23.絶望ミルクティー(2)

 ――俺は、きみにお菓子を作ってもらえれば、それでいいんだ。それ以上のことは、何も望んでいない。


 佐久間からの言葉に、しばらく打ちひしがれていた胡桃だったが、数日かけてようやく立ち直った。

 こんなことで簡単に諦められる程度の気持ちなら、最初からあんなに難易度の高そうな男に恋をしない。それに、胡桃自身への興味が微塵もなかったとしても、胡桃のお菓子が依然として彼を夢中にさせていることには変わりないのだ。


(お菓子さえあれば、佐久間さんはいつまでもわたしのそばに居てくれる)


 幼い頃から父に仕込まれたお菓子作りの腕だって、胡桃を構成する要素のひとつである。何を落ち込むことがあるのか、と胡桃は己を奮い立たせる。こうなったら、彼が胡桃から絶対に離れられないように、しっかり胃袋を掴んでやればいい。


(佐久間さんに喜んでもらえるように、もっともっと練習しなきゃ……! よし、今日は絶対残業せずに、お菓子作る! 香ばしくて甘くてほんのり塩のアクセントがある、キャラメルナッツタルト!)


 胡桃はそう決意して、むんと腕まくりをする。カタカタと勢いよくキーボードを叩いていると、隣の栞から「糀谷さん、ちょっといいかしら」と声をかけられた。胡桃は手を止めて、すぐに栞の方を向く。


「はい、なんでしょうか!」

「そろそろ年度末でしょう。ギリギリになって慌てないように、少しずつ今年度の書類を資料室に移動させようと思うのだけれど」

「たしかに、そうですね」

 

 会計資料や資材購入記録、在庫表や他社との取引記録などの保管が必要な資料については、年度末にまとめて資料室に格納している。一年間の書類の量はなかなか馬鹿にできない量で、去年の胡桃はヒーヒー言いながら段ボールを運んでいた。

 もうすぐ3月。今日は比較的業務量も落ち着いている。それでなくとも年度末はやることが多いのだから、できることは今のうちにやっておいた方が、のちのち楽だろう。


「4月の、古いやつから順番に運んじゃいましょう。二人でやったら、早く終わると思うわ」

「はい! じゃあ、わたしそっちの段ボールから……」

「あのう、夏原さん……お忙しいとこすみません。ちょっといいですか?」


 そのとき、営業一課の社員が、やや遠慮がちに栞に話しかけてきた。10月に中途入社してきたばかりの新人さんだ。営業一課のひとたちは、なんだかやけに栞を恐れているようにも見える。仕事中の栞は非常におっかないので、その気持ちはわからなくもない。胡桃もかつては、日々隣の先輩に怯えていたものだ。

 栞はクールに「何でしょうか」と言って、パソコンの前に座り直した。


「夏原先輩。わたし、総務課から台車借りてきますね」

「ごめんなさい。よろしくお願いします」


 総務課で台車を借りて戻ってきても、栞はまだ社員に捕まっていた。なんだか二人とも渋い顔をしているので、なかなか立て込んだ案件らしい。仕方ない、一人で運ぶことにしよう。

 胡桃は力を入れて、「よいしょっ」と段ボールを持ち上げた。そのままヨタヨタと台車に乗せる。紙の重さはあなどれないもので、段ボールにパンパンに詰まった書類はかなりの重量だった。段ボールはまだまだ残っているが、台車に全部乗るだろうか。

 そのとき突然伸びてきたワイシャツの腕が、段ボールをひょいと持ち上げた。顔を上げてみると、段ボールを抱えた水羽が爽やかな笑みを浮かべている。


「これ、どこに運ぶの?」

「あ、8階の資料室に……」

「手伝うよ。女の子一人じゃ大変でしょ」

「す、すみません。ありがとうございます」


 水羽は台車に段ボールを乗せると、残ったひとつは自分で両手で抱えた。胡桃は台車を押して営業部のフロアを出ると、エレベーターのボタンを押す。


「ごめんなさい。重いですよね」

「いや、全然大したことないよ」


 そう言った水羽は、強がりではなくて本当に余裕そうだ。今まで意識したことがなかったけれど、捲ったワイシャツの袖から覗く腕はなかなか筋肉質である。

 そういえば佐久間さんの腕も意外とがっしりしてたな、と思い出してこっそり赤面した。……抱きしめられたことも、キスをされそうになったことも、やはり到底忘れられそうにない。


