26.わたしの価値とチョコレート(1)

 胡桃が怪我をしてから、はや一ヶ月が経った。

 バレンタインに彼から貰ったラナンキュラスの花はすっかり枯れて、茶色く変色してしまった。変わり果てた姿を見ている方が悲しくなって、身を切り裂かれるような想いで、ゴミ箱に捨てた。

 

 怪我をしたあの日以来、佐久間には一度も会っていない。お菓子が作れないのだから、彼に会いに行く理由がないのだ。

 なんとか顔だけでも見れないかと、偶然を願ってベランダに出てみたり、彼の部屋の前で数秒立ち止まってみたりするものの、胡桃のあさはかな願いが通じることはなかった。

 風呂場で悲鳴でもあげれば、優しい彼はまた駆けつけてくれるかもしれないと一瞬思ったけれど、そんなことができるはずもない。所詮胡桃は彼にとって、「お菓子を食べさせてくれるただの隣人」なのだ。お菓子が作れなくなった今の自分は、果たしてそこまで価値のある存在なのだろうか。


 


 3月も終わりが近付いてくると、寒さも次第に和らいできて、ここ数日は薄手のコートで充分だ。会社近くにある公園の桜は次第に蕾が膨らみ始めている。見頃はまだ少し先だろうが、もう一週間もすれば、少しずつ開花が始まるのだろう。

 胡桃の怪我は、一応快方には向かっているらしい。先週通院した際には、「くれぐれも力を入れないように」と重ねて念押しされてしまった。なんとか右手を使わずに作れるお菓子はないものかと、いろいろと調べて挑戦してみたけれど、結局満足のいくものはできなかった。

  

 ここ最近の胡桃は日々の仕事をただロボットのように淡々とこなしている。できるだけ傷つくことのないようにと、心を殺して。ものすごく辛いことが起こるわけではないけれど、日々のささやかなストレスはじわじわと降り積もっていく。

 こんな状態で過酷な年度末業務を乗り越えれているのも、他ならぬ栞のおかげだ。彼女にはいくら感謝しても足りない。


「夏原先輩、ほんとにありがとうございます……迷惑かけてごめんなさい……」


 両手を合わせて拝んでいると、栞は「感謝する暇があるなら、これでも整理してファイリングしておいて。急ぎじゃないから」と処理済みの伝票を渡してくる。こうして極力指を使わない、スピードが求められない仕事を回してくれるのも、ありがたいところだ。


 せっせと伝票を整理していると、営業二課の田山が栞の元に大慌てで走ってきた。どうやら大口の契約が取れそうらしく、今すぐに見積書と請求書を作ってほしいとのことだ。田山は人柄は悪くないのだが、こういう無茶をふっかけてくることが多い。

 栞は「もっと余裕を持って依頼してくれないと困ります」と言いながらも、早急に書類を作成して田山に手渡した。


「この提案内容なら、こちらの説明資料があった方がわかりやすいと思います」

「うわー、夏原さん神! ありがとう! ほんとに助かったー!」


 田山は大袈裟にそう感謝したあと、「いってきまーす!」と威勢よく出て行った。なんだかんだ無茶を言いつつも、ちゃっかり契約を取ってくるのが田山という男だ。

 一部始終を見ていたらしい冴島課長が、不気味なほどのニコニコ笑顔を浮かべて栞の元へとやってくる。


「いやあ、夏原さんがいてくれるとほんとに助かるよ。糀谷さんの怪我が治っても、ずっと二課ウチの担当してくれないかな?」


 課長の言葉に、胡桃の胸はちくりと痛む。課長がこういうことを言うのは、べつに今に始まったことではない。胡桃が怪我をしてからずっと、この調子だ。


「今はあくまでも、イレギュラーな対応ですから。糀谷さんの前で、配慮の欠けたことを言わないでください」


 栞にぴしゃりと言い返されて、課長はすごすごと自分の席へと戻っていく。栞のこういう強さと正しさと優しさが、心底眩しくて羨ましくて――ほんの少し、妬ましい。


(……大好きな夏原先輩に、嫉妬なんてしたくないのに)


