29.あなたが作るカップケーキ(1)
19時半。打ち合わせがひと段落したところで、佐久間が「煙草を吸ってくる」と言ってベランダへと出て行った。
カーテンの開いた窓の向こうに、ゆっくりと吐き出される紫煙が見える。これまでは大和の前でも気にせず煙草を吸っていた佐久間だが、一ヶ月ほど前からわざわざベランダに出て吸うようになった。
べつに、突如として担当作家が煙草の副流煙による健康被害を気にし始めたわけではない。おそらくあの男は、ベランダで煙草を吸っているときにたまたまお隣さんが顔を出して、「あれ、佐久間さん偶然ですね」なんて笑って挨拶をしてくれるのを、待っているのだ。
(……ばっかじゃねえの)
大和は内心口汚く罵る。敬愛する担当作家に対してあるまじき暴言だが、心の中で思うぐらいは許されるだろう。
糀谷胡桃は一ヶ月前、利き手の指を骨折したらしい。大和はお菓子作りをしたことがないが、利き手が使えないならば、お菓子を作るのは困難だろうということはなんとなくわかる。
怪我をして以来、胡桃は佐久間の元をパタリと訪れなくなった。佐久間の機嫌は日に日に悪くなり、やけに落ち着きがない。打ち合わせ時に大和が持ってくる手土産も、美味そうに食べてはいるものの、食べ終わったあとはなんだか妙に物足りないような顔をしているのだ。
ベランダから戻ってきた佐久間は、煙草の箱をぽいっとテーブルに放り投げて、苛立ちを滲ませながら腰を下ろした。大和は自分が買ってきた抹茶プリンを食べながら、佐久間に尋ねる。
「お隣さん、帰ってきてました?」
「いいや。まだ部屋の電気が消えていた……あ、いや、べつに。わざわざ確認したわけじゃないが」
佐久間は慌ててそう付け加えたが、絶対わざわざ確認したに違いない。「ふぅん」とジト目で見つめていると、「なんなんだ!」と逆ギレされた。
「そんなに胡桃さんに会いたいんですか?」
「そんなこと、一言も言ってない!」
「口に出さなくても、バレバレですよ。一ヶ月前から、煙草の量が倍以上に増えてます」
「……」
「隣に住んでるんだから、いつでも会いに行けばいいじゃないですか」
佐久間は不機嫌そうにむすっと唇を引き結んで、ティーカップを持ち上げる。しかしカップが空なことに気が付いたのか、チッと舌打ちをした。
「会いに行ける、はずがないだろう」
「何でですか?」
隣に住んでいるのだから、物理的な距離はほぼゼロに等しい。部屋の扉を出て、インターホンを押せばいいだけだ。
佐久間は、何を当たり前のことを、とでも言いたげに、頬杖をついてこちらを睨みつけている。
「常識的に、考えてみろ。恋人でもなんでもない……もしかしたら自分に下心を抱いているかもしれない、ただの隣人が。一人暮らしの部屋に、用事もなくいきなり尋ねてきたらどう思う。どう考えてもホラーだろうが」
「……すみません。いまさら、常識の話を持ち出されるとは思いませんでした」
そういうことなら、恋人でもなんでもない女性が、しょっちゅう部屋に入り浸って、二人で深夜にお菓子を食べているのも、なかなかのホラーである。
佐久間と胡桃の距離感は、とっくに〝ただの隣人〟のそれを飛び越えているのだ。当人ばかりがウジウジとくだらないことを気にして、いつまで経ってもお隣さんのボーダーを踏み出せずにいるだけで。
「あと僕に言わせるなら、ベランダで煙草吸いながら彼女のこと待ってるのも、常識的に考えて相当キモいです。アウトです」
「……」
大和の指摘に、佐久間は耳を赤くして下を向いた。紅茶を淹れ直すのか、佐久間はカチャカチャと音を立ててティーセットを片付けると、逃げるようにキッチンへと向かう。しばらくすると、キッチンから良い香りが漂ってきた。佐久間はいつも多種多様な紅茶を淹れてくれるが、大和はいつまでたっても紅茶の銘柄を覚えられない。
ティーセットを持って戻ってきた佐久間は、再び大和の正面に座る。眉間に皺を刻んだままティーカップに口をつけたあと、深い溜息をついた。
「……甘いものが、食べたくなってきた」
「さっき、僕の買ってきた抹茶プリン食べたでしょうが」
「……彼女の作った、シフォンケーキが食べたい。マドレーヌでも、ダックワーズでも、ブルーベリーマフィンでもいい。そういえば、ガトーバスクも美味かったな」
