02.最後の恋とキャラメルナッツタルト

 二年前、糀谷こうじや胡桃くるみが当時の恋人のために作ったモンブランタルトは、一口も食べてもらえなかった。


 付き合ってから初めて迎える、彼の誕生日だった。当日は会えなかったからと、張り切ってマロンクリームのたっぷり乗ったタルトを作った。自分で言うのもなんだけれど、なかなかの出来栄えだったと思う。

 喜んでもらえるだろうかとウキウキしていたのだけれど、彼は胡桃がやって来るなりベッドに引っ張り込んで、モンブランタルトは玄関に放置されたままだった。さすがに気になって、途中で冷蔵庫に入れさせてもらったけれど、中断された彼は非常に不機嫌だった。

 彼が一人で満足したあと、「ごめん、急用ができたから帰ってくれる?」と言われ、胡桃は手付かずのモンブランタルトを持ったまま彼の部屋を後にした。その足で実家に帰って、ホールのタルトを父と母の三人で食べた――という、苦い思い出がある。

 ……でも、今回こそは。胡桃が作ったタルトを、胡桃の好きなひとはきっと残さず食べてくれるだろう。


 ようやく自由に動くようになった右手の人差し指を見て、胡桃はじーんと感動に打ち震えた。

 不慮の事故で骨折をしてしまい、全治三ヶ月と診断されていたものだ。できるだけ力を入れぬよう、気を遣って過ごしていた甲斐もあり、思っていたよりも早く骨がくっついたらしい。


(これで、好きなだけお菓子が作れる……!)


 日々のストレスをお菓子作りにぶつけている胡桃にとって、怪我をしてからの日々は辛く苦しいものだった。佐久間が定期的に愚痴を聞いてくれなければ、嫌味な課長の顔面に頭突きをするぐらいのことはしていたかもしれない。

 5月7日。ゴールデンウィークの最終日でもある今日は、胡桃の想いびとである佐久間凌の誕生日である。筋金入りの甘党である彼のリクエストに応えて、とっておきのキャラメルナッツタルトを作ることにしよう。


 まずは作成したタルト生地を、170℃のオーブンで20分焼く。そのあいだに、タルトに入れるナッツ類を砕いておく。麺棒を使えばそれほど力の要る作業ではないけれど、念の為左手を使った。使用するナッツは、クルミとアーモンド、ピーカンナッツとピスタチオ、カボチャの種にした。彼が好きだと言っていたクルミを、ふんだんに入れることにしよう。

 タルトが焼き上がったら、中に入れるキャラメルナッツフィリング作りだ。小鍋に生クリーム、砂糖、バター、ハチミツを入れて火にかける。焦がさないよう、注意が必要だ。それらがキツネ色になったら、ローストしたナッツを投入し、綺麗に混ぜる。

 フィリングができたら、冷めないうちにタルト生地の中に入れる。丁寧に押して、隅々まできっちりと流し込むのがポイントだ。それから、180℃のオーブンで15分焼く。焼き上がったら、フィリングにドライフルーツを捩じ込んで完成だ。


(大成功! 最っっっ高に美味しそう……!)


 キャラメルでコーティングされたツヤツヤのナッツたちが、これでもか! というほどぎっしりタルトにと詰め込まれている。胡桃はホールのタルトをお皿に乗せて、いそいそと隣の部屋へと向かった。


「やっと来たか。待っていたぞ」


 インターホンを押した瞬間、すぐに佐久間が顔を出す。胡桃が来るとわかっていたからだろうか、いつものスウェットではなく、7分袖のボーダーシャツに黒のパンツを合わせていた。おでかけ着とはまた違う彼のカジュアルスタイルが、胡桃は結構好きだ。


「佐久間さん、こんにちは! お待たせしました!」


 じゃじゃーん、というセルフ効果音とともに、皿に乗ったキャラメルナッツタルトを差し出す。怪我をして以来、おおよそ二ヶ月半ぶりの胡桃のお菓子に、佐久間は瞳を輝かせる。感極まった様子で、がしりと両肩を掴んできた。

 

「見事なキャラメルナッツタルトだ……やはりきみは素晴らしいな。怪我が治って本当によかった」

「うふふ。食べたあとでたくさん褒めてください」

「そのつもりだ。とにかく、入ってくれ」

 

 胡桃はキッチンに向かうと、持ってきたタルトを切り分けて、佐久間が用意してくれたプレートに入れた。そのあいだに、佐久間は紅茶を淹れてくれる。ふんわりと甘い香りが漂ってきて、胡桃はひくひくと鼻を動かした。


「わっ、いい匂い。今日の紅茶は何ですか?」

「ケニアティーだ。焼き菓子にも通ずるような香りがあり、適度なコクもナッツのタルトにぴったりだろう。ストレートで飲むのも良いが、ミルクティーがお薦めだ」

「じゃあ、佐久間さんのお薦めにします」


 タルトの乗ったプレートとティーセットを、リビングにあるテーブルの上に乗せる。最近はダイニングに向かい合うよりも、リビングのソファに並んでお菓子を食べることが増えた。隣に座った佐久間に向かって、胡桃は言った。


