08.ごほうびミルクレープ(2)
土曜日の朝。昼前に起床した胡桃は、眠い目を擦りつつ、佐久間のためにミルクレープを作ることにした。何層ものクレープ生地にカスタードクリームとフルーツをたっぷり挟んだ、とびきり贅沢なものにしよう。
カスタードクリームは、ゆうべのうちに作って冷蔵庫に入れてある。さっそく、クレープ生地作りに取りかかった。
薄力粉と砂糖、塩をボウルに入れて、卵と牛乳の半量を入れて混ぜ合わせる。この薄力粉を、少しだけコーンスターチに変えると、柔らかな仕上がりになり舌触りが良くなるのだ。製菓用の胡麻油を加えて、さらに混ぜる。残り半分の牛乳を入れて混ぜてから、生地を漉して30分ほど休ませる。
熱したフライパンに生地を流し、薄いクレープ生地をせっせと焼いていく。焼き上がったクレープ生地は、粗熱を取ったあとで冷蔵庫で冷やす。
クレープ生地にカスタードを塗り、その上に薄切りしたフルーツを並べる。今回はイチゴとキウイ、バナナを用意した。それを何度も繰り返して重ねていくと、ドーム型になる。上にトッピング用のイチゴとホイップクリームを飾れば出来上がりだ。
カジュアルなスウェットワンピに着替えてメイクをしたあと、ミルクレープとともに佐久間の部屋へと向かう。インターホンを押したのち、ややあって扉が開いた。
「……ああ、きみか……」
「さ、佐久間さん。大丈夫ですか?」
およそ二日ぶりに会った佐久間は、すっかり憔悴しきっていた。目の下にはべったりと隈が貼りついて、顔色は悪く表情にも生気がなく、まるでホラー映画に出てくるゾンビのようだ。こんなゾンビになら、噛みつかれても構わないけれど。
「あの、お菓子作って来ました」
「……ああ。いつも、悪いな」
「いえ、わたしが来たくて来てるので」
佐久間はぐったりとした様子でリビングに戻ると、ソファにドカッと腰を下ろした。天井を見上げる目は虚ろで、完全に魂が抜けている。きちんと心臓が動いているのか、心配になるほどだ。
キッチンに立った胡桃は、崩れないように慎重にミルクレープを切り分ける。何層にも重なった美しい断面に、絶妙のバランスでイチゴが見えている。我ながら芸術的な断面、と惚れ惚れしつつ、佐久間の元へと持って行った。ローテーブルにミルクレープを置くと、ゾンビの瞳にようやく光が宿った。
「おお……素晴らしい断面だ。すぐに紅茶を淹れよう」
佐久間はすくっと立ち上がると、先ほどまでの緩慢さが嘘のようにテキパキと紅茶を淹れ始めた。ティーセットを持って戻ってきた彼は、目線だけで胡桃に「座れ」と促してくる。胡桃がソファに腰を下ろすと、彼も隣に座ってきた。
「……では早速、いただこう」
「はい、召し上がれ」
佐久間はミルクレープを綺麗にフォークで切り分けて、口に運ぶ。目を閉じてミルクレープを味わう佐久間の横顔を、胡桃はじっと見つめていた。
「……見た目の美しさもさることながら、やはり味も最高だ。クレープ生地が柔らかく、濃厚なカスタードクリームを引き立てているな。甘酸っぱいフルーツとの組み合わせもたまらない」
「えへへ。ありがとうございます」
幸せそうにミルクレープを頬張り、ティーカップに入った紅茶を飲み干したあと、佐久間ははーっと深い溜息をついて項垂れてしまう。多少は復活したようだが、相変わらず疲弊した様子の彼を見て、胡桃は眉を下げて問いかけた。
「あの……もしかしてお仕事、あんまり順調じゃない?」
「……ここ数日、まったく進んでいない。書いては消して書いては消しての繰り返しで、むしろ後退しているぐらいだ。先がまったく見えない」
「小説書くって、大変なんですね……」
「そもそも、一発ネタのつもりで書いた短編をシリーズにするなんて、どだい無理な話だったんだ。連作短編って何なんだ。そんなに都合良く、ひとつひとつの物語が繋がるわけがないだろう。上手いことまとめてください、なんて簡単に言ってくれるな」
佐久間は頭を抱えている。どうやらよほど困苦しているらしいが、小説のことなど何もわからない胡桃には、どうしてあげることもできない。お菓子を作ることしかできない自分がもどかしい。彼はいつも、落ち込む胡桃の愚痴を聞いて、不器用に励ましてくれるのに。
(何か、他に……わたしにできること、あるかなぁ)
追い詰められた様子で「やはり、そろそろ世界を滅ぼすしか……」と呟いた佐久間の背中に、胡桃はそっと片手を置いた。
よしよしと宥めるように撫でてあげると、佐久間がびくりと肩を揺らす。やや戸惑ったような視線をこちらに向けてきたけれど、やめろとは言われなかった。
「あ、あの……佐久間さん」
「……なんだ」
「は、ハグ……しましょうか」
「……………………は?」
胡桃の提案に、佐久間はぽかんと口を開けて、まじまじとこちらを見返してくる。勢いに任せて、ずいぶんと大胆な提案をしてしまった。胡桃は恥ずかしさを誤魔化すように、大きく両腕を広げてみせる。
