07.ごほうびミルクレープ(1)

 それから二週間が経った、5月の末。

 次に会ったら、今度こそちゃんと告白しよう――と思っているうちに、佐久間の原稿の進捗が怪しくなってきたらしい。日を重ねるごとに、どんどん疲労の色が濃くなっていく。お菓子は美味しそうに食べてくれるし、胡桃の前では苛立ちを露わにしないものの、眉間に皺を寄せて難しい顔をしていることが多く、告白なんてする雰囲気にはならない。


(告白するのは、佐久間さんの原稿が終わってからにしよう)


 もし幸運にも佐久間と交際する日が来たとしても、彼の重荷や負担にはなりたくない。物分かりの良い彼女でありたい、と胡桃は常々思っているのだ。

 そうして胡桃はせっせとお菓子を作っては隣の部屋へと持って行き、日に日に憔悴している隣人のことを心配していた。




「あら、これ美味しいわね。フィナンシェ?」


 昼休み。社員食堂でお弁当を食べたあと、胡桃は持って来たお菓子を栞に振る舞っていた。ここ最近は胡桃への悪評も収まりつつあるため、昼休みを社内で過ごすことも多くなっている。

 上品な仕草でお菓子を頬張る栞に向かって、胡桃は前のめりで説明した。


「似たようなものなんですけど、ティグレっていう焼き菓子です。フィナンシェ生地の中にチョコチップが入ってて、さらにチョコレートを流し込んでいるんですよ」


 ティグレというのはフランス語で「虎」という意味らしく、生地に入ったチョコチップが虎模様に見えることが名前の由来のようだ。愛らしい楕円形の中央に穴が空いており、その中にたっぷりチョコガナッシュを入れ込んだ。

 タッパーからひとつティグレを掴んで、口の中にぱくりと放り込む。ゆうべも焼き立てを食べたけれど、一晩経ってもしっとりしていてとても美味しい。いろんなアレンジが効きそうだな、と職場であることも忘れてあれこれ考え込んでしまう。生地をアールグレイ風味にして、中にシトロン味のキャラメルを入れるのもいいかもしれない。

 もうひとつ、と手を伸ばしかけて、慌てて手を引っ込めた。最近は毎晩のようにお菓子を作っているし、ちょっと食べ過ぎだ。


「な、夏原先輩! わたしに構わず、どんどん食べてください!」

「嬉しいけれど、そんなにたくさんは食べられないわ」

「そんなあ、困ります! わたし、ゆうべもいっぱい食べちゃったんですよー!」

「……あら。また例のお隣さんのところに行っていたの?」

「へへ……実は、そうなんです」


 栞の問いに、胡桃は照れ笑いで返した。

 締切前で佐久間が疲弊していることもあり、あまり長居はしないようにしているが、最近はしょっちゅう彼の元を訪れている。昨夜ティグレを持って行ったところ、紅茶とともに嬉しそうに食べてくれた。しかし、目の下の隈が日に日に酷くなっているのが心配だ。もしかすると、まともに眠っていないのではないだろうか。

 昨夜は帰り際に「また、来てくれるか」と尋ねられたので、「もちろん!」と即答した。よほどストレスが溜まっていて、お菓子が食べたいのだろう。佐久間のことが心配なのはもちろんだし、頼られるのは嬉しいし、胡桃だって彼に会いたいのだ。お菓子を作るとストレス解消にもなって、もはや一石四鳥。今日は金曜日だし、夜のうちに仕込みをしておいて、明日のお昼に持って行ってあげよう。


「順調みたいね。……いろいろあったみたいだけど、あなたが幸せそうならよかったわ」


 栞はそう言って、微かな笑みを浮かべる。普段の厳しさからは想像できない、聖母マリアのような美しく慈愛に満ちた表情だ。もしも佐久間がいなければ、胡桃は栞にプロポーズのひとつでもしていただろう(あなたなんてお断りです、とこっぴどく振られるまでがセットだ)。

 

「うふふ、まだ付き合ってはいないんですけどね! 今、向こうの仕事が大変そうなので……落ち着いたら告白するつもりなんです!」

「そうなの。頑張ってね。お仕事って、何をされてる方なの?」

「実は、小説家さんなんです」

「……あら。それって、もしかして」


 何かを察したらしい栞が、片眉を持ち上げる。そのとき、「糀谷さん!」という声が食堂に響いた。

 見ると、爽やかな笑みを振り撒いた水羽が駆け寄ってくる。遠慮なく胡桃の隣に腰を下ろした水羽は、右手に持った紙袋を差し出してきた。


「これ、よかったら佐久間先生と一緒に食べなよ。さっき取引先のひとに貰ったんだけど、俺甘いもの食べられないからさ。なんか有名なやつなんでしょ?」

「あーっ! アドリエンヌのサブレ詰め合わせじゃないですかー!」


 紙袋の中身を覗き込んだ胡桃は、思わずはしゃいだ声をあげた。アドリエンヌは都内の超有名かつ超高級パティスリーであり、オーナーはなんと佐久間の従姉である。

 アドリエンヌのお菓子はすべて予約限定販売であり、そう簡単には入手できない。このサブレ詰め合わせも、おそらく5000円ぐらいするはずだ。こんなものをポンと手に入れるあたり、やはり水羽の営業としての手腕は素晴らしいものなのだろう。


