27.わたしの価値とチョコレート(2)
「そういえば糀谷さん。あなた、もう労災の申請は終わらせたの」
昼休みが終わって、胡桃が自席に戻ってくるなり、栞が言った。胡桃が「まだです」と答えると、眉を顰めて渋い顔をする。
「何をモタモタしているの。そういうことは、早めに終わらせてしまいなさい。病院の診断書は貰っているの?」
「あ、先週病院から貰ってきて……まだ会社には出してません。申請書もまだ……」
胡桃の怪我は業務中の事故によるものだったため、労災が使えるらしい。治療費がかからないのはありがたかったが、意外と面倒で、会社から貰った申請書も、記入方法がよくわからずに放置している。誰か詳しいひとに訊こうと思って、そのままになっていた。
「今から庶務課に行ってきなさい。今日は業務量が落ち着いているから、少しぐらい仕事を抜けても問題ありません」
有無を言わせぬ栞の勢いに、胡桃は「わかりました」と頷いた。デスクの奥底に追いやっていた申請書と、病院に書いてもらった診断書を持って、営業課のフロアを出る。10階にある庶務課へと向かう、胡桃の足取りは重かった。なにせ、庶務課にはあの前川梢絵がいるのだ。
入社以来ずっと営業課に所属していた胡桃は、庶務課があるフロアを訪れたことはほとんどなかった。課長を除いて全員女性社員で構成されており、人数はそれほど多くない。カタカタとキーボードを叩く音が響いており、昼間はほぼ社員が出払ってしまう営業課以上に静かだった。
「すみませーん……」
遠慮がちに胡桃が声をかけると、入り口近くに座っていた社員が「はい!」とこちらに来てくれる。彼女はたしか入社二年目で、胡桃よりも後輩だったはずだ。ふっくらとした頬はピンク色に染まっており、まるで学生のようなあどけなさが残っている。ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべていたので、胡桃はホッと安心した。
「あの、労災の診断書を出しに……あと、申請書の記入方法も教えていただきたいんですけど」
「あ、労災なら担当は前川先輩ですね。前川せんぱーい、お願いしまぁす」
後輩から明るく呼びかけられて、奥の席に座っていた梢絵がつと顔を上げた。どうやら仕事中はシルバーフレームの眼鏡をかけているらしく、いつもより理知的な印象がある。レンズの向こうの瞳にギロッと睨まれて、胡桃は身を震わせた。
「……ああ。例の怪我の件ね」
梢絵はそう言うと、心底面倒そうな大きな溜息をついて、こちらに歩いてきた。胡桃はビクビクと怯えながらも、茶封筒に入った診断書を差し出す。彼女はニコリともせず、「確かに受け取りました」と言った。
「申請書は?」
「ま、まだ書き終わってなくて……あの、こ、この再発防止策っていうのは……」
「そこはこちらで埋めるので大丈夫です。あとこの欄、記入が漏れているので今書いてください」
「は、はい」
梢絵に指示されるがまま、空欄になっていた事故状況を慌てて埋めていく。事故の目撃者の欄に〝営業一課 水羽主任〟と記入したとき、梢絵が忌々しげな表情を浮かべた。
「書き終わりました……」
「……」
梢絵は無言で書類を受け取る。さっさとお暇しよう、と「ありがとうございました」と頭を下げたところで、梢絵がいびつに唇を歪めて言った。
「……あなたはいいわね」
「……え」
「そうやってか弱いふりしてたら、周りのひとたちが黙って助けてくれて。いかにも、守ってあげたい女の子って感じで。さぞかし、生きるのが楽でしょうね」
「……は?」
隠し切れない憎しみの滲んだ声に、胡桃は唖然と口を開けた。梢絵はこちらを小馬鹿にするような表情と口調で続ける。
「そうやっていつも男に寄っかかって、誰かに守られながら生きてて。自分の頭で考えないから、ろくでもない男に騙されるんでしょう。それで周りを傷つけて、恥ずかしいと思わない?」
(……なに、それ……!)