 内心の鬱屈を押し込んで、できるだけ何も感じないように、心を殺して仕事をする。怪我をしてからずっと、日ごとに自分の価値が擦り減っていくような気がしている。どんどん削られてみすぼらしくなってしまった石ころの自分を、見出してくれるひとが果たしてこの世界のどこかにいるのだろうか。

 



 昼休みが始まると、冷凍食品を詰めただけの弁当を持った胡桃は、いつもの公園に向かう。と、エレベーター前で水羽に声をかけられた。


「糀谷さん、今からお昼? どこ行くの?」

「はい。公園で食べようと思って。水羽主任は?」

「俺はこれから取引先に向かうから、ついでに外で食ってくるよ。今日はあったかいから、外で食べるのもいいよね」


 本当は真冬の極寒でも外で震えながら食べていたのだが、胡桃は曖昧に笑って誤魔化した。たしかに今日は暖かくていいお天気だし、外でお弁当を食べるのも気持ち良いだろう。


「怪我の調子はどう? 困ってることはない?」

「はい、問題ないです。夏原先輩が優秀すぎて、むしろわたしなんていない方がいいんじゃないかってぐらい」


 そう口にしたあとで、今はちょっと卑屈すぎた、と胡桃は反省した。まるで、慰めてもらうのを待っているみたいだ。予想通り水羽は悲しそうに眉を下げて、「そんなこと言わないで」と言った。


「少なくとも俺は、糀谷さんがいないと困るよ」

「……すみません。ありがとうございます」


 なんだか無理やり言わせたようで、申し訳なくなる。それでも、自分は誰にも必要とされていないのだ、とふてくされていた気持ちが、彼と話しているとほんの少しだけ慰められるような気がした。


「……そういえば糀谷さん、こないだ貸した本読んだ?」

「あ、はい。読みました! 面白かったです」


 ここ最近はお菓子作りもできないので、胡桃は空いた時間で読書をするようになった。佐久間諒の作品は避けていたが、水羽がお薦めしてくれる陰鬱なジャンルのものが多い。先日借りたのは爽快感のあるスプラッターエンタメ小説で、容赦なく人が死に、臓物や血飛沫は威勢よく飛び散るものの、不思議と能天気な明るさがあり、読み終えたあとはちょっと元気になった。


「あの小説、今度映画公開されるんだ」

「わあ、そうなんですね。あれを映像化するのは大変でしょうね」

「……糀谷さんは、映画は好き?」

「はい、それなりに」


 お菓子作り以外にてんで趣味のなかった胡桃だが、最近は配信サイトでB級ホラーやスプラッター映画も観るようになった。水羽はニコッと笑って、まるで内緒話でもするような音量で胡桃に囁いた。


「じゃあ、今度観に行こ。……二人で、休みの日に」

「え?」


 胡桃が思わず訊き返したそのとき、目の前のエレベーターが開いた。既に乗り込んでいた先客は、水羽の同期である庶務課の前川梢絵だった。

 梢絵は水羽を見て一瞬ぱっと表情を輝かせたあと、隣にいる胡桃を見てげんなりしたような顔をする。しかしすぐに取り繕って、「お疲れさま」と微笑みかけてきた。


「あ、前川。お疲れー」

「お、お疲れさまです……」


 エレベーターが一階に到着するまでの、三人きりの沈黙が異様に重い。胡桃は一刻も早くこの時間が過ぎ去るのを願いながら、虚な目つきで、「エレベーター内での私語はやめましょう」と書かれた貼り紙を見つめていた。

 まるで救いの副音のような、チーンという音とともにエレベーターが一階に着く。胡桃は「開」のボタンを押しながら、二人に向かって「ど、どうぞ」とぎこちない笑みを向けた。水羽は降り際に、爽やかな笑みとともに爆弾を落としていく。


「ありがとう、糀谷さん。じゃあさっきのデートの件、考えといてね」

「ヒィッ」


 思わず悲鳴をあげた胡桃をよそに、水羽は軽やかな足取りで立ち去っていった。残された梢絵は、鬼のような形相でこちらを睨みつけてから、無言でエレベーターを降りていく。

 剥き出しの悪意を真正面から受け止めてしまい、勘弁してください、と泣きたくなる。こんなにみっともなく情けない顔を誰にも見られたくなくて、胡桃はいったんエレベーターの「閉」ボタンを押した。

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