06.ほどける誤解とブールドネージュ(3)

 二人で部屋から出てエレベーターに乗り込むなり、佐久間は深い溜息をついた。ずいぶんとげんなりした様子で、やれやれと首を振っている。


「……目の前で自分の作品についてあれこれ語られるのが、こんなに恥ずかしいとは思わなかった」

「あら、そうなんですか?」

「なんで10年も前に書いた作品の考察を、いまさら聞かされないといけないんだ。社会への憤りだとか反発だとか、当時の俺はそんな大それたことを考えてなかったぞ」

「二人とも楽しそうでしたね。そういえば水羽係長、佐久間さんのサイン欲しいって言ってましたよ」

「断る。よほどのことがない限り、サインはしないことにしているからな」


 では、胡桃にサインをしてくれたのは「よほどのこと」だったのだろうか。それってわたしが特別ってことですか、と質問しようと口を開いたところで、エレベーターが一階に到着した。


 エレベーターから降りた佐久間の後ろについて、マンションの外に出る。胡桃が住むマンションの周りには、夜遅くまで開いている店は少ない。22時の街はやけに静かで、街灯の光と車のヘッドライトだけが、隣を歩く男の横顔を照らしていた。


「佐久間さん、どこ行くんですか?」

「コンビニだ。甘いものが食べたくなった」

 

 胡桃の問いに、佐久間はそっけなく答える。さっきクッキー缶を平らげたところだというのに、まだ食べるつもりなのだろうか。最寄りのコンビニは、歩いて5分ほどのところにある。


(佐久間さんと二人でいられるなら、もっと遠くてもいいぐらいなのに……)


 5月の風はふわりと柔らかく、ほのかに花のような甘い香りを含んでいる。なんでもない夜の街の景色が、佐久間と並んで歩くだけで、特別なものに映る。

 胡桃はさりげなく、一歩だけ彼との距離を詰めた。胡桃の肩と佐久間の腕が触れ合うぐらいの距離に、どきどきと心臓が高鳴る。


「……こうして夜のお散歩するの、久しぶりですね」

「ああ、きみが三日坊主のダイエットをしていた頃だな」

「い、一週間ぐらいは続きましたよ! それに、ダイエットなんかしなくていいって言ったのは、佐久間さんじゃないですか」


 胡桃が唇を尖らせると、「そうだったな」と答えた佐久間の目が柔らかく細められる。普段愛想のない彼がときおり見せる優しい表情に、胡桃は心臓を撃ち抜かれてばかりだ。

 手を繋ぎたいな、と思ったけれど、彼の両手はスウェットのポケットに突っ込まれたままだった。


 他愛もない話をしているうちに、あっというまにコンビニに到着した。佐久間は脇目も振らずにデザート売り場へと向かい、何を買おうか物色している。

 この時間に甘いものを食べたくなる人間は少なくないのか、意外と充実したラインナップだった。コンビニオリジナルブランドのミルクレープにロールケーキ、チョコエクレア。どれも美味しそうで、最近のコンビニスイーツはすごいなあと感心してしまう。佐久間は悩んだ結果、エクレアを手に取った。


「……きみも何か買うか」

「うーん、じゃあこれ。今はおなかいっぱいだから、明日のおやつにします」


 胡桃が選んだのは、小袋に入ったブールドネージュクッキーだった。これもコンビニオリジナルブランドのものだ。自分でも作ってみたくなったので、いろいろ食べて研究してみよう。

 佐久間は胡桃の手からクッキーを奪うと、自分のエクレアと一緒に会計をしてくれた。ついでにタバコも購入している。レジに立っていたのは大学生ぐらいの若い男の子だ。佐久間の隣に立っている胡桃に、まじまじと好奇の視線を向けてきた。


