31.あなたと作るガトーヨーグルト

 佐久間の作ったカップケーキを食べて以来、胡桃はまた以前のように彼の部屋を訪れるようになった。

 手ぶらのときもあるけれど、お菓子を持って行くこともある。まだお菓子作りはできないから、近所のパティスリーで買った焼き菓子とか、会社で貰ったお土産のお饅頭とか、コンビニで買ったスイーツとか。

 何を持って行ったとしても、何も持っていなくても。佐久間はいつもの仏頂面で「入れ」と出迎えてくれて、美味しい紅茶を淹れてくれるのだ。

 週に何度か顔を合わせて、他愛もない話をするだけの関係に、どういう名前をつけるべきなのか。今の胡桃には、まだよくわからない。なんとなく好意らしきものを確認できた気がするけれど、好きだと言ったわけでもないし、好きだと言われたわけでもない。

 3歩進んで5歩下がって、2歩進んで。ぐるぐると遠回りをした結果、また同じ場所に戻って来たのかもしれない。




 4月も半ばを過ぎた、日曜日の昼下がり。シンプルなベージュのエプロンを久しぶりに身につけた胡桃は、赤いギンガムチェックのエプロン姿の佐久間を見て、はしゃいだ声をあげた。


「佐久間さん、とってもよくお似合いです!」

「……なんで俺のエプロンがこれなんだ。普通逆だろう」

「わたしはこっちの方がしっくりくるんです。うふふ、可愛いですよ」


 本心からの言葉だったが、佐久間は不服そうに唇を尖らせている。

 彼がつけているエプロンは、数年前にプレゼントで貰ったきり、ほとんど使う機会がなくクローゼットの奥に眠っていたものだ。活躍の場があってよかった。


「さて。今日は、お菓子作り初心者の佐久間さんでも作れる、簡単でとびきり美味しいケーキを、くるみ先生と一緒に作りましょう!」

「……く、くるみ……先生?」

「今日のわたしは、お菓子の先生ですから。くるみ先生、って呼んでくださいね! りょうくん!」


 佐久間の顔を覗き込んでにんまり笑うと、「……馬鹿」と間髪入れずにデコピンが飛んできた。


 先日カップケーキ作りを失敗した佐久間は、あろうことか「俺はもう二度とお菓子は作らない」などと言い出した。たった一度の失敗で、お菓子作りに苦手意識を持ってしまうのはもったいない。

 胡桃は「佐久間さんでも作れる、簡単で美味しいレシピはこの世界にたくさんあります!」と彼を説得し、今日は胡桃の部屋で、二人でケーキを作ることになったのだ。


「これから作るのは、ガトーヨーグルトです。フランスでは、子どもたちが最初に親から教わる、ヨーグルトのケーキらしいですよ」

「ヨーグルトケーキ……あまり、食べたことがないな。チーズケーキみたいなものか」

「そうですね。何を隠そう、わたしがお父さんから初めて教えてもらったのもこれです。小学校に上がる前だったかな……」


 鮮明に覚えているわけではないが、腕組みをした父が怖い顔で見守っていてくれた気がする。拙い字で書いた胡桃の初代レシピノートは、きっと今も実家のどこかに残っているはずだ。胡桃が昔を懐かしんでいると、佐久間は感心したように頷いた。

 

「きみは、未就学児童の頃からお菓子作りを……さすが、ko-jiyaの英才教育を受けてきた人間は違うな」

「でも、ほんとに簡単なんですよ。ラムレーズンやハチミツレモン、リンゴなんかを中に入れるのもいいんですが、今日は缶詰の黄桃を入れることにしましょう。佐久間さん、まず卵を割ってもらえますか」


