30.あなたが作るカップケーキ(2)

 胡桃がエレベーターから降りた途端に、どこからともなくふわりと甘いバターの香りが漂ってきた。

 誰かがお菓子でも作ってるのかな、と考えて、胡桃の気持ちはまた少し沈む。もし他の誰かが手作りのお菓子を持って、彼のところを訪れたとしたら。彼は大喜びで、そのひとを部屋に迎え入れるのだろうか。


(……どうしよう……やっぱり今日は、やめておこうかな……手ぶらだし……)


 胡桃は佐久間の部屋の前で立ち止まり、インターホンを押すべきか押すまいか悩む。お菓子を作れない胡桃に用はないと、すげなく追い返されたらきっと立ち直れない。せめて、彼の好きなパティスリーでケーキでも買って来た方がいいかもしれない。

 明日また出直そう――と踵を返したところで、ガチャリと背後で扉が開く。驚いて振り向くと、オフホワイトのパーカー姿の佐久間がそこに立っていた。


(……さ、佐久間さんだ! 一ヶ月ぶりの、本物の佐久間さんだ!)


 久しぶりに見た想いびとの顔に、どん底まで落ちていた胡桃の気持ちは急上昇した。今すぐ抱きつきたい衝動が突き上げてきたけれど、当然そんなことができるはずもない。

 

「あっ、あの! 佐久間さん! お、お久しぶりです! えっと、わたしっ……!」


 もし偶然会えたらどんな風に挨拶しようかと、何度もシミュレーションを繰り返していたくせに。用意していた言葉はちっとも思い出せずに、胡桃はしどろもどろになっている。

 佐久間はそんな胡桃に構わず、手首をがしりと掴んできた。胡桃の手首を簡単にひとまわりする大きな手に、ドキリと心臓が高鳴る。

 

「入ってくれ」


 突然の誘いに、胡桃は戸惑う。少し考えたあと、ふるふるとかぶりを振った。


「あの……入れません」

「何でだ」

「だって、わたし……お、お菓子持ってない……」

「……お菓子ならある。一応」


 躊躇う胡桃の手を引いて、佐久間はやや強引に部屋の中に入った。

 一ヶ月ぶりに入った彼の部屋には、バターの甘い香りが充満していた。どうやら匂いの発生源はオーブンの中らしい。キッチンはかなり荒れており、流しには汚れたボウルや計量カップが積み上がっていた。ひくひくと鼻を動かしている胡桃を、佐久間はダイニングチェアに座らせる。


「あ、あの、佐久間さん……これは」


 状況を理解できない胡桃が質問する前に、オーブンがピーッと音を立てて鳴った。キッチンへと走った佐久間はオーブンを開き、中から天板を取り出す。キッチンミトンがないため、布巾を二枚重ねにしているようだが、火傷をしないかとハラハラしてしまう。

 しばらくすると、渋い顔をした佐久間がトレイを持って戻ってきた。


「……? 何ですか、これ」


 トレイの上にはいつものティーセットと、チョコチップが入ったカップケーキがあった。おそらく生地を入れ過ぎたのだろう、カップから溢れてやや残念な仕上がりになっている。どうやら、あまり綺麗に膨らんではいないようだ。


「……もしかしてこれ、佐久間さんが作ったんですか?」

「……俺以外の誰が作るんだ」

「え!? どういう風の吹き回し!?」


 胡桃は素っ頓狂な声をあげた。佐久間はむすりと唇をへの字に曲げて、こちらを睨みつけている。


「……いいから、食べてみてくれ。味の保証はしないが」

「は、はい。い、いただきます」


 胡桃は手を合わせると、カップケーキにフォークを突き刺した。ざくり、と硬い感触がする。そのまま口に運んで咀嚼したが、モソモソとした生地に口の中の水分を全部持っていかれるような感覚がある。胡桃は無言で飲み込み、佐久間が淹れてくれた紅茶でカップケーキを流し込んだ。