「ありがとうございましたァ」


 覇気のない声に見送られながらコンビニを出たあと、胡桃は佐久間に尋ねる。


「佐久間さん、ここのコンビニよく来るの?」

「まあな。深夜に甘いものが食べたくなったときは、ここしか選択肢がないだろう」

「うふふ。きっとバイトの子に、スイーツ魔王とかデザートモンスターみたいなあだ名つけられてますよ」

「なんなんだ、それは……」


 冗談めかして言った胡桃に、佐久間は不愉快そうに眉を寄せた。このままマンションに帰るのかと思いきや、逆方向へと歩き出す。


「どこ行くの?」

「……少し、話がしたい。いいか」

「も、もちろんです」


 胡桃の返事を待ってから、佐久間は河川敷へと続く階段を下りていく。川べりにある石造りのベンチに腰を下ろしたので、胡桃もいそいそと隣に座った。


「話って、何ですか?」


 顔を覗き込みつつ尋ねると、佐久間はやや言いにくそうに口元をモゴモゴとさせたあと、ボソボソと小声で言った。


「……いったいきみは……どういうつもりで、あの男を連れて来たんだ」

「あの男って……水羽係長のことですか? 突然連れて来ちゃってごめんなさい。どうしても佐久間さんに会いたいって言うから」


 やはり非常識だったか、と申し訳なくなり、胡桃はしゅんと眉を下げる。佐久間は怒ったように、それでいてどこか不安げな様子で、胡桃に問いかけた。


「そ、その……俺じゃ、ダメなのか」

「はい?」

「あ、いや……違うな……間違えた。その……つ、付き合っているのか」

「へ?」

「あの男は以前、きみのことが好きだと言っていた」

「え。ああ、はい。らしいですね」

「……きみも、あの男のことが好きなんだろう」

「え!? ま、まさか!」


 予想外の発言に、胡桃は素っ頓狂な声をあげる。どうやら佐久間は、とんでもない勘違いをしているらしい。頭のてっぺんからつま先まで、さーっと血の気が引いていく。


「あ、ありえないです! ぜんぜん、違います!」


 胡桃は佐久間の両手をがしりと掴んで、力いっぱい否定する。佐久間は胡桃の勢いにたじろぎつつも、「そ、そうなのか?」と答えた。胡桃はこくこくと、赤べこのように首を振って何度も頷く。


「す、少し前に告白されたのはほんとですけど……ちゃんとお断りしました!」

「……と、いうことは……きみの好きな男は、あいつじゃないのか」

「違います! なんでそうなるんですか! ぜんっぜん、意味がわかりません!」

「そ、そうか……そうだったのか……」


 必死で言い募る胡桃に、佐久間は心底ほっとしたように表情を緩める。


(どうして、そんなに安心してるの? わたしが水羽係長のこと好きかもしれないって思ったとき、佐久間さんはどう感じたの?)


 ふつふつと湧き上がってくる期待に、胸が高鳴る。ここはしっかりと、自分の気持ちを伝えておくべきかもしれない。胡桃はきつく彼の手を握りしめながら、真正面から彼を見つめた。いつもは眠たげな奥二重の目が、大きく見開かれる。


「わたしのっ、好きなひとは……!」


「ワン!」


 ふいに響いた鳴き声に、胡桃と佐久間は弾かれたようにそちらを向いた。リードに繋がれたゴールデンレトリバーが、尻尾を振ってこちらを見ている。遊んで遊んで、とも言いたげな無邪気な瞳に見つめられて、なんだか気が抜けてしまった。


「こ、こらレオ! すっ、すみません、失礼しました! ごゆっくり!」


 犬の飼い主らしき男性は、手を取り合っている胡桃と佐久間の方を、なるべく見ないようにと目を逸らしながら、アタフタと足早に通り過ぎていく。どうやら、人目も憚らずにイチャついているカップルだと思われてしまったらしい。佐久間は気まずそうに目を逸らしている。

 佐久間が以前見かけたカップルに対し、「TPOを考えろ」と言っていたことを思い出して、胡桃は慌てて彼の手を振りほどいた。


(もし、告白するとしても……そのタイミングは、今じゃない、よね)


「ご、ごめんなさい!」

「……」

「そ、そろそろ戻りましょうか! 水羽係長にもいい加減帰ってもらわないと、終電なくなっちゃう」


 胡桃がベンチから立ち上がると、佐久間がふいに胡桃の手を掴んだ。驚いて彼の顔を見ると、不機嫌そうに眉間に皺を寄せたまま、じっとこちらを見つめている。物言いたげに開いた唇は、そのまますぐに閉じられてしまった。


「な、なんですか?」

「……いや……なんでもない」


 佐久間はそう答えつつも、掴んだ手は離さなかった。彼の手は驚くほどに温かくて、ひんやりとした胡桃の手をすっぽりと包んでしまう。

 胡桃の手をしっかりと握り直したあと、立ち上がってゆっくりと歩き出す。いつもより歩くのが遅いな、と思ったところで、胡桃の歩幅に合わせてくれているのだとようやく気がついた。嬉しくなって、もう一歩だけ近づいてみる。


「きみの手は、やっぱり冷たいな」

「……そうです。パティシエ向きの手ですから」


 佐久間に褒めてもらえた手を、胡桃はもう卑下したりはしない。

 ニッコリ笑った胡桃の手を、佐久間はぎゅうっと、その熱を伝染すかのように強く握りしめる。その行動の意味を考えてみたけれど、胡桃にとって都合の良い答えしかでてこなかった。

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