05.ほどける誤解とブールドネージュ(2)
「……あの。佐久間先生、ほんとにこんなもの食べるの?」
有名洋菓子店のクッキー缶をまじまじと見つめた水羽は、訝しげな表情で首を傾げた。
胡桃は「こんなものとは何ですか」と水羽を軽く睨みつける。彼の言う「こんなもの」こそが、佐久間凌がもっとも喜ぶものである。
水羽の熱意に押し負け、二人で佐久間に会いに行くことになったのだが、水羽が突然「手土産を買いたい」と言い出した。本当は駅前のパティスリーで焼き菓子を買いたかったのだが、18時で閉店のため、水羽と二人でデパートに寄ったのだ。
「やっぱりお菓子より、お酒とかの方がよかったんじゃないの?」
「チッチッ、水羽しゅに……係長は、佐久間さんのことぜんっぜんわかってませんね! 佐久間さんは、筋金入りの甘党なんですよ。絶対、大喜びするに決まってます」
「ええ……こんな可愛いもの食べてるとこ、想像できない……人肉とか食ってそうなのに……」
「どんなイメージなんですか? ちょっと変わってるけど、意外とまともなひとですよ」
そんなことを話しているうちに、マンションに着いた。エレベーターに乗り込むと、水羽はソワソワと落ち着かない様子で視線を彷徨わせる。
「はー、緊張してきた。佐久間先生に会えたら何て言おうかな……」
「約束通り、ちゃんと誤解といてくださいね!」
「え? うんうん、大丈夫……」
そう答えながらも、水羽はどこか上の空だ。「サインとか貰えるかなあ」と呟く水羽を見て、本当に大丈夫なのかしら、と心配になる。
エレベーターを降りて、佐久間の部屋の前までまっすぐ行くと、迷わずインターホンを押した。水羽は「わっ、まだ心の準備が……!」などと言っているが、胡桃はそれを無視する。
ややあって扉が開くと、黒いスウェット姿の佐久間が現れる。佐久間はまず胡桃の顔を見てぱっと表情を輝かせたあと、隣にいる水羽に気付いたらしく、眉間に深い皺が刻み込まれた。
「……な、なんなんだ。どういう状況だ、これは」
そう言った佐久間は、忌々しげに水羽を睨みつけている。事情を説明しようと胡桃が口を開いた瞬間に、割り込んできた水羽が勢いよく佐久間の両手を取った。
「佐久間先生! お会いできて光栄です!」
「……はぁ?」
「僕、学生時代に先生のデビュー作である〝屍に鞭〟を読んで衝撃を受けまして……! それ以来、ずっとファンなんです! 一番好きな作品は三作目の〝荒城の狼〟なんですが、先日雑誌に掲載されてた新作短編も最高でした!」
「お、おい。ちょっと待て! なんなんだ、こいつは!」
佐久間は水羽の熱意に気圧されながら、助けを求めるような視線をこちらに向けてくる。胡桃は水羽の腕を掴んで佐久間から引き剥がそうとしたが、岩のようにびくともしなかった。
「佐久間せんせー、胡桃さん来たんですか?」
そのとき、部屋の奥からのんびりとした声が響いた。佐久間の担当編集である筑波嶺大和だ。
玄関までやって来た大和は、佐久間にぐいぐいと迫る水羽とそれを引き剥がそうとする胡桃を見て、ずり落ちた眼鏡をくいっと持ち上げた。
「……え、何ですか? 斬新な修羅場?」
「お、おい、筑波嶺くん。ボサッと突っ立ってないで助けてくれ」
「やっぱり佐久間先生の作品の魅力は、ただ露悪的なだけでなく物語の中に一本芯の通ったテーマがあるといいますか……」
「もう、水羽係長! いいかげんに、わたしの佐久間さんから離れてくださいよー!」
大和は顎に手を当てて、ふむふむと三人を見比べたあと、やけに嬉しそうに「相関図を整理する時間をください!」と叫んだ。
それから10分ほどののち、ようやく水羽を佐久間から引き剥がすことに成功した胡桃は、いつものダイニングチェアに腰を下ろしていた。胡桃の隣には佐久間、正面には水羽と大和が並んで座っている。
「あの……急に押しかけてごめんなさい。お仕事でした?」
「いえ、大丈夫ですよ! 今日は美味しいワインが手に入ったので、佐久間先生と飲もうと思って持って来ただけですから。こんな楽しい状況に遭遇できるなんて、酒が美味いです」
大和は頷きながら、嬉しそうにワイングラスを傾ける。彼の言う通り、テーブルの上には酒盛りの跡がある。ワインのみならず日本酒、焼酎の瓶が並んでおり、佐久間の前には箱入りのチョコレートが置いてあった。どうやら、甘いものをつまみにして飲んでいたらしい。
多少は落ち着いたらしい水羽は、はにかみ笑顔を浮かべながらクッキー缶を差し出す。
「すみません……僕が佐久間先生の大ファンで、糀谷さんに無理を言って連れて来てもらったんです。これ、よかったらどうぞ」
「……〝瑠璃〟のクッキー缶か。ふむ、いいだろう……ここのクッキーはサクサクホロホロで軽やかな味わいが美味い。特に、ブールドネージュが絶品だ」
佐久間はそう言って、いそいそとクッキー缶の蓋を開けた。途端に、不機嫌そうだった顔が綻んでいく。色も形もさまざまなクッキーの詰め合わせはまるで宝石箱のようで、隣で見ていた胡桃も笑顔がこぼれる。