 胡桃は右手が使えないため、作業はすべて佐久間に任せて、横から口を出すだけだ。佐久間は慣れた手つきで、卵をボウルに割り入れた。


「わっ。佐久間さん、上手です!」

「……まだ、卵を割っただけだぞ」

「佐久間さんって、器用なんですね。その調子です!」


 胡桃の大袈裟な褒め言葉に、佐久間は少し照れていたが、まんざらでもなさそうな顔をしている。胡桃は続いて、てきぱきと佐久間に指示を出す。


「ヨーグルトを別のお皿にあけておいて、空のカップを軽く洗ってください。そのカップにすりきりお砂糖を入れて、ボウルに加えてもらえますか」

「……分量を計らなくてもいいのか?」

「はい。このレシピのいいところは計量が簡単で、手順がある程度でたらめでも美味しくできるところです」

「なるほど」

「卵とお砂糖を混ぜたら、今度は薄力粉とベーキングパウダーをふるい入れてくださいね」

「わかった」


 佐久間は胡桃の言われるがままにボウルをホイッパーでかき混ぜている。粉類をふるって入れたあと、さらに混ぜる。別のお皿に入れていたヨーグルトを加えて、さらに混ぜる。


「次に、オイルを加えて混ぜます。今日は製菓用の胡麻油を使いますが、べつにサラダ油でもいいです。あと、レモン汁も加えてください」


 言われるがまま、おとなしく生地をかき混ぜていた佐久間だったが、突然不安げな声を出した。

 

「おい。思いっきり分離してる気がするんだが、大丈夫なのか」

「多少分離してても大丈夫です。気にせずどんどん混ぜちゃいましょう!」

「……きみがそう言うなら、信じるぞ」


 タルト型に軽く油を塗ってから、底に黄桃をぎっしり敷き詰めて、上から生地を流し込む。180℃に予熱したオーブンでまずは20分焼く。次第に漂ってきた甘い香りに、胡桃は思わず「これこれ!」と歓声をあげた。


「はあ……この匂い、久しぶりに嗅いだ……生き返る……これがないと生きていけない……」

「……きみはやはり、お菓子作りジャンキーだったんだな」


 オーブンに顔を寄せてうっとりしている胡桃に、佐久間は若干引いていた。オーブンの温度を160℃に下げてさらに20分焼いたら、ピーチガトーヨーグルトの完成だ。


「おお……意外と美味そうだな」

「冷蔵庫で冷やしても美味しいんですけど、今日は焼きたてをいただきましょう。飲み物は何がいいのかなあ」

「ふむ……チーズケーキと似たような味わいならば、ヌワラエリヤのストレートにしてみよう」


 二人はエプロンを脱いで、ダイニングへと移動する。胡桃は佐久間の正面ではなく、ちゃっかりと隣に腰を下ろしたが、彼は何も言わなかった。

 いただきますと二人で両手を合わせて、ガトーヨーグルトにフォークを突き刺す。カップケーキのトラウマが未だ残っているのか、佐久間はやけにおっかなびっくり、ケーキを口に運んだ。


「……美味い」


 一口食べるなり、佐久間の表情が嬉しそうに綻ぶ。胡桃は「でしょう!」と我が事のように誇らしくなってしまった。


「チーズケーキよりもさっぱりとしていて、モチモチとした食感があるな。素朴な味わいだが、桃の甘さが爽やかをプラスしている。たしかにこれは、冷やしても美味いだろうな」


 胡桃も一口、ガトーヨーグルトを口に運ぶ。ほのぼのとした優しい甘さで、小さい頃に何度か食べた懐かしい味だ。「上手くできたな」と父に褒められた記憶まで蘇ってきて、胡桃は無性に嬉しくなる。


「とっても美味しいです! 佐久間さんすごい! お菓子作りの才能あります!」

「……煽てても何も出ないぞ」

「ね、お菓子作りって楽しいでしょう」


 胡桃が言うと、佐久間は紅茶を一口飲んで「そうだな」と頷いた。

 もちろん分量をきっちり測ったり、温度や硬さに気を配ったり、焼き加減を試行錯誤することも、お菓子作りにとって大事なことだけれど――何より一番重要なのは、楽しく作って美味しく食べることである。こういった成功体験の積み重ねが、人間をお菓子作りという沼に引き込むのだ。


