04.ほどける誤解とブールドネージュ(1)
あっというまにゴールデンウィークが終わってしまい、満員電車に乗って通勤する憂鬱な日々が再開した。会社にはいつだって行きたくないが、長いお休みが終わったあとは特にやる気がなくなる。いわゆる五月病、というやつだろうか。
窓から差し込む太陽の光はぽかぽかと温かく、昼食を食べたばかりで満腹の胡桃は、このままお昼寝できたらどれだけ幸せだろうか、と思う。今日は業務量も比較的落ち着いているため、余計に眠気が襲ってきた。
(今日は早く帰れたら、クグロフでも作ろうかな……ラム酒が効いてて、オレンジピールが入ったやつ……)
手を止めてぼうっと窓の外を眺めていると、「こら」という声とともに軽く頭を小突かれた。
「糀谷さん、何をボーッとしているの。いい加減、ゴールデンウィークから頭を切り替えなさい」
「は、はい! すみません」
呆れた目でこちらを睨んでいるのは、胡桃の先輩である
新年度からも変わらず、栞は営業一課、胡桃は営業二課の事務担当をすることになっている。仕事は憂鬱だが、大好きな栞と引き続き一緒に働けるのは嬉しいことだ。
胡桃と栞以外の人事異動は、いくつかあった。
まず喜ばしいことに、胡桃の元カレである
それと、もうひとつ。営業一課の
入れ替わりで福岡支店からやってきた
「でもこの時間って、どうしても眠たくなりません? おなかいっぱいだし」
「業務に集中していれば、眠気など感じる暇などないでしょう。あなたには集中力が欠けています」
「そんなあ、夏原先輩までうちのお父さんみたいなこと言わないでくださいよ……」
そんなやりとりをしていると、向こうから足早に駆け寄ってきた男が、「栞!」と気安く呼びかけてきた。名前を呼ばれた栞は眉間に皺を寄せて、みるみるうちに怖い顔になる。
「栞ごめん、悪いけど今すぐ見積書と請求書作ってくんない? テラダ電工さん、今日契約もらえそう」
「……承知しました」
まるでAIロボットのような返事をした栞は、資料を受け取り、カタカタとキーボードを叩き始める。ニコニコと笑みを浮かべる男の整った顔を、胡桃はじとりと睨みつけた。
彼の名前は
元カレである彰人もなかなかのイケメンだと思っていたが、常盤も彼らに負けず劣らず顔立ちが整っている。やや幼い印象もある愛嬌たっぷりの笑顔は、さながらアイドルのようだ。可愛らしい見た目にそぐわず、なかなかの敏腕営業マンらしく、福岡ではナンバーワンの成績を残していたらしい。
常盤はやけに栞に親しげで、あろうことか「栞」と名前で呼び捨てている。しかし栞は常盤に対して、他の社員以上に塩対応だ。どういう関係なのかと訝しんでいるが、栞は「ただの同僚です」としか言ってくれない。
(……もしかして夏原先輩、このイケメンに弄ばれた過去でもあるのかしら)
もしそうだとしたら、栞の敵は胡桃の敵である。愛する先輩を、断固として守らなければ。
警戒心を露わにする胡桃に向かって、常盤はへらっと眉を下げた。
「あ、そーだ。こないだ福岡行ったときのお土産が余ってるから、糀谷さんにあげよう」
常盤はそう言って、胡桃に福岡銘菓を手渡してくれた。白餡が入ったとびきり美味しいお饅頭に、胡桃はぱっと表情を輝かせる。
「わ、博多通りもん……! これ美味しいですよね!」
「美味いよなー! おれも好き。あ、栞もいる?」
「いりません。糀谷さんにどうぞ。彼女、甘いものが好きだから」
栞は常盤のことを見向きもせず、冷たく答える。常盤は肩を竦めて、胡桃にもうひとつ通りもんを渡してくれた。胡桃は大好きな福岡銘菓をふたつも手に入れて満足だ。
「常盤主任、できました。よろしくお願いします」
「サンキュー栞! じゃ、いってきまーす!」
常盤は栞から書類を受け取ると、元気いっぱいにフロアを飛び出していく。周囲をぱあっと明るくするような、不思議な魅力を持ったひとだ。
「常盤主任って、かっこいいですよね」
「……そうかしら。少なくとも、あなたは彼に近付かない方がいいわ」
栞は苦々しげに言った。どうやら栞は胡桃の男運のなさを心配しているようだが、常盤も彰人のように女癖が悪いのだろうか。
「わたし今好きなひといますから、そういう心配はないですけど……でも常盤主任、悪いひとじゃなさそうですよ。通りもんふたつもくれたし」
「あなたのそういうところ、本当に心配です」
栞は呆れたように溜息をつく。胡桃はいそいそと、お饅頭をふたつサブバッグに片付けた。持って帰って、ひとつは甘党の隣人にお裾分けしよう。