「わーい! 嬉しい、ありがとうございます! 佐久間さんと一緒に、美味しく食べますね」

「うん。俺からだって、くれぐれもよろしく伝えておいて。このあいだはいきなりお邪魔して、迷惑かけちゃったからさ」


 胡桃と水羽のやりとりを聞いていた栞が「やっぱり」と息を吐いた。


「……糀谷さんのお隣さんって、佐久間諒なのね」

「あ、実はそうなんです。内緒にしててくださいね」

「俺が頼んで、佐久間先生に引き合わせてもらったんだ。そういえば今度、筑波嶺さんと二人で飲みに行くことになってさ」

「え、いつのまに……」


 二人でずいぶん盛り上がっているとは思っていたが、そこまで仲良くなっていたとは。帰り際にTwitterのアカウントを互いにフォローし合っていたのは把握していたのだが、二人で飲みに行くとはなかなかの親密度である。


「佐久間諒オタクの中にもさまざまな派閥があるんだけど、筑波嶺さんはかなり俺と好みが近いんだよね。いやあ、彼に出逢えてよかったよ。本当にありがとう」


 水羽は生き生きとした様子で瞳を輝かせている。幸せそうで何よりだ。彼を振ったことへの罪悪感のようなものは、胡桃の中にまだ残っているけれど、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった。優しい先輩たちに囲まれて、胡桃は幸せだ。


(わたしって、恵まれてるなぁ……)


 新年度に入ってから、会社における胡桃のストレス要因はぐっと少なくなった。

 営業二課の冴島さえじま課長は相変わらず嫌味だし、社員たちに無茶を押し付けられることもあるし、相変わらず仕事は遅いけれど。それでも彰人がいなくなったことで、胡桃の悪評もほぼ消え失せた。苦手だった堂本パワハラ課長も異動になった。胡桃への当たりが強かった前川まえかわ梢絵こずえも、表立っては何も言ってこなくなった。一度ぴしゃりと言い返したことが、功を奏したのかもしれない。

 胡桃の会社生活は、入社して以来初めてといっていいほど、穏やかで平和なものになっていた。


(……やっぱり、会社辞めなくてもいいかな)


 胡桃は未だ、自分が進むべき道に悩んでいた。新たなステージに挑戦したい、という気持ちはもちろんある。それでもさまざまな決意が、怪我をしたこともあって振り出しに戻ってしまった。


「アドリエンヌ、っていったかしら。そのクッキー、そんなに美味しいの?」

「わたしも食べたことないんですけど、すっごく高くて美味しいらしいですよ! 夏原先輩、よかったら一緒に食べませんか? 水羽係長、いいですよね?」

「うん、いいよ」


 胡桃はサブレの袋を開けて、栞に差し出した。サブレをひとつ摘んだ栞は、サクッと音を立てて齧る。途端に、こぼれ落ちそうなぐらいに大きく目を見開いた。


「うわっ! 何これ、美味しい!」

「……夏原さん。〝うわっ〟とか言うんだ」


 普段クールな栞の意外なリアクションに、水羽はやや驚いたように瞬きをした。栞はもう一口食べて、「ものすごく美味しい……」と呆然としている。

 胡桃も栞に続いて、サブレに齧り付いた。ほろ苦いビターショコラの味わいに、高級感が溢れるバターの香り。軽いサクサク感とほどよいしっとり感が見事に両立しており、いくらでも食べられてしまいそうだ。

 一言でシンプルに言うならば――アドリエンヌのサブレは、信じられないぐらいに美味しかったのだ。これまで培ってきた胡桃の自信を、たやすくへし折ってしまうほどに。


(……やっぱり、プロの作ったものってすごい……)


 胡桃は愕然としつつ、ショコラサブレを頬張る。こうして実力の差を目の当たりにすると、あらためて自分の考えの甘さを思い知らされた。


(やっぱりわたしには、無理なのかも……べつに、プロにならなくてもいいのかな。仕事しながらでも、いろんなやり方があるもんね)


 そんなことを考えてしまって、溜息をついた。もし厳格な菓子職人だった父が聞いたら、「中途半端な気持ちなら最初からやるな」と叱られてしまうかもしれない。

 甘くてほろ苦い、サクサクのショコラサブレはとびきり美味しいのに。胡桃の気持ちは、なんだか少し落ち込んでしまった。

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