第3部【おとなりさんとのお菓子な関係】

01.初恋アプリコットタルト

 白く揺れる煙の向こうに、街の光がチカチカと瞬いている。星のひとつも見えない、排気ガスで濁った都会の空。溜息とともに、肺に溜まった煙を吐き出す。

 闇に溶けていく紫煙をぼんやりと眺めながら、このまま世界が滅んでしまえばいいのに、と佐久間さくまりょうは思った。


 高校在学中に新人賞を獲り、鳴り物入りで小説家としてデビューしてからはや8年。

 有能な担当編集者のおかげで、ここ数年はなんとか食うに困らない生活はできているものの、書けなくなったら終わり、の生き方に変わりはない。常に絞首台に立って、縄に首を引っ掛けられているような気持ちだ。

 締切は明日。担当からの着信がうるさく鳴り響くスマートフォンは、とっくの昔に電源を切ってしまった。

 当初思い描いていた結末通りに書き終えたものの、どうにも納得がいかない。このまま出版してもきっと売れないだろう、という確信にも似た思いがある。きっとこれを読んだ担当編集者も、同じことを考えるに違いない。佐久間の才能を信じてくれている男からも、とうとう愛想を尽かされてしまうだろうか。

 自分が天才ではないことぐらい、とうの昔に気が付いている。それでも佐久間は、小説を書くこと以外の生き方を知らない。自分が生み出すものに価値なんてないのでは、という疑念に何度も押し潰されそうになりながら、自分と世間を騙し、今日までなんとか物語を紡いできた。


(それも、今日で終わりだ……)


 こんなつまらないものを、担当編集に読ませるわけにはいかない。この煙草を吸い終わったら、命を断とう。佐久間には恋人も友人もいないし、両親は物心つく前に死んだ。こんな碌でもない世界で生きていくことへの執着は、微塵もない。


 そんなことを考えながら、短くなった煙草を灰皿に押し付けた瞬間――ふわりと、どこからともなく甘い香りが漂ってきた。

 匂いの元を探ってみると、どうやら隣の部屋のようだ。おそらくお菓子を作っているのだろう。

 一体何を作っているのだろうか。フィナンシェかマドレーヌか、はたまたタルトかクッキーか。想像した途端に、無性に食べたくなってきた。しかし時刻は深夜0時、こんな時間に空いているパティスリーはどこにもない。


(……死ぬのは明日の朝、駅前の〝ブランシェ〟で買った焼き菓子を食べてからにしよう……)


 そう決意した佐久間は、ベランダから部屋の中へと戻る。仮眠用の毛布に包まって目を閉じて、ウトウトと微睡んだ瞬間、まるで天啓のように理想的な結末を思いついた。

 勢いよく跳ね起きた佐久間は、パソコンに向かって一心不乱にキーボードを叩きつける。




 原稿を完成させ、担当編集者にメールを送信した佐久間は、晴れ晴れとした気持ちで朝を迎えた。これならば、世界を滅ぼさずに済みそうだ。パティスリーが開店する一時間前に目が覚めて、身支度を整えて部屋の外に出る。

 駅前にある〝ブランシェ〟というパティスリーは、生菓子のみならず焼き菓子の種類も豊富で、どれも絶品だ。佐久間のお気に入りはオレンジピールが入ったクグロフである。この部屋に住み始めてから一年が経つが、近隣に美味しいパティスリーやベーカリーが多いところが気に入っている。


 軽い足取りでエレベーターに乗り込んだところで、女性の声が聞こえてきた。どうやら佐久間の隣の部屋から、誰かが出てきたようだ。


「……うん、今から出るよ。彰人あきとくん、先週誕生日だったよね? モンブランタルト焼いたんだ。……うん頑張りました! えへへ、彼女ですから! よかったら食べてほしいな」


 どうやら誰かと電話をしているらしい。エレベーターに乗るだろうかと思い、佐久間は「閉」ボタンを押さずにしばらく待つ。「またあとでね」と電話を切った女は、足早にエレベーターに乗り込んできた。


