと笑った杏子を見て、胡桃はホッと胸を撫で下ろす。隣でミルクレープを食べている佐久間は、得意げに「当然だ」と頷いた。


「杏子は知らないだろうが、彼女の真骨頂は焼き菓子にある。先日食べたティグレも素晴らしかった」

「謎のマウンティング、やめてよね。どの立場からものを言ってるの? ほんとにあなたって、性格悪いわぁ」


 杏子は軽く唇を尖らせたあと、また一口ミルクレープを食べる。味わうようにうっとり目を閉じて、うんうんと頷いた。

 

「一般的なものより、クレープ生地が柔らかいわね。これを破れないように綺麗に重ねるのは、なかなか繊細な作業が必要だと思うわ」

「あ、ありがとうございます」

「特に、中に入っているカスタードクリーム! 甘すぎず舌触りが滑らかで、絶品だわ。レシピを教えてもらいたいぐらい。何を参考にしてるのかしら?」

「レシピは大抵、父の直伝です。わたしの実家、お菓子屋さんだったので」

「あら、そうだったの!? お父様もパティシエだなんて、素敵ねえ」

「俺もかつてよく通っていたが、本当に良い店だった。あそこのフィナンシェが、俺が世界で一番好きなフィナンシェだ」

「そうなのね。わたしも食べてみたいわぁ……胡桃ちゃんは、ご実家のお店を継ぐ予定はないの?」

「えっと……わたし、は……」


 まさしく今自分が思い悩んでいるところを突っ込まれて、胡桃は口ごもる。そんな胡桃の様子に気付いたのか、佐久間が「おい」と杏子を睨みつけた。


「無遠慮にあれこれ尋ねるな。そもそも、おまえは何しにここに来たんだ」

「帰国してきたから、胡桃ちゃんに会いに来たのよぉ。べつに、あなたの顔見に来たわけじゃないわ」

「彼女に何の用だ」

「凌ばかり、可愛い胡桃ちゃんを独り占めするのはずるいわ。わたしだって、胡桃ちゃんとイチャイチャしたいもの」

「べ、べ、べつに独り占めしているつもりはないし、い、イチャイチャしてるわけでは……」

「よく言うわぁ。香水の匂いが移るようなことしてたくせに。ね、さっき何してたの?」

「……黙秘する」


 二人のやりとりに遠慮は感じられず、なるほどたしかに姉弟のようだな、と思う。ニコニコと感じの良い杏子と、ムスッと仏頂面の佐久間は、正反対のようでどこか雰囲気が似通っていた。


 ミルクレープを食べ終えた杏子は、「ごちそうさま!」と笑顔で両手を合わせた。

 そういえば佐久間も、きちんと手を合わせて「いただきます」と「ごちそうさま」を言うひとだ。きっと育ちが良いのだろうな、と胡桃は思う。


「ねえねえ胡桃ちゃん。明日、お時間あるかしら?」

「へ? あ、はい。あ、あります」


 明日は日曜日だし、お菓子を作る以外の予定はない。胡桃の返答に、杏子は目を細めてニッコリと微笑む。


「よかったら、一緒にお出かけしない? 胡桃ちゃんと、パティスリー巡りがしたかったの! 特別にウチの店の新作ケーキも食べさせてあげるわ!」

「え!? いいんですか!? も、もちろんです、絶対行きます!」


 アドリエンヌの新作、と聞いて、胡桃は思わず身を乗り出した。そんなもの、少しでもお菓子が好きな人間なら、誰しも食べたがるはずだ。先日食べたサブレもとびきり美味しかったし、新作のケーキなんて絶対美味しいに決まっている。

 隣に座っている筋金入りのスイーツオタクも、目の色を変えた。

 

「なんだ、それは。俺も連れて行け」

「絶対嫌よぉ。胡桃ちゃんとのデートなんだから! そもそもあなた、仕事があるんじゃないの?」

「……う……」

「その様子だと、あんまり順調じゃないんでしょう。いい大人なんだから、大和くんに迷惑かけちゃダメよぉ」

「……大丈夫だ。まだ全然、巻き返せる範囲だ」

「あら! やだ、もうこんな時間! じゃあ胡桃ちゃん、明日の朝10時に待ち合わせしましょう。あとでショートメール送るわね」


 杏子は腕時計に視線を落とすと、慌ただしく立ち上がる。最後にもう一度、「あなたのミルクレープ、とっても美味しかったわぁ」と褒めてくれた。


「そろそろお暇するわね。どうぞごゆっくり、わたしが来る前の続きをどうぞ」

「しない!」


 ウィンクを投げつけてきた杏子に、佐久間は真っ赤になって言い返す。杏子は「あらあらぁ」と笑いながら、颯爽と部屋から立ち去っていった。まるで、嵐のようなひとだ。

 

 ダイニングに残された胡桃と佐久間のあいだに、どことなく気まずい空気が流れる。佐久間は視線を彷徨わせながら、ぎこちなくティーカップを口に運んでいる。


「あの……さっきの続き、しないの?」

「ぶっ」


 胡桃が問いかけると、佐久間は紅茶を吹き出しそうになった。ゲホゲホと咽せている彼の背中を、胡桃は慌ててさすってあげる。


「大丈夫ですか?」

「……ゲホッ! ゲホッ……いや、も、もう充分だ。これ以上は良くない。このままだと、原稿どころじゃなくなる。それはまずい」 

「そっかあ……そういえばさっき、佐久間さん何か言いかけてましたよね。何でした?」

「…………いや、いい。またの機会にする」


 胡桃の方はもっとぎゅっとしたかったし、彼の言葉の続きも聞きたかったのだけれど、佐久間がそう言うなら仕方ない。あまり強引に迫って、彼に引かれてしまうのも嫌だ。

 胡桃は彼の顔を覗き込むと、小さく首を傾げた。

 

「セロトニン、いっぱい出た?」

「……え? あ、ああ……そりゃもう。かなり」

「よかったぁ! じゃあ、ごほうびの続きは、原稿が終わってからにしましょうね! なんでもしてあげますから!」


 満面の笑みで言ってのけた胡桃に、佐久間は再び咽せてしまった。再び背中を撫でてあげると、真っ赤な顔で睨まれてしまった。


「……お、男に対して、簡単に〝なんでもする〟などと言うものじゃない!」

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