 胡桃に続いてカップケーキに齧りついた佐久間は、絶望の表情で頭を抱えている。打ちひしがれている彼を励ますように、胡桃は言った。


「……初めて一人で作ったにしては、上手ですよ」

「下手な慰めはやめてくれ。これをカップケーキと呼ぶのは、カップケーキに対する冒涜だ……」


 胡桃はフォークでカップケーキを砕き、モグモグと頬張る。スコーンとマフィンのあいだのような食感で、これはそれで、こういうものだと思えば悪くない。しかし佐久間は納得がいかないらしく、「何が悪かったんだ」と首を捻っている。少し悩んだあと、胡桃は口を開いた。


「……おそらく、生地が綺麗に混ざっていなかったんだと思います」

「そうなのか? しっかり混ぜたつもりなんだが」

「バターが冷たくて、分離してしまったんじゃないでしょうか。冷蔵庫から出したあと、きちんと常温に戻しました?」

「……いいや」

「あと、しっかり混ぜたって言いましたけど、実は混ぜすぎるのは良くないです。生地が固くなる原因になるので、できるだけ切るように、さっくり混ぜるのがコツですよ」

「そうだったのか……」


 胡桃の指摘に、佐久間はがっくりと項垂れた。それから再びカップケーキに齧りつき、深い溜息をつく。


「……なるほど。お菓子作りは奥が深いな。改めて、きみの凄さがよくわかった。あんなに安定して美味いものを作れるのは、きっときみの長年の努力の賜物なのだろう」


 久しぶりに真正面から褒められて、胸の奥がくすぐったいような感覚を覚える。怪我のことなど忘れて、今すぐ佐久間のためにとびきり美味しいお菓子を作りたくなる。


「……チョコチップが入った、シンプルなカップケーキも悪くないですけど。上にクリームとイチゴを乗せた、可愛いやつもいいですね。わたしはいつもバターを入れずに、生クリームと卵で作るんです。ふわっふわで美味しいですよ」

「なんだそれは……死ぬほど美味そうだな」

 

 およそ一ヶ月ぶりに会って、変な空気になるのではないかと思っていたけれど、どうやら杞憂だったようだ。二人で向かい合ってお菓子を食べていると、すぐにいつもの空気に戻ってしまった。

 それにしても、佐久間はどうして、慣れないお菓子作りをしようと思い立ったのだろうか。彼は甘いものをこよなく愛しているけれど、てっきり食べる方専門だと思っていたのに。


「あの……佐久間さん。どうして急に、お菓子作ろうと思ったんですか?」

「……」


 佐久間は眉間に皺を寄せて、モグモグとカップケーキを頬張っている。それから紅茶をごくごくと飲み干したあと、搾り出すような声で言った。


「……他に、理由が思い浮かばなかった」

「理由?」

「きみをこの部屋に呼ぶ理由だ」

「え……」


 彼の言葉の意味が汲み取れず、胡桃はパチパチと瞬きをした。佐久間は半ばヤケになったようにカップケーキに齧りついて、不快そうに眉を寄せている。


「……こんなものしか用意できなくて、悪かったな」


(なんだか、その言い方だと……佐久間さんが、わたしに会いたかった、って言ってるみたいに聞こえる……)


 胡桃は俯いて、膝の上に置いた指をじっと見つめる。未だギプスで固定された、忌々しい右手の人差し指。佐久間が求めているのは胡桃自身ではなく、なのだ。それなのに、どうして。


「な、なんでですか。わたしに、そんな価値なんて、ないのに」

「どういう、意味だ」

「……だ、だって……お菓子が作れないわたしなんて……佐久間さんにとって、何の価値もないでしょう?」


 胡桃がそう言うと、佐久間は眉をつり上げ、怖い顔でこちらを睨みつけてきた。


「何を馬鹿なことを言っているんだ」

「……だ、だって……わたしのお菓子以外は、求めてないって! そ、そう言ったのは、佐久間さんじゃないですか。だからわたし……来れなかったのに」


 勢いに任せてそう口に出した瞬間に、じわりと涙が滲む。慌ててゴシゴシと目尻を拭うと、佐久間が黙ってティッシュを差し出してきた。「いりません」と強がる声が震える。彼は困ったように瞬きをした。