「すみません、ありがとうございます」


 こちらに向かってぺこりと頭を下げたのは、佐久間と同世代の若い女性だった。

 柔らかな雰囲気を纏っており、とりたてて容姿が整っているわけではないものの、小動物のように黒目がちな瞳はなんともいえない愛嬌がある。佐久間は異性の容姿をそれほど気にしたことがないが、一般的に見て「可愛らしい」と称される女性なのだろうな、と思う。

 一瞬目が合うとニコリと微笑みかけられて、心臓が妙な音を立てる。佐久間は慌てて目を逸らし、黙ってエレベーターの「閉」ボタンを押した。

 女は胸の前で大きめの保冷バッグを抱えていた。どうやら佐久間の命を救った匂いの正体は、モンブランタルトだったらしい。先ほどの口ぶりからいって、おそらく恋人のために作ったものなのだろう。恋人に会えるのがよほど嬉しいのか、にやにやと口元が嬉しそうに緩んでいる。


(……これを食べられる男が、羨ましいな)


 もしも、自分のためだけにお菓子を作ってくれる可愛い恋人がいたら――そんなことを想像をしかけて、いやいやと頭を振った。

 佐久間はこれまで恋人が居たことはないし、これから誰かと交際するつもりもない。いつどうなるかわからない、不安定な自分の人生に、他人を付き合わせるなど言語道断だ。


(……そもそも。俺のような男など、彼女の方から願い下げだろう)


 エレベーターが一階につくなり、女はもう一度「失礼します」と会釈をして、足早に歩いていく。シフォン素材のスカートが、空気を含んでふわふわと揺れていた。

 女の姿が見えなくなってから、佐久間はエレベーターを降りて歩き出した。なんだか無性に、モンブランタルトが食べたくなってしまった。果たして今から行くパティスリーに、都合よく売っているだろうか。




 ――それから、二年が経ち。

 佐久間はゲーミングチェアに座り、パソコンの前で原稿と向き合っていた。先ほどから数行書いては消し、書いては消しを繰り返している。

 集中力が途切れたタイミングで、開いた窓から美味そうなお菓子の匂いが漂ってきた。おそらく発信源は隣の部屋だ。果たして今日は何を作っているのだろうか、と想像するだけで心が浮かぶ。

 どうやら隣人はお菓子作りが趣味らしく、お菓子の匂いがするのは平日の夜か週末の昼が多い。きっと会社勤めをしているのだろう。

 彼女と鉢合わせたのはあの一度きりだし、プライベートに踏み込むつもりは一切なかったが、佐久間は彼女に対し感謝にも似た想いを抱いていた。隣室からお菓子の匂いが漂ってくると、何故だか気持ちが慰められるのだ。


 そのとき、ピンポーン、というインターホンの音が鳴り響ちた。

 こんな時間にアポなしで尋ねてくるのは、十中八九担当編集者だろう。佐久間はチッと舌打ちをして、ガシガシと黒髪を掻き乱す。原稿の進捗は芳しくはない。


(……煩わしいが、まあ……手土産ぐらいは持ってきてるだろう。フルーツがたっぷり入ったタルトがいいな)


 美味そうな匂いだけを嗅がされて、ちょうど甘いものが欲しかったところだ。佐久間は玄関に向かって、扉を開ける。

 そこに立っていたのは、ふわふわと柔らかな雰囲気を纏った小柄な女性――いつだったか一度だけ顔を合わせた、隣人だった。

 佐久間ははっと息を飲んだあと、眉を寄せて問いかける。


「……なんだ?」


 佐久間の顔を見た隣人は、一瞬怯えたようにたじろぐ様子を見せたけれど、すぐに胸の前に抱えた皿を突き出してきた。黒目がちな瞳が、蛍光灯を反射してらんらんと輝いている。


「あの! ……このアプリコットタルト、作りすぎちゃったんですけど、よかったら食べませんか!?」


 そう言って、とびきり美味そうなアプリコットタルトを差し出されたその瞬間には、きっともう手遅れだったのだろう。


 恋を知らなかった男の初恋のはじまりは、意外とあっけないものだった。

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