「水羽主任、鍛えてるんですか? そういえば、ジム通ってるって言ってましたもんね」

「そうそう。こういうシチュエーションで糀谷さんに〝水羽主任、頼れる! 素敵!〟って思ってもらえるように鍛えてんの」


 水羽はそう言って、アハハと明るく笑った。

 べつに特別力持ちじゃなくても、彼はかなり頼り甲斐のある先輩だと思うのだが。ちょっとおせっかいなところはあるけれど、栞がミスをしたときのフォローも完璧だったし、飲み会のときも酔い潰れた胡桃をマンションまで送り届けてくれた。社内の女性たちが彼に夢中になるのもわかるなあ、と思う。


 会社の片隅にある8階の資料室は薄暗く、少し埃っぽい匂いがした。年度末のこの時期以外に、この場所に立ち入ることは滅多にない。

 それなりに広いスペースが確保されているのだが、あちこちに所狭しと資料が押し込められている。奥の方にある段ボールを発掘するのは困難だろう。あまりに古いものはもう捨ててしまった方がいいんじゃないかしら、と思いつつも、胡桃は見てみぬふりをしている。


「糀谷さん。これ、どこに置いたらいいのかな」

「どうしましょう……あ、あそこの上の段に置けそうですよ」


 下の方はほとんど埋まっていたが、ずらりと並んだスチールラックの三段目に、段ボールをいくつか置けそうなスペースがある。しかしこの高さだと、そのまま手を伸ばしても届きそうにない。キョロキョロと周囲を見回してちると、資料室の隅に脚立が置いてあるのを見つけた。ちょうどいい、使わせてもらおう。

 組み立てた脚立に上がると、ギシギシと軋むような音がする。まさかわたしが重いわけじゃないよね、と不安になってしまった。下にいる水羽が胡桃を見上げて、慌てた声を出す。


「あ、ちょっ、いや、いいよ。俺がやるから! 糀谷さんは、下から段ボール渡してくれる?」

「え、そうですか? じゃあ、お言葉に甘えて」


 胡桃が脚立から降りようと、一段下に足を乗せたところで――バキッという音とともに、胡桃は足を踏み外した。

 えっと思う間もなく、ぐらりとバランスを崩して、そのまま身体が傾く。床に接触する寸前に、反射的に右手をついた。その瞬間、バキッという嫌な音が頭の中に響く。ガシャン! と脚立が勢いよく胡桃の上に倒れてきた。


「糀谷さん!」


 水羽が悲鳴にも似た声をあげる。咄嗟に両腕で庇ったため、頭をぶつけることはなかった。状況が理解できず呆然としている胡桃に、水羽が駆け寄ってくる。


「大丈夫!? 怪我してない!?」


 胡桃の顔を覗き込む水羽の頬は色を失い、青ざめている。驚いてはいたものの、特に身体の痛みは感じなかったので、「ぜんぜん、大丈夫です」と笑ってみせる。


「大丈夫なら、いいけど……」

 

 ふいに水羽が胡桃の右手に視線をやって、はっと息を飲む。彼につられるように右手を確認すると、人差し指が異常なほどに腫れ上がっていた。それに気付いた瞬間に、脂汗が吹き出すほどの猛烈な痛みが襲ってくる。


「いっ、痛……」

「……糀谷さん、すぐ病院行こう! 立てる?」


 水羽の問いに、胡桃は痛みを堪えながらこくこく頷く。そのときの胡桃はまだ、(これ労災下りるのかしら)などと呑気なことを考えていた。

 ……自分のが使えなくなることの意味に、まだ気がついていなかったのだ。

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