無事に定時で仕事を終えて、いそいそと退勤準備をしていると、「ちょっといいかな」と声をかけられた。顔を上げると、営業一課の
「水羽しゅにん……じゃなくて、係長」
「あはは、まだ慣れないよね。俺も慣れてない」
慌てて言い直した胡桃に、水羽は破顔した。主任だった水羽は、四月から係長へと昇進している。未だに呼び慣れず、間違えることもしばしばだが、彼は嫌な顔ひとつせず笑って許してくれる。
「どうかしたんですか?」
「ちょっと、話があって……時間いいかな」
「だ、大丈夫です」
やけにかしこまった態度に、胡桃は緊張して背筋を伸ばした。
二ヶ月ほど前、胡桃は水羽に告白された。お断りをしたあとも、水羽は以前と変わらず優しく接してくれている。ありがたいことだと感謝していたのだが、まさかまだ胡桃に言いたいことがあるのだろうか。
水羽はキョロキョロと周囲を気にする様子を見せたあと、声をひそめて囁いてきた。
「ここでするような話でもないから……糀谷さん、地下鉄だよね? 駅前で待ってるよ」
「えっ、わ、わかりました」
胡桃が頷くと、水羽はフロアを出て行った。一体どうしたんだろうかと不安に胸をざわめかせながら、胡桃はロッカールームへと向かう。
会社を出て地下鉄の駅に向かうと、改札の前あたりに水羽が立っていた。改めて会社の外で見ると、やはり彼もなかなかのイケメンだ。営業部内にタイプの違うイケメンが二人もいるなんて贅沢だなあ、と思う。
こちらに気付いて軽く片手を挙げた彼に向かって、胡桃は小さく会釈をした。
「糀谷さん、いきなりごめんね」
「い、いえ……一体どうしたんですか」
「……糀谷さんに、聞きたいことがあって」
やけに真剣な表情で、水羽はぐっと唇を引き結ぶ。胡桃はごくりと生唾を飲み込んで、「はい」と答える。
「前に会った……糀谷さんの、好きなひとのことなんだけど」
「は、はい」
「……もしかしなくても、彼……佐久間諒、だよね?」
水羽の質問に、胡桃はぎくりと身体を強張らせた。陰鬱でグロテスクな小説が大好きな水羽は、作家・佐久間諒の大ファンなのだ。
しかし佐久間が公表していないことを、ここで胡桃が勝手に答えるのもいかがなものか、と胡桃は返答に迷う。胡桃が黙っていると、水羽は追い打ちをかけるように続けた。
「俺、佐久間先生がデビューした当時の写真見たことあるんだ。ずいぶん雰囲気は変わってたけど、同一人物だよね」
「……」
「10年間佐久間先生を追いかけてきた俺が見間違えるはずがない」
「……うう……はい……そうです」
自信たっぷりに言った水羽に、胡桃は観念して頷いた。水羽は興奮気味に「やっぱり!」と叫ぶ。そのまま、がしりと勢いよく両肩を掴まれた。
「なんで、教えてくれなかったの!」
「わ、わざわざ言うことじゃありませんから」
「俺、ほんとに佐久間先生のこと好きなんだよ! 糀谷さん、お願いします! もう一度、佐久間先生に会わせてください!」
そう言って、水羽は身体を二つ折りにして頭を下げた。胡桃に告白をしたときよりも、ずいぶん勢いのある「好き」だ。気圧された胡桃は、「ええええ……」と情けない声を出す。
「佐久間さん、そんな社交的なタイプじゃないですし……きっといきなりファンに会っても、感じの悪い対応しかできないですよ」
「全然いいよ! むしろ解釈一致だよ!」
「でも、わたしが勝手に決められることでは……」
「……そういえば俺、糀谷さんが酔い潰れたとき……佐久間先生に、糀谷さんのことが好きだって宣戦布告しちゃったんだよね。たぶんあのひと、俺と糀谷さんの関係誤解してると思う」
「ええええ! な、なんでそんな余計なこと言うんですか!」
水羽の告白に、胡桃は真っ青になった。佐久間が誤解をしているとしたら困る、ものすごく困る。ただでさえ、今は付き合うか付き合わないかの微妙な時期なのだ。
水羽はしてやったりとばかりにニヤリと笑って、「だから」と人差し指を立てた。
「ちゃんと俺から佐久間先生に説明して、誤解とくからさ。そのついでに、一言ファンですって挨拶ぐらいさせてよ。ね、いいでしょ?」
水羽の見た目によらない強引さに、そういえば彼は前年度の営業成績ナンバーワンだったな、と思い出す。押し負けた胡桃が頷くと、彼は「やったね」とひどく感じの良い笑みを浮かべた。
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