佐久間はそう言って、何かを思い出すように目を細める。きっと今彼が挙げているお菓子の数だけ、胡桃との思い出があるのだろう。きっとそれは佐久間にとって、店で売っているお菓子では得られない、かけがえのない幸福なのだ。
「……もう一ヶ月も、顔を見ていない」
消え入りそうに小さな声で、佐久間が呟いた。彼が欲しがっているのは、きっと甘いお菓子だけではないのだろう。お菓子だけが目的ならば、わざわざベランダに出て煙草を吸う必要などないのだ。
(……あんまり口出すのはポリシーに反するけど、このまま見過ごすわけにもいかないか)
大和だって、ここまで見守ってきた推しカップルの破滅を願っているわけではない。抹茶プリンを食べ終わった大和は、佐久間に向かってスプーンをびしりと突きつける。
「佐久間先生、胡桃さんの顔が見たいんですか? それとも、彼女のお菓子が食べたいんですか?」
「……それ、は」
「胡桃さん今、お菓子作れないんですよね? 彼女がここに来ても、お菓子は食べられませんよ」
「……そんなことぐらい、わかっている」
佐久間はそう言ったが、自分が真に求めているものが何なのか、果たして本当にわかっているのだろうか。大和は追撃の手を緩めず、一息に捲し立てる。
「彼女の作ったお菓子が食べたいだけなら、おとなしく怪我治るの待てばいいと思います。そのあいだに、例の男と付き合い始めるかもしれないですけど」
「……」
「もし彼女が将来お店とか出すなら、お客さんになってあげればいいんじゃないですか? そのとき彼女は、他の男と結婚してるかもしれないですけど」
「…………」
「もう一回訊きます。佐久間先生はなんで、
「……」
大和の問いかけに、佐久間は紅茶に口をつけたまま、ゆっくりと目を閉じた。瞼の裏にはきっと、一ヶ月前までこの場所に座っていた女性の姿が浮かんでいるに違いない。
やがて目を開けた佐久間は、観念したようにやれやれと首を振った。
「……会いたい理由なんて、ひとつしかない」
佐久間は理由を教えてくれなかったが、きっと自分の中で答えは出ているのだろう。
確定的な一言は引き出せなかったが、大和はそれなりに満足した。不器用な男が胸に秘めた想いを知るのは、彼女ひとりだけで充分だ。
「……筑波嶺くん。俺は覚悟を決めたぞ」
「何の覚悟ですか」
「彼女の好きな男がどんな奴であろうと、全力で邪魔をする覚悟、だ」
べつに彼女の恋路は邪魔する必要ないんですけどね、と思ったが、説明するのが面倒なので何も言わなかった。大和はティーカップを持ち上げて、紅茶を一口飲む。
「……じゃあ、さっさと会いに行ってください。僕はこの紅茶飲んだら、帰りますから。またちゃんと結果教えてくださいね!」
「ちょ、ちょっと待て! 会いたい理由がわかったところで、会いに行く理由がないことに変わりはないぞ!」
佐久間が慌てたように言った。この期に及んで何を面倒なことを、と大和は僅かに苛立つ。そんなもの、〝きみに会いたいから会いに来た〟以外の理由は必要ないだろうが。「会いたかった」と囁いて抱きしめるぐらいのことをしてこい、と言いたかったが、このヘタレな担当作家にはハードルが高いだろうか。
「……んなもん、月が綺麗だとか、虹が出てたとか、そんなんでいいんじゃないですか」
「今日は曇りだし、虹も出てなかった。もう少し実現可能なアドバイスをしてくれ」
「そのへんのロマンチックはいい感じにアレンジしてくださいよ! あんた仮にも小説家でしょうが!」
「馬鹿なことを言うな! 俺は恋愛小説を書いたことなど、これまでの人生でただの一度もないぞ」
「……じゃあ、発想を逆転させましょう。佐久間先生は、どういう理由で会いに来てもらえたら嬉しいんですか」
佐久間は腕組みをして、難しい顔でじっと考え込む。新作のネタ出しのときだって、こんなに真剣に考えているところは見たことがないぞ。
やがて佐久間は、壁にかかった時計をチラリと確認して、「
「? 佐久間先生、どこ行くんですか」
「駅前のスーパーだ」
「え、このタイミングで? 何買うんです?」
首を傾げて尋ねた大和に、佐久間は眉間に皺を寄せ、指折り数えながら答えた。
「……薄力粉と、卵と、砂糖と、生クリームと……あと、チョコチップだ」
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