24.絶望ミルクティー(3)

 最初は腫れていただけの人差し指は、時間が経つにつれてどんどん青黒く変色していった。水羽に連れられるがままに、会社近くの総合病院に行き、診察をしてもらうことになった。レントゲンを撮ったあと、指をギプスでガチガチに固められ、レントゲン写真を見せてもらいながら説明を受ける。


「……あー、ここが折れてますね。人差し指の基節骨骨折です」


 どうやら、右手の人差し指の第二関節と第三関節のあいだの骨が折れているらしい。レントゲンに映った胡桃の骨に、ヒビが入っているのが確認できた。人の良さそうな中年の医師は、あっけらかんとした口調で続ける。


「手術まではする必要ありませんが、しばらくは極力動かさないようにしてください。まあ、全治三ヶ月ぐらいですかね。お仕事は?」

「……事務職……デスクワークです」

「パソコンとか使いにくいでしょうけど、周りのひとにフォローしてもらってくださいね。力を入れる作業などもしないように」


 力を入れる作業、と言われてはっとした。青ざめた胡桃は、医師に向かって尋ねる。


「あ、あの……お菓子作りは」

「はい?」

「……硬いものを切ったり、ぐるぐるかき混ぜたり……そういうことも、したらダメですか?」

「もちろんダメですよ。とにかく、力を入れちゃダメです。最初に無理をすればそのぶん、治るのも遅くなるんですからね」


 聞き分けのない子どもに言い聞かせるような医師の言葉を、胡桃は絶望的な気持ちで聞いていた。お菓子作りは想像以上に力を使うし、それと同時に繊細な作業が求められる。利き手が使えない、なんてことは話にならない。


(……つまり、しばらくは……お菓子、作れないってこと……?)


 そのとき胡桃の頭に浮かんだのは、無愛想な隣人の顔だった。幸せそうにお菓子を頬張る佐久間の姿を思い出して、指の怪我以上に、胸の奥がズキズキと痛む。

 胡桃の作るお菓子をこよなく愛してくれる彼は、このことを知ったらがっかりするだろうか。……それとも胡桃のことなんて、すぐに忘れてしまうだろうか。


 病院から出たときには、もうどっぷりと日が暮れていた。スマートフォンを確認すると、栞から[怪我をしたと聞きました。大丈夫でしたか]というLINEが来ている。その文面を見ただけで、じわりと涙が滲みそうになる。

 返事をしようと思ったけれど、人差し指が使えないせいで、うまく文字が打ち込めなかった。モタモタしていると、ふいに名前を呼ばれる。


「糀谷さん!」


 声のした方を見ると、病院前にあるロータリーに一台の車が停まっていた。運転席から顔を出した水羽が、こちらに向かって手を振っている。どうやら一旦自宅に戻り、車を取ってきてくれたらしい。

 車から降りた水羽は、小走りで胡桃に駆け寄ってきた。ギプスでぐるぐる巻きにされた胡桃の指を見て、痛ましそうに眉を寄せる。


「糀谷さん、指……どうだった?」

「……折れてる、みたいです。しばらくは動かさないようにって……」

「……そっか。大変だったね。とりあえず、乗って。家まで送っていくよ」


 水羽が助手席の扉を開けてくれたので、胡桃は促されるがままに乗り込んだ。シートベルトを締めようとしたが、上手くいかない。右手の人差し指が使えないと、普段は普通にできていたことも一苦労だ。


「ちょっとごめんね」


 水羽が身を乗り出してきて、シートベルトをかちゃんと閉めてくれる。胡桃に向かって優しく微笑みかけてから、車を発進させた。

 ……思えば今日は、彼に迷惑をかけてばかりだ。怪我をしたときも、オロオロと動揺する胡桃の指をすぐに冷やしてくれて、そのまま病院に連れて来てくれた。胡桃はパニックになりそこまで頭が回らなかったが、課長や栞に連絡してくれたのも、きっと水羽なのだろう。


「……ごめんなさい。わざわざ迎えに来てくださって……」

「……いや、俺の方こそ。糀谷さんのそばにいたのに、怪我させちゃって……ごめん」

「そんな! 水羽主任は悪くないです」


 今回怪我をしたのは、単に胡桃がドジだっただけだ。水羽が責任を感じるようなことは少しもない。しかし水羽は苦しげに表情を歪めて、正面を睨みつけている。


「……でも俺、糀谷さんのこと守るって言ったのに」

「大丈夫ですよ。わたし、いつも水羽主任に助けられてます」

「右手使えないと、いろいろ困ること多いだろうけど……なんかあったら、遠慮せずに俺に頼ってくれてもいいから。仕事のことも、夏原さんに頼んで二課の方もフォローしてもらおう」