一瞬で頭に血が昇る。腹の底から湧き上がってきた激しい怒りを飲み込むこともできず、胡桃は梢絵をまっすぐに見据えて、口走っていた。
「……自分が好きなひとに相手にされないからって、後輩を妬んで八つ当たりする方が、よっぽど恥ずかしいと思いますけど」
普段は言われるがままになっている胡桃からの思わぬ反撃に、梢は虚を突かれたように目を見開く。数秒ののち、梢の顔がかあっと真っ赤に染まった。
「な、な、な、なにを……」
「……失礼します!」
ワナワナと怒りに震える梢絵の隣をすり抜けて、胡桃はその場をあとにした。
背筋を伸ばして肩を怒らせ、ずんずんと廊下を歩いていく。真正面から梢絵に言い返したのは初めてのことだったけれど、ちっとも気持ちはすっきりしなかった。
(……前川先輩の言ってたこと、間違ってないのかもしれない)
胡桃はいつまでたっても頼りなくて情けなくて、水羽や栞、佐久間にも助けられてばかりだ。自分一人で、自分の進む道さえ決められない。それに、胡桃が彰人に騙されたせいで――胡桃がバカだったせいで、名前も顔も知らない誰かを傷つけたのは、本当のことだ。
それに、いくら腹が立ったからと言って、梢絵の恋心をあんな形で指摘して攻撃すべきじゃなかった。彼女は彼女なりに、きっと本気で水羽のことが好きなのに。どうしても好きにはなれないひとではあるけれど、恋をしている、という点においては――梢絵と胡桃は同じなのだ。
のぼせていた頭が冷えれば冷えるほど、自己嫌悪ばかりが募っていく。胡桃は下唇を噛み締めながら、足早にエレベーターに乗り込んだ。
営業課に戻ってきた胡桃は、どんよりと落ち込んだ気持ちのまま仕事をした。胡桃が資料と睨めっこしながらデータ入力をしているあいだ、栞には急ぎの仕事がたくさん舞い込んでくる。忙しそうで申し訳なかったが、胡桃が手を出した方が遅くなるのは明らかなので、黙って身を小さくしていた。
あと5分で定時を回る、というところで、冴島課長が渋い顔をしてこちらにやって来た。
「ちょっと、糀谷さん。この資料、数字が全部去年のやつになってない?」
「……え?」
「1月から、全部料金が変わってるはずだよ。届いてたメール、ちゃんと確認してくれた?」
課長の指摘に、さーっと血の気が引いていくのを感じた。胡桃は勢いよく立ち上がると、「すみません!」と身体を二つ折りにして謝る。慣れた作業だからと確認もせず、思い込みで資料を作成してしまった。
「まったく。急ぎの仕事は全部夏原さんがやってくれてるんだから、せめてこれぐらいは正確に作ってくれないと困るよ。それ、明日の朝使うやつだからね」
「申し訳ありません……すぐ、作り直します」
「僕が気付いたからよかったものの……怪我してるときに申し訳ないけど、よろしくね」
「……はい」
胡桃は課長から資料を受け取り、急いで再作成に取り掛かる。取引先からの「料金改定のお知らせ」メールを確認し、カタカタとぎこちなくタイピングをしていく。
「糀谷さん、大丈夫?」
自分の仕事を終わらせ、既に退勤準備をしていたらしい栞が、心配そうに胡桃の手元を覗き込んでくる。胡桃は彼女の方を見向きもせずに「大丈夫です」と答えた。
「私も手伝うわ」
「……いえ、結構です」
「でも、その指じゃ時間かかるでしょう」
「ほんとに、大丈夫ですから。夏原先輩は、わたし一人に任せるのが心配なんでしょうけど。わたしだって、これぐらいはちゃんとやります」
そう答える声に、ほんの僅かな棘が含まれていることに、胡桃は自分でも気付いていた。胡桃の胸の内に渦巻いているのは、情けなさと申し訳なさと――そして、栞に対する醜い嫉妬だ。
「……ごめん、なさい。わたし、これ以上、夏原先輩に迷惑かける方が辛いです……」
「……」
「お願いだから、先に帰ってください」
喉から絞り出した声が震えて、胡桃はこみ上げてくるものをぐっと飲み込んだ。できるだけ栞の顔を見ないようにしながら、タイピングに集中する。
栞はしばらく黙っていたけれど、ややあって「わかったわ」と言って、その場から立ち去っていった。栞がフロアから出て行ったのを確認してから、深い深い溜息をついた。
(……どう考えても、態度悪かったよね……夏原先輩、呆れたかな……嫌われ、ちゃったかな……)
自分がこんなにみっともなくて醜い人間だったなんて、知りたくなかった。このままだと、胡桃はどんどん自分のことが嫌いになってしまう。今までお菓子作りで昇華できていたネガティブな部分が、どんどん膨れ上がって今にも爆発しそうになっている。
(……仕事もできない、お菓子作りもできない。そんなわたしの価値って、いったいどこにあるんだろう……)
自責の念に押し潰されそうになりつつも、胡桃は一時間ほどかけて、なんとか資料の再作成を終えた。最後にもう一度、冴島課長に謝罪をしてから、ふらふらとロッカールームへと向かう。
早く着替えて帰ろうと、自分のロッカーの前で立ち止まると、小さなコンビニ袋がロッカーの扉に掛かっていることに気がついた。
「……?」
不審に思いつつも、中身を確認する。袋の中には、チョコレートの箱が入っていた。ひとつ300円ぐらいする、コンビニチョコにしては少しお高いやつ。箱には、クリーム色の付箋でメモ書きが貼られていた。
[お疲れ様です。
いつかのお礼というわけではありませんが、よかったら食べてください。
落ち込んでいるときには、甘いものに限ります。
私にとって、あなたがあの日作ってくれたレモンクッキーが、人生で一番美味しかった。
怪我が治ったら、また作ってください。 夏原]
(夏原、先輩……)
読み終えた瞬間に、胡桃はずるずるとその場にしゃがみ込む。自分のために尽力してくれている栞に嫉妬して、八つ当たりまがいことまでしてしまったのに。どうして彼女は、こんなにも優しくしてくれるんだろう。
胡桃はロッカールームで膝を抱えたまま、わあわあと声を上げて泣き出したいのをぐっと堪えていた。
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