「おお……やはりクッキー缶は非日常の華やかさがあり、テンションが上がるな」
「わーっ、可愛いですね! ここのクッキー、食べてみたかったんです! ねえねえ、佐久間さんオススメのブールドネージュ食べてもいい?」
「……きみは、ちゃっかり自分が食べたいものを買ってきたのか。まあいい、好きなものを食べるといい」
白くて丸いブールドネージュを口に入れると、ホロホロッと口の中で甘くほどける。英語ではスノーボールとも呼ばれるクッキーは、雪のように軽く優しい口当たりだ。
「うーん、美味しい……無限に食べられちゃう」
「バターたっぷりのクッキーもいいが、ホロホロとした口当たりのブールドネージュもまた良いものだな。香ばしいアーモンドの風味もたまらない」
満足げに感想を言い合う胡桃と佐久間を見て、水羽はやや意外そうに瞬きをした。
「さ、佐久間先生が、やたらと可愛いクッキー食べてる……甘いものなんて、絶対食べなさそうなイメージだったのに」
「……なんなんだ、あんたは。作品に入れ込むのは良いが、作家と同一視して勝手なイメージを押し付けるな」
「あっ、すみません。そういうつもりでは」
不機嫌そうな佐久間に、水羽は慌てて頭を下げる。大和はニコニコ顔で、水羽に向かってワイングラスを差し出した。
「まあまあ、よかったら一緒に飲みませんか? 僕、佐久間先生の担当編集者の筑波嶺大和と言います」
「! 佐久間先生の、担当さん……! あんなに素晴らしい本を世間に送り出してくださってありがとうございます!」
「いえいえこちらこそ、佐久間先生のファンだなんて、ありがたいことです。僕は6年ほど前から担当についているんですが、何を隠そう僕もデビュー当時から佐久間先生の大ファンで」
「6年前……というと、〝黒い犬〟あたりかな? いやあ、あのあたりから作風が洗練されてきたなあと思ってたんですよ」
佐久間オタクである二人は一瞬で意気投合したらしく、楽しげにワインで乾杯をしている。幸せそうにクッキーに齧り付く佐久間を横目で見ながら、これってどういう状況なのかしら、と胡桃は内心首を捻った。
「……やっぱり俺は、初期の泥臭さが好きというか。どうしようもない社会への憤りだとかやるせなさとか、諦観の裏にある情熱をストレートに感じる作風が刺さるんだよね。ものすごく人間らしさが感じられて」
「言いたいことはわかります。僕もたまに、自分の方針が佐久間先生本来の良さをスポイルしてるんじゃないかと感じるときもありますから」
「ただ近年の作品の方が文章は洗練されてるし、売れ線を押さえつつも、しっかり佐久間先生独自の凄みが出てるのが凄いなあって思うよ」
「どんなに面白くても、読んでもらえないことには話になりませんからね。いかに大衆向けの皮を上手にかぶせて死角から刺すか、っていう」
「ああ、わかるなあ……こないだの新作なんか、最後のオチで背筋が凍ったよ。先月の雑誌に掲載されてた短編も、主人公のキャラクターと作風とのギャップがが良かったな」
「ありがとうございます! 実はシリーズ化して、連作短編にしようかって企画が出てて」
「ほんとに!? いやあ、楽しみだなあ」
リビングのソファを占領した男二人は、今日が初対面だというのに、まるで十年来の親友かのように熱く語り合っている。ここにやって来てから三時間ほどが経過したが、未だ話のネタは尽きないようだ。
同好の士に出逢えたことが、よほど嬉しいのだろう。水羽の瞳は今までに見たことがないぐらいにらんらんと輝き、まるで少年のような無邪気さでグロテスクな小説の話をしている。
(……うう。水羽係長、いつになったら佐久間さんの誤解といてくれるのかな……)
もしや当初の目的をすっかり忘れてしまったのではないかと心配になってきた。このままでは佐久間に、勝手にファンと名乗る男を連れてくる非常識な隣人だと思われてしまう。しょっちゅう深夜に押しかけているのだから、非常識さについてはいまさらかもしれない。
クッキー缶をぺろりと平らげてしまった佐久間は、胡桃の隣に座ったまま眉間に皺を寄せている。なんだか怒っているようにも見えるが、彼はいつもこういう顔つきなので、よくわからなかった。
「……そうそう。どんでん返しといえば、俺は五作目の結末が好きなんだよね。小説読んで、あそこまでびっくりしたの初めてかも」
「ああ、あれは度肝抜かれましたよねえ! 文章の違和感に隠された、叙述トリックが巧みで!」
とうとう、胡桃がまだ読んでいない作品のネタバレまで始まってしまった。耳を塞いでおこうかなと迷っていると、トントン、と軽く背中を叩かれる。
振り向くと、ダイニングチェアから立ち上がった佐久間が、軽く顎をしゃくってきた。おそらく、ついてこい、という意味だろう。スタスタと歩いていく佐久間の背中を、胡桃は大喜びで尻尾を振って追いかけた。
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