「……すみません。ありがとうございます……」


 明日からの仕事のことを考えて、胡桃の気持ちはどんよりと重く沈んでいく。そうでなくても、年度末の忙しい時期なのだ。これから栞たちにどれだけ負担をかけることになるのだろうか、と考えると、申し訳なさに死にたくなる。


 水羽の運転は、彼の性格を体現したかのように穏やかで優しいものだった。彼は途中でコンビニに寄って、胡桃のためにホットのミルクティーを買ってくれた。温かくて甘い液体が喉を通っておなかに落ちていくと、凍りついていた心がほんの少し溶かされた気がした。

 胡桃のマンションの前に到着するなり、すぐに車から降りて扉を開けてくれる。その動きのあまりの素早さに、胡桃は思わず笑ってしまった。


「ふふっ。水羽主任、執事さんみたいですね」

「そう? それではお手をどうぞ、お嬢さま」


 水羽が冗談めかして手を差し出してきたが、「指の怪我だから歩くのは問題ないです!」とさすがに断った。ミルクティーのペットボトルを左手で持って、車から降りると、水羽が後部座席から胡桃の荷物を取ってくれる。


「明日、会社来れそう?」

「大丈夫です! こんなので休んだら、冴島課長に嫌味言われちゃう」

「あはは。冴島課長も心配してたから、明日ちゃんと報告しておいた方がいいよ」

「はい……わかりました」

「じゃあ、またあし……た……」


 そこで水羽は胡桃の背後に視線をやって、何かに気付いたように「あっ」と声をあげた。何だろうと思って振り向くと、そこに立っていたのはコートを羽織った佐久間だった。


「さ、佐久間さん……」


 佐久間は胡桃に気付いたあと、ぐるぐる巻きになった人差し指に視線をやって、大きく目を見開く。それから般若のごとく怖い顔をして、ズカズカとこちらに歩み寄ってきた。


「……どうしたんだ、これは!」


 胡桃の右手を取ると、鋭い眼光でこちらを睨みつけてくる。あまりの勢いに、胡桃は反射的に「ごめんなさい」と謝ってしまった。


「……会社で脚立から落っこちて、右手の人差し指骨折しちゃって……」

「右手の、人差し指」


 胡桃の言葉を繰り返した佐久間が、はっと息を飲む。彼も、胡桃が右手を使えなくなることの意味に気がついたのだろうか。まるで自分が怪我をしたかのように、苦しげに眉を寄せている。


「あ、あの、佐久間さん。だから、しばらくは佐久間さんに、お菓子作れないんですけど……」

「……そうか……」


 佐久間は心底残念そうに言うと、胡桃から目を逸らすように下を向いてしまった。彼を失望させてしまったことが何より辛くて悲しくて、ぎゅっと心臓が握り潰されたかのように息が苦しくなる。


「ごめんなさい。僕がそばについていながら、胡桃さんに怪我をさせてしまいました」


 そのとき、水羽が佐久間に向かって頭を下げた。佐久間はそこでようやく水羽の存在に気付いたように、大きく目を見開く。そして、慌てたように胡桃の手を離した。


「……悪いが、俺はあんたに謝られる立場にない」

「え?」

「彼女が怪我をしたところで、俺には何の関係もない。俺は……彼女の愚痴を聞く代わりにお菓子を食べさせてもらっているだけの、ただの隣人だからな」


 佐久間の言葉は、鋭い刃となって胡桃の心臓を抉る。足元の地面がなくなったかのような感覚に陥り、一瞬目の前が真っ暗になった。

 たしかに胡桃と佐久間は、恋人でもなんでもないただの隣人だけれど――それでも、そう短くはない時間を通じて、それなりに浅からぬ関係を築いてきたつもりだった。


(もしかして、佐久間さんにとってはそうじゃなかったの……?)


 怪我をしようが関係ない、とあっさり言い切れるような――佐久間にとって胡桃は、しょせんその程度の存在だったということだ。お菓子を作ることしか求めていない、という彼の発言は、まさに言葉通りの意味だったのだ。


「……さくま、さん」


 胡桃が名前を呼んでも、こちらを見てさえくれない。胡桃から露骨に目を逸らし、渇いた声と平坦な口調で言い捨てた。


「せいぜい、早く怪我を治すことだな」


 佐久間はそう言って、一切の未練も見せずにスタスタ歩いていく。絶望的な気持ちでその背中を見送った胡桃の左手から、まだ中身の入ったミルクティーが滑り落ちて、コロコロと転がっていった。


「……糀谷さん?」


 ペットボトルを拾い上げた水羽が、心配そうに顔を覗き込んでくる。やっとのことで「だいじょうぶです」と絞り出した声は、どこからどう聞いてもちっとも大丈夫ではなかった。

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