28.わたしの価値とチョコレート(3)

 すぐに帰宅する気にもなれず、胡桃は会社近くの公園のベンチで一人、チョコレートを食べていた。

 20時の公園にはほとんどひとがいなかったが、いくつもの街灯に照らされており、それほど寂しく感じない。自分の部屋にひとりぼっちで、何もせずにいるよりは、ずいぶんマシだ。

 チョコレートひとつひとつに丁寧に包まれた紙を剥がして、ぱくりと頬張ると、柔らかなミルクチョコが口の中で優しくとろけて、トゲトゲしていた気持ちがほんの少し丸くなった。たしかに、落ち込んでいるときには甘いものに限る。栞の優しさがじんわりと身に沁みて、鼻の奥がツンとなった。


(……明日夏原先輩に会ったら、態度悪くてごめんなさいって、ちゃんと謝ろう……)


 栞が残してくれた手紙を、何度も何度も読み返して噛み締める。栞の言葉は、踏み潰されてぺちゃんこになっていた心に、温かい息をそうっと吹き込んでくれた。胡桃の作ったお菓子が一番美味しい、と言ってくれるひとがいるのは幸せなことだ。

 

(……佐久間さんも、わたしの怪我が治るのを待ってくれてるかな……それとももう、わたしが作ったお菓子のことなんて忘れちゃったかな……)


 胡桃の作るお菓子は胡桃にしか作れないと、そう言ってくれたのは他でもない佐久間だけれど――それでも胡桃は不安だった。最後に彼と交わしたやりとりが、いつまでたっても重苦しくのしかかっている。

 そもそもしばらくお菓子を作れていないのだから、おそらく腕が鈍っているだろう。これまでの経験で培ってきた感覚は、少しサボっただけで残酷なほど早く失われていく。もし怪我が治ったとして、佐久間は以前と同じように、胡桃の作ったお菓子を食べてくれるのだろうか。

 思えばクリスマスイブに、佐久間とクリスマスマーケットにやって来たのもこの公園だった。あの日のグリューワインもシュトーレンもアイシングクッキーも、二人で並んで歩いた景色も。まるで幸せな夢か幻のだったかのように記憶が朧げになっていて、上手く思い出すことができない。


(……佐久間さんに、会いたい)


 落ち込んでいく気持ちを慰めるように、またひとつチョコレートを口の中に放り込む。必死で涙を堪えながら、ぐすんと鼻を啜っていると、ふいに声をかけられた。


「……糀谷さん?」


 顔を上げると、スーツ姿の水羽が目の前に立っていた。仕事が終わって、今から帰るところだろうか。胡桃が「お疲れさまです」と言うと、水羽は驚いたように目を丸くする。


「び、びっくりしたよ。糀谷さんに似てるひとだなーと思ったら、まさか本人とは。こんなところで何してるの?」

「えーと……あはは……ちょっと休憩を……」

「隣、座ってもいい?」


 胡桃が頷くのを待ってから、水羽はベンチに腰を下ろす。胡桃は箱の中からひとつチョコレートを取り出して、彼に差し出した。


「これ、食べますか? 夏原先輩に貰ったんです」

「あ、ありがとう……いただくよ」


 水羽は礼を言って受け取ると、包み紙を剥いてチョコレートを食べた。チョコレートを食べているあいだ、二人とも何故か無言になって、気まずい沈黙がその場を支配する。


(……そういえばわたし、水羽主任に映画に誘われてたんだった……)


 そのあといろんなことがあって、すっかり頭から抜け落ちていた。一体水羽はどういうつもりなのだろう。ただの会社の後輩を、果たして休日に映画に誘ったりするだろうか。

 チョコレートを食べながら、胡桃はチラリと横目で水羽の顔を見る。彼はじっとこちらを見ていて、目が合った瞬間に「どうしたの?」と優しく笑ってくれた。


「……水羽主任、今帰りですか?」

「うん。そういや糀谷さん、晩飯食った?」

「いいえ。まだ」

「じゃあ、今から何か食いに行かない? 奢るよ」

「そ、そんな! 悪いです。主任に奢ってもらう理由、ありませんから」


 ぶんぶんと首を横に振った胡桃に、水羽はちょっと悲しそうに瞬きをする。ベンチの上に置いた胡桃の手の甲に、そっと自分のてのひらを重ねると、穏やかな口調で言った。

  

「理由なんて、俺が糀谷さんともっと一緒にいたいだけだよ」


 熱のこもった視線に射抜かれて、胡桃ははっと息を飲む。そのとき、ようやく理解した。このひとがどうして、胡桃にこんなに優しくしてくれるのか。どうしていつも、親切に気遣ってくれるのか。いや、もしかすると薄々――その可能性に、思い至っていたのかもしれない。