「は、ハグをするとですね。ナントカっていう幸せ成分が出るって聞いたことがあります」
「……セロトニン」
「そ、そうですそれです。セロトニンです。こう、ぎゅーっとすると、セロトニンがどばーっと」
「……」
「つ、疲れてる佐久間さんを、少しでも癒せないかと思って……が、がんばってるごほうび? みたいな……」
じいっとこちらを見つめる視線に居た堪れず、ゴニョゴニョ、と語尾が消えていく。彼を癒したかったのは本当だけれど、どんな言い訳を並べたところで、胡桃の下心が含まれていることには間違いない。
(これは、かなり……図々しかったかも……)
両手を広げた体勢のまま、胡桃はおおいに後悔していた。自分とのハグがごほうびだなんて、付き合ってもいないのに厚かましすぎる。
「や、やっぱり……」
やめておきましょうか、と言う前に、佐久間が胡桃の両肩を掴む。
「本当に、いいんだな」
やけに余裕のない表情で、そう尋ねられた。反射的にこくりと頷いた次の瞬間、胡桃は引き寄せられ、彼の腕の中に閉じ込められていた。
「……!」
佐久間は胡桃の背中に腕を回し、まるで縋りつくかのように抱きしめてくる。少しの隙間もなくぴったりと触れ合った身体は、ごつごつとした男のものだ。
心臓のあたりに耳を押しつけると、ドッドッと早鐘のような鼓動が響いていた。きちんと心臓が動いているのは一安心だが、それはそれでまた別の不安が湧き上がってくる。
「……だ、大丈夫ですか? なんか、心臓の音がすごいことになってますけど! セロトニンじゃなくて、アドレナリンが出てません?」
「……いや……気にするな」
「あの。ちゃんと、い、癒されてます……? ごほうびに、なってるかな……嫌じゃない?」
胡桃がおずおずと尋ねると、佐久間は返事の代わりに、胡桃を抱く腕に力をこめた。1ミリだって離れたくなくて、胡桃も彼にぎゅっとしがみついた。
アールグレイの紅茶にも似たベルガモットの匂いと、ほんの少しの煙草の匂い。そんな彼の香りに包まれていると、どんどん気持ちが溢れてきてしまう。
「……佐久間さんの匂い、好き」
胡桃がぽつりと呟くと、佐久間は胡桃の髪に頬を寄せて言った。
「……きみからは、いつも甘い香りがする。バニラのような匂いだ」
「そ、そうですか?」
自分の匂いって、自分ではよくわからない。改めて言われると、なんだか落ち着かない気持ちになる。
モゾモゾしていると、「あまり動かないでくれ」と言われ、余計に強く拘束されてしまった。息が止まりそうなほどきつく抱きしめられて、ちょっとだけ苦しい。
「んん……佐久間さん、苦しい……」
「…………き、だ」
胡桃の言葉など聞こえていない様子で、彼は耳元で何かを囁いてくる。上手く聞き取れず、訊き返そうと顔を上げると、コツンと額と額がぶつかった。彼の額は、胡桃のそれよりもうんと温度が高い。
「さ、くまさん」
意外と整った彼の顔が、今にも唇が重なりそうなほど間近にある。真っ赤な顔で、苦しげに眉間に皺を寄せた彼が、ゆっくりと口を開いた。
「……俺、は。……その、き、きみのことが」
――ピンポーン
佐久間の言葉を遮ったのは、またしても無慈悲なインターホンの音だった。
「……」
「……」
胡桃と佐久間は、しばし見つめ合ったままその場で固まってしまった。再び鳴り響いたインターホンに、お互いそそくさと離れる。佐久間はその場で項垂れ、身体を震わせている。
「……あの男はっ、本当に……!」
「……え、あ、つ、筑波嶺さん、かな?」
「どうしてことごとく、図ったようなタイミングでやって来るんだ。今日こそは一言文句を言ってやる」
勢いよく立ち上がった佐久間は、肩を怒らせながら足早に玄関へと歩いていく。残された胡桃が、ぼうっとハグの余韻に浸っていると、何やら言い争う声が聞こえてきた。
「おい、何しに来たんだ。勝手に入るな!」
「何言ってるの、もともとここはわたしの部屋でしょう」
「今は俺の部屋だ。頼むから、今日は帰ってくれ」
「あらあ、凌がそこまで嫌がるなんて珍しいわね。わたしに見られて困るものでもあるのかしら?」
佐久間の制止を振り切って入ってきたのは、おっとりした雰囲気のある垂れ目の美女――佐久間の従姉である、杏子だった。
杏子はソファに座っている胡桃を見るなり「まあ!」と目を丸くする。駆け寄ってきた彼女は、思い切り抱きついてきた。
「ひゃあ!?」
「胡桃ちゃん、久しぶりー! 会いたかったわぁ」
目を白黒させている胡桃の頬に、杏子はちゅっと唇を押しつける。佐久間の「おい、彼女に何をやってるんだ!」という叫び声が、部屋の中に響き渡った。
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