(こんなところでみっともなく泣いて、困らせたくない)


「どうして、きみが泣くんだ」

「だって。ほ、ほんとは、会いたかったのに………」

 

 胡桃の本音に、佐久間は狼狽えて視線を彷徨わせると、立ち上がって隣へと移動してきた。下唇を噛み締めて俯く胡桃の背中を、ぎこちなく撫でてくれる。優しくて温かな手の感触に、余計に泣きたくなってしまう。


「……その、きみが……何を勘違いしているのか知らないが」

「……」

「お菓子がなくたって……いや、そりゃ、あると嬉しいんだが……べつに、手ぶらで来たっていいんだ。きみの価値は、それだけじゃない」

「……え?」


 胡桃は弾かれたように顔を上げる。佐久間は不機嫌そうな顔でこちらを見ていたが、背中を撫でる手は止めなかった。

 

「……そもそもきみは、壊滅的に男を見る目がないし、碌でもない男にばかり好かれるだろう。そのくせ危機感というものが欠如しているし、ひどく無防備だし、おまけに泣き虫だ。どうして今日まで無事に生きてこれたのか、不思議で仕方がない」

「……な、なんですか! 突然!」


 唐突に悪口を並べ立てられて、胡桃は憤慨する。梢絵にも今日指摘されたばかりだし、自分の不甲斐なさは充分理解しているつもりだ。ぷくっと頬を膨らませた胡桃に向かって、佐久間は「だから」と続ける。

 

「……落ち着かないんだ、きみがいないと。俺の知らないどこかで、俺の知らない誰かに泣かされてるんじゃないかと思うと……気が気じゃない」

「……え」

「その、なんだ……きみが俺の前で、間抜けな顔でニコニコ笑っているだけで……なんというか、安心、する」

「……」

「だから……きみがそばで笑っているという、事実そのものが。俺にとっては……その……それなりに、価値があるもの、なんだと思う」

「……あの、佐久間さん。それって……」


 ふいっと目を逸らした佐久間の耳は赤くなっており、誤魔化すように片手で口元を覆っている。顔を覗き込もうと身を乗り出すと、「見るな!」と怒られてしまった。


(……ねえ、佐久間さん。それ、なんだかものすごーく、愛を感じるんですけど)


 温かくて幸せな感情で胸がいっぱいに満たされて、いつのまにか涙なんて引っ込んでいた。くすぐったくて嬉しくて、胡桃は思わず「ふふっ」と笑みをこぼす。その瞬間に、目の前にある佐久間の顔がほっと緩んだ。


「何がおかしいんだ」

「……わたしの顔見たさに、カップケーキまで作っちゃう佐久間さん可愛いなあ、と思って」

「……」

「そんなに、わたしに会いたかったんですか?」


 胡桃が問いかけると、耳まで真っ赤になった佐久間に、人差し指で額をパチンと弾かれた。

 

「……きみは危なっかしいから、視界に入っていないと心配になるだけだ」


 胡桃は「そういうことにしといてあげます」と言って、カップケーキをぱくりと頬張る。ガチガチでパサパサのケーキを食べながら、杏子の言っていたことは正しかったな、と胡桃は思う。


「……佐久間さんが作ってくれたカップケーキ。世界でいちばん、美味しいです」

 

 そう言ってふにゃりと微笑んだ胡桃の髪を、佐久間は照れ隠しのようにガシガシと乱暴に撫でる。大好きなひとが、自分のためだけに作ってくれたカップケーキは、お世辞ではなく本当に美味しかった。

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