「……好きなんだ。糀谷さんのこと」


 ストレートで飾り気のない、彼らしい誠実さに溢れた告白だった。

 突然のことに胡桃は言葉を失い、落ち着きなく視線を彷徨わせている。水羽は「いきなり、ごめんね」と申し訳なさそうに眉を下げた。


「糀谷さんが入社したときからずっと、好きだった。……一目惚れだったんだ」

「そ、そんなに前から……」

「でも、彼氏がいるって噂聞いて……ずっと諦めてた。糀谷さんが幸せならそれでいいかって……まさか、クソみたいな男に騙されてるとは思わなかったけど」


 水羽の表情や口調は穏やかだが、胡桃の手を握る力は意外なほど強くて、絶対に離すまいという彼の意思が痛いほどに伝わってくる。


「……死ぬほど、後悔したよ。なんでもっと、最初から積極的にいかなかったんだろうって。俺だったら、絶対に糀谷さんに悲しい想いさせないのにって」

「水羽主任……」

「ほんとに、好きなんだ。絶対大事にするから、だから……」

「……」

「俺と、付き合ってくれませんか」


 彼の方を見ていられなくなって、胡桃は思わず目を伏せる。

 こんな風にまっすぐに気持ちを伝えてきたひとは、今まで胡桃が交際してきた男性の中には一人もいなかった。水羽は優しくて誠実で、善良なひとだ。彼と交際する女性はきっと幸せなのだろうなと、思ったことは何度もある。

 けれども胡桃は、自分が彼と付き合うところを想像したことは一度もなかった。

 きっと水羽は、胡桃のことを――たとえお菓子作りができなかったとしても――大事にしてくれるだろう。何もできない、何の価値もない自分のことを、好きだと言ってくれるひとがいる。

 胡桃は顔を上げて、水羽からの視線を真正面から受け止めた。覚悟を決めると、小さく息を吸い込んで――重ねられた彼の手を、そうっと振り解く。


「……ごめんなさい。わたし、あなたとは付き合えません」


 目の前にある水羽の表情が、絶望に歪む。しかしそれも一瞬のことで、すぐに目を細めて「そっか」と笑ってくれた。

 どんなに自分を必要としてくれるひとがいたとしても、胡桃には他の選択肢なんてなかった。胡桃が好きなのは、世界でたった一人だけだ。

 佐久間にとっての胡桃が、ただの隣人であったとしても。お菓子作り以外の価値がなかったとしても。どんな手を使ってでも、手放したくない。誰かの好意に甘えて自分の気持ちから逃げるなんて、絶対に嫌だ。


「わたし……他に好きなひとが、いるんです」

「……こないだ、糀谷さんのマンションで会ったひとでしょ。なんとなく、そうじゃないかと思ってた」

「……はい。向こうはわたしのことなんて、ただのお隣さんとしか思ってないから……片想い、なんですけど……」

「じゃあ、俺にもまだ望みない?」

「ごめんなさい。……ありません」

「ですよねー」


 きっぱりと答えた胡桃に、水羽は軽い口調で答えて、アハハと笑った。きっと胡桃が責任を感じないように、つとめて明るく振る舞ってくれているのだろう。やっぱり、どこまでもいいひとだ。


「……あの。でも、嬉しいです。わたし、男運全然なくて。今までずっと、ろくでもない男のひとばっかりに好かれてきたから……」

「……」

「だから……水羽主任みたいな素敵なひとに好きになってもらえたこと、わたしの誇りです。これからも、ずっと覚えてます」


 これは慰めでも何でもなく、胡桃の正直な気持ちだった。しかし水羽は、なんだか泣き笑いみたいな表情を浮かべる。

 

「……そういうこと言うなよ。諦めきれなくなる。こっぴどく振られた方が、ずっとマシだ」

「……ごめんなさい」

「今日は、謝られてばっかりだな」

 

 反射的にまた「ごめんなさい」と言いかけて、胡桃は慌てて口を噤む。言葉を探すように下を向くと、膝の上に乗せたチョコレートの箱が目に入った。チョコレートの残りは、あとひとつだ。


「……あ、あの……水羽主任。チョコレート、最後のひとついかがですか?」

「いや、遠慮しておくよ。ほんとのこと言うなら、俺……実は、甘いもの苦手なんだ」

「え」


 驚いた胡桃は、きょとんと目を丸くする。水羽はちょっと気まずそうに頭を掻いて、「ごめんね」と言った。そして、ベンチから勢いよく立ち上がる。

 

「じゃあ、振られた男は一人寂しく帰りますか! 糀谷さんも、気をつけて帰ってね」

「……はい。お疲れさまです」


 こちらを振り返ることなく歩いていく水羽の背中が、どんどん小さくなっていく。彼の姿が見えなくなってから、胡桃は知らず詰めていた息を吐き出した。


(もし、万が一彼と付き合うことがあったとしても……きっと、上手くはいかなかっただろうな)


 胡桃の作ったお菓子を美味しいと言ってくれたのは、水羽の優しさと――ほんの少しの下心なのだろう。もちろんそれを、責めるつもりは毛頭ないけれど。胡桃が好きなのは、甘いお菓子を一緒に食べて、心の底から美味しいと笑い合えるひとなのだ。

 最後のチョコレートを口の中に放り込むと、胡桃は地下鉄の駅に向かって歩き出す。幸せそうにお菓子を食べる、胡桃の大好きなひとの顔が、今すぐ見たくなった。

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