「……このあいだは、もう二度と作るまいと思ったものだが……きみと一緒に作るのは、意外と楽しかった」

「うふふ。でも、あんまり上手にならないでくださいね。佐久間さんがわたしよりお菓子作りが上手になったら、わたしがお役御免になっちゃいます」

「余計な心配をしなくてもいい。今この瞬間も、俺はきみの作ったお菓子が食べたくて仕方がないんだ。一刻も早く、怪我を治してくれ」


 佐久間が言うと、胡桃は「はぁい」と答える。右手を広げて佐久間の目の前に突き出すと、ひらひらと軽く振ってみせた。


「順調に良くなってるって、このあいだお医者さんに言われたんです。もうすぐギプスも取れるって! そしたら、簡単なものなら作れるかも」

「それは朗報だ。きみのお菓子が生み出されないのは、世界の損失だからな」


 佐久間は大仰なことをさも当たり前のように、堂々と言ってのける。胡桃はくすぐったく思いつつも、「嬉しい」と微笑んだ。

 お菓子が作れない今も、胡桃はこっそりお菓子作りの勉強をしている。利き手が使えなくても、できることはたくさんあるはずだ。そして怪我が治ったら、とびきり美味しいお菓子を作ろう。

 胡桃の価値はお菓子作りだけではない、と彼は言ってくれたけれど。やはりこの甘党男の心を射止めるにあたって、一番強力な武器であることには違いない。

 胡桃は左手の人差し指を、彼の心臓があるあたりに、トンと突きつける。


「……佐久間さん。わたしこれから、もっともっと美味しいお菓子が作れるように頑張ります」

「ああ。期待している」

「佐久間さんの胃袋を、わたしがいないと生きられないってぐらいに掴む予定なんで、覚悟してください!」


 胡桃がそう言ってニッコリ笑うと、佐久間はなんだか眩しいものでも見たように目を細める。そして小さな声で、「……それは、もう手遅れだな」と呟いた。

 

「あっ! 佐久間さん、たしか5月がお誕生日でしたよね! それまでには絶対治します! 何か食べたいものとか、欲しいものがあったら考えておいてくださいね」


 胡桃の問いに、佐久間はしばらく考え込む様子を見せたあと――じいっと熱のこもった視線を向けてきた。じりじりと、こちらの心臓が焦げついてしまいそうなまなざしだ。ドギマギしていると、口を開いて、やけに真剣な声で言葉を紡ぐ。


「俺の欲しいものなら、もう決まっている」

「は、はい」

「…………胡桃」

「……!?」


 名前を呼ばれて、ドキリ、と心臓が跳ねる。驚いた胡桃が、返事もできずに固まっていると、佐久間はふいっと視線を逸らし、そのままテーブルにゴン、と額をぶつけて突っ伏してしまった。


「……クルミ……の、たくさん入った、キャラメルナッツタルトがいい……」

「あ、そ、そうですよね! 承知しました!」


 うるさく騒ぎ出す心臓を押さえて、胡桃は動揺を隠すように声を張り上げる。びっくりした、告白でもされるのかと思った。

 目線だけをこちらに向けた佐久間の顔は何故か赤く、ふてくされたような表情を浮かべている。


「キャラメルナッツタルト、わたしも作りたかったんです。ホールで作るから、残さずぜーんぶ食べてくださいね!」

「……ああ。いくらでも食べられるぞ。俺は好きだからな」

「美味しいですよね、クルミ! わたし、クルミ入りのスコーンも好きです!」

「……やっぱり、きみは察しが悪い」


 深々と溜息をついた佐久間に、胡桃はキョトンと首を傾げる。「いつか残さず食べてやる」と言った佐久間は、人差し指で胡桃の額を軽く弾いてきた。




第2部【甘党男子の落とし方】終

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