25.絶望ミルクティー(4)

 胡桃は怪我をした日の夜、ずいぶんと久しぶりに「世界が滅びればいいのに」と思いながら眠りについたけれど、やっぱり朝はやってきた。

 枕元で、いつもより20分早くセットしたアラームが鳴り響く。右手が使えないため、朝の準備にも時間がかかるだろう。昨日の夜、お風呂に入るのも大変だった。

 寒さに震えながらカーテンを開けると、空は胡桃の心情を反映したかのようにどんよりしていて、灰色の分厚い雲が立ち込めている。横目でこっそり、隣の部屋のカーテンが閉まっているのを確認して、胡桃は深い溜息をついた。

 ――もし今日、世界の終わりが訪れたとしても。胡桃はフルーツタルトを焼くことすらできない。



 

 満員電車にいつも以上に苦労しながらも、なんとか出社した胡桃は、まずは冴島課長に怪我の状況を報告した。「このたびはご迷惑をおかけして申し訳ありません」と頭を下げると、「利き手だと何をするにも大変だねえ」と眉をひそめる。


「脚立が壊れてたんでしょ? ウチの備品、オンボロだからなあ。労災申請できるはずだから、詳しいことは庶務課に聞いておいて」

「は、はい」


 この忙しい時期に何をやってるんだ、と叱られることはなかったのでホッとした。また嫌味を言われるかも、と身構えていたのが申し訳なくなる。


「糀谷さん、おはよう! 今日、無事に来れた?」


 課長との話を終えたところで、水羽が小走りに駆け寄ってきた。週後半の疲れなど少しも見せず、爽やかさを振り撒いている。胡桃は深々と頭を下げた。


「水羽主任、昨日は本当にありがとうございました」

「そんなの気にしないで。その、えーと、昨日のことなんだけど……」


 水羽はそう言いかけて、キョロキョロと周囲を気にしたあとで「いや、やっぱいいや」と口を噤んだ。

 おそらく昨日の胡桃と佐久間のやりとりが気になっているのだろうが、職場でするような話ではない、と思ったのかもしれない。どちらにせよ、胡桃は水羽に細かい事情を説明するつもりはなかった。


「何かあったら、すぐに相談してね。仕事のこととか……それ以外でも。できるだけ、俺がフォローするから」

「はい。お気遣いありがとうございます」


 水羽に礼を言ってから、胡桃が自席に戻ると、既に出社していた栞が「大丈夫なの」と声をかけてきた。胡桃は笑って、右手をひらりと振ってみせる。


「あはは。ほんとに鈍臭いですよね……脚立が壊れるなんて、恥ずかしい。最近食べすぎて太ったからかな」


 努めて明るく振る舞ったつもりだったが、栞はニコリともしてくれなかった。美しく整った眉をつり上げて、ギロッと睨みつけてくる。

 

「冗談言ってる場合じゃないでしょう。社内備品をあんな状態で放置しておくなんて、どう考えても会社側の不手際だわ。総務課には私の方から進言しておきます」

「夏原先輩……」

「とにかく仕事のことは気にしないで、一日も早く治すことを考えなさい」

「……はい。ご迷惑をおかけして、すみません……」


 しかし、気にするな、と言われても。胡桃だって会社から給料を貰っている以上、ボーッとここに座っているわけにもいかない。

 胡桃が溜まった仕事を片付けようと手を伸ばすと、横から出てきた栞の手がさっとファイルを奪った。


「糀谷さん。あなた、その指でタイピングは出来るの」

「はい。たぶん遅いけど、なんとかできると思います」

「じゃあ、急ぎでないものはそちらに回します。急を要する業務については、すべて私がやるわ。もし手が空いたときには、書類点検と電話対応、伝票整理をお願いできるかしら」

「わ、わかりました!」


 栞はテキパキと胡桃に指示を出して、バチッとスイッチが入ったかのように仕事モードの顔になった。ディスプレイを向き合う横顔は真剣そのもので、かっこいい、と思わず惚れ惚れしてしまう。やはり栞は、本当に頼りになる先輩だ。


 どうなることかと心配していたものの、業務そのものは想像していたよりもうんとスムーズだった。

 なにせ、栞の仕事がものすごく早い。いつも以上に気合いが入っているらしく、営業社員たちが遠慮がちに「夏原さん、あの書類なんだけど……」と言いかけた瞬間に「もう終わらせました」とファイルを突き出してくる。普段胡桃ののんびりペースに慣れている営業二課の社員は、あまりのスピード感に目を白黒させていた。


「夏原さん、仕事早いなあ……いやほんと、助かるよ」


 いつも胡桃が対応している社員たちが、栞にそう礼を述べて立ち去っていく。栞の仕事ぶりが完璧なのはいまさら言うまでもないことだし、今の胡桃にとってはありがたいものだ。それでも胡桃の胸の内は、複雑なものだった。


(……わたしがいない方が、上手く仕事が回るんじゃないかな……)


 あらためて、自分の役立たずぶりを思い知らされたような気がする。今まで自分は会社の歯車のひとつだと思っていたけれど、本当はそんなことはなくて、なくても困らない部品のひとつだったのだ。


「糀谷さん。私、今手が空いているので、そちらのデータ入力を半分貰います」

「あ、ありがとうございます……すみません」


 申し訳なく思いつつも、胡桃は持っていた資料を半分栞に渡した。栞はディスプレイを睨みつけながら、ものすごい勢いでデータを打ち込んでいく。カタカタ、という自分のタイピングの音が、子どもの遊びに思えるほどだ。


(……お菓子、作りたい……)


 反射的にそんなことを考えてから、人差し指に巻かれたギプスが目に入って泣きたくなってしまった。




 課長や栞が気を遣ってくれたこともあり、胡桃は残業をすることなく定時で退社した。マンションに到着するなり、佐久間の部屋の電気が点いているか確認してしまう。佐久間は部屋にいるようだったが、当然会いに行くわけにもいかない。

 自分の部屋に戻ってから、胡桃は着替えもせずにベッドの上に倒れ込んだ。夕飯は食べていないけれど、ごはんを用意する気にもなれない。今までだったらこういうとき、「お菓子を作ろう」と考えたらすぐに元気が湧いてきた。

 仕事で悲しい思いや辛い思いをしたとき、胡桃を慰めてくれるのは、いつもお菓子作りだった。オーブンから漂ってくる甘い香りを嗅ぐだけで――美味しいと食べてくれるお隣さんの顔を見ただけで、憂鬱なんてすぐさま飛んでいったのに。

 ただの隣人だ、という佐久間の冷たい声が蘇ってきて、心臓をぎゅっと握り潰されたように苦しくなる。胡桃は立ち上がり、フラフラとベランダへと向かった。窓を開けて外に出ると、びゅうびゅうと冷たい風が頬を刺す。

 ――たとえば仕事の息抜きで、煙草を吸いに。佐久間が顔を出してくれないだろうか。そんなことを考えている自分が、情けなくて惨めになる。


(……わたし、もう、なんにもなくなっちゃった……)

 

 今すぐにでも好きなひとに会いに行きたいのに、会いに行く理由がひとつもない。お菓子作りという唯一の武器がなくなってしまった胡桃に、丸腰で戦う術は何もないのだ。

 無力な胡桃はただただ寒さに震えながら、偶然に彼がベランダに出てくることを願っている。

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