「佐久間さん、お誕生日おめでとうございます!」

「……ああ、ありがとう」

「デコレーションケーキじゃないから、あんまり誕生日感なくてごめんなさい。せめてロウソクでも買ってきた方がよかったかな……」

「29にもなって、そんなに大袈裟に祝うことじゃない。そもそも、タルトこれは俺のリクエストだろう」


 佐久間はむすりとした顔つきのまま、つまらなさそうに言った。不機嫌そうな表情をしているけれど、おそらく照れ隠しだろう。


「それじゃあ召し上がれ! たぶん、美味しくできてると思います」

「きみの作ったお菓子が美味しいことは、食べなくてもわかる。いただきます」


 佐久間は両手を合わせ、フォークでタルトを一口サイズに切り分けて、ぱくりと頬張った。眉間の皺がみるみるうちにほどけて、幸せそうに目が細められる。彼は物言わず、じっと下を向いて感動に打ち震えているようだった。


「……」

「……佐久間さん?」

「……俺はずっと、これが食べたかったんだ……ようやく念願が叶った……」

「よかったです! 怪我してたから、ずいぶん久しぶりですもんね」


 佐久間はきっと、胡桃の怪我が治るのを楽しみに待っていてくれたのだろう。キャラメルナッツタルトを噛み締めている佐久間を横目に、胡桃も目の前のタルトを一口食べる。表面はカリカリで、中身はホロッと。口の中にナッツの香ばしさとキャラメルの甘さが広がる。みっしりと美味しさが詰まった、幸せの味がする。


「うーん、美味しい!」

「キャラメルナッツフィリングの絶妙な食感、甘さとほろ苦さが最高だ。まるでクッキーのようなタルト生地のサクサクとした歯触りにも非常にマッチしている。俺はこのタルトを食べるために29年間生きてきたのかもしれない……」

「も、もう、佐久間さんってば! 大袈裟です!」


 口ではそう言いつつも、こんなに褒められて悪い気はしない。佐久間はモグモグとタルトを頬張り、「幸せだな……」としみじみと呟いた。

 好きなひとの誕生日をお祝いできて幸せだな、と胡桃も思う。自分で作ったキャラメルナッツタルトも、彼が淹れてくれた紅茶も、とびきり美味しい。そして何より、好きなひとのために心を込めて作ったタルトを、こんなにも美味しく食べてくれるなんて。手付かずで放置されたモンブランタルトの苦い思い出は、すっかり上書きできそうだ。

 胡桃はティーカップを口に運び、しみじみと呟いた。


「今度は、食べてもらえてよかったあ」

「……?」


 胡桃のひとりごとを聞きとめた佐久間が、怪訝そうに眉を寄せる。胡桃はへらっと笑って、なるべく深刻に聞こえないように軽い口調で言った。


「元カレと付き合ってたとき、誕生日のお祝いにモンブランタルト作ったんです。……でも、えっちするだけして、タルトには口もつけずに帰されちゃって」

「……」


 胡桃の言葉に、佐久間は溜息をついてフォークを置いた。キャラメルナッツタルトの甘さなどすっかり忘れてしまったかのように、心底不愉快そうに表情を歪めた。


「……きみの元カレは、本当に碌でもない男だな」

「わかってますよ、そんなこと」

「もし、もし俺だったら……絶対に、そんなことはしない」

「それも、わかってます」


 この甘党男が、胡桃の作ったお菓子に手をつけないなど、天地がひっくり返っても有り得ないことだ。何を作っても美味しいと言って、幸せそうに残さず食べてくれる。胡桃が好きになったのは、そういうひとだ。


(そういう佐久間さんが……好きなの)

 

 この恋を逃したら、きっと彼のようなひとには二度と出逢えないだろう。苦々しげに眉を寄せる佐久間に向かって、胡桃は続ける。


「佐久間さんが優しいことも……わたしの作ったお菓子が、だーいすきなことも! ちゃんとわかってますから!」

「……いや、べつに……その、なんだ、お菓子、だけじゃ……」


 佐久間は下を向いたまま、何やらモゴモゴ口ごもっている。胡桃はそれに構わず、両手を胸の前でぎゅうっと握りしめながら、言った。

 

「……佐久間さんのために作ったタルトを、佐久間さんにたくさん食べてもらえて、とってもうれしい」


 胡桃の言葉に、佐久間はようやくこちらを見てくれた。目と目が合ったことが嬉しくて、胡桃はニコッと微笑みかける。

 しかし彼はなんだか怒ったように唇をへの字に曲げて、パチンと額を弾いてきた。


「いたっ! もう、なんなんですか!」

「きみは他人と目が合ったときに、そのやたらと感じの良い笑顔を振り撒くのをやめろ」

「え? そんなに感じが良いですか? ありがとうございます!」

「そういうことを言ってるんじゃない。男を勘違いさせるような言動を控えろと言っているんだ。だから碌でもない男ばかり寄ってくるんだぞ」

「ご心配なく。もう、ろくでなしに引っかかる予定はありません。これが最後の恋ですから」


(だから、早く観念してくださいね)


 胡桃は不満げな男の機嫌をとるために、フォークに乗せたタルトを口元に運んで「はい、あーん」と言ってみる。彼は素直に口を開けて、愛の詰まったキャラメルナッツタルトを頬張ってくれた。

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