22.絶望ミルクティー(1)
頬に触れる彼の手の熱が、いつまで経っても消えてくれない。
佐久間と別れ、部屋に戻った胡桃は、枕元にラナンキュラスの花を置いて、そのままへなへなとベッドに横たわった。まるで熱病に冒されたかのように頭がぼうっとして、心臓がドキドキとうるさい。胡桃、と低く囁く彼の声を思い出して、たまらず枕に顔を埋めた。
(……さ、さっきの……一体何だったんだろう)
胡桃の勘違いでなければ。佐久間は胡桃の名前を呼んで――キス、されそうになった気がする。インターホンが鳴るのがあと数秒遅ければ、彼の唇と胡桃の唇は重なっていただろう。
(も、もしかして、佐久間さんって……わ、わたしのこと好き、だったりする!?)
そんなことを考えて、胡桃は「キャーッ」と叫んでベッドの上でゴロゴロと転がった。突然降って湧いたような両想いの可能性に、胡桃の心はフワフワと浮き上がる。もしかしたら、このまま佐久間と付き合えるかもしれない。
しかし、しばらく悶えたところで、はたと我に返った。
(……いや、でも……これじゃあわたし、今までの恋と、何も変わらない……)
なんとなく流されるように、なし崩し的に関係が始まって。相手の気持ちもきちんと確かめないまま、弄ばれて捨てられて。そんな甘くない恋は、もう二度としたくない。
佐久間がそんな男性ではないと信じているけれど――世の中には、相手に気持ちがなくても
(次、会ったら……佐久間さんに、なんであんなことしたんですかって、確認しなきゃ)
胡桃はそう考えて、枕元にある淡いピンクの可憐な花を、チラリと横目で見やる。女性の扱い方なんて、少しもわかっていなさそうな佐久間が。胡桃のために、わざわざ可愛い花まで用意してくれた。
果たして、バレンタインチョコレートを持ってきたのが胡桃でなくとも――彼は、同じことをしたのだろうか。
(……彼の気持ちを確認して、それから……わたしは佐久間さんのことが好きです、って……告白しよう)
胡桃はそう決意して、ぱちんと両頬を叩く。冷たいてのひらに触れた頬は、彼の手の温度が伝染してしまったかのように熱かった。
――それから4日経った、土曜日の15時。
隣の部屋のインターホンを押す前に、胡桃は大きく息を吸い込んだ。ドッドッと高鳴る聞き分けのない心臓に向かって、お願いだからちょっと黙ってて、と言いたくなる。
悩んだ結果、胡桃はカヌレを作った。味はショコラと抹茶、レモンの三種類。以前、「五本の指に入るぐらい好き」と言っていたのを思い出したからだ。それほど短くはない付き合いの中で、佐久間はどうやらカヌレやフィナンシェ、パウンドケーキなどの焼き菓子が特に好きらしいことに気が付いた。
頑張りすぎない程度に髪も巻いたし、可愛いニットとスカートを履いてきた。何より胡桃にとってもっとも強い味方である、腕によりをかけて作った美味しいカヌレがついている。
(うん、大丈夫、よし、そこだ、いけ!)
しばし呼吸を整えていたが、胡桃はようやく覚悟を決めた。震える指で、えいっと勢いをつけてインターホンを押す。ややあって扉が開き、ボサボサ頭の覇気のない男が現れた。この時間帯の彼は、大抵寝起きである。
「……! ……ああ、きみか」
佐久間は胡桃(と、カヌレ)を見て、ぱっと表情を輝かせたようだったけれど、すぐに眉間に皺を寄せてしまう。渋い顔をしている隣人に向かって、胡桃はタッパーに入ったカヌレを差し出す。
「こっ、こんにちは佐久間さん! か、カヌレ作ったんですけど……!」
「……入ってくれ」
促されるがままに部屋に入り、ダイニングチェアに腰を下ろす。二人のあいだに漂う空気はなんともぎこちなく、気まずい沈黙が流れている。
佐久間が用意してくれた紅茶は、杏子と同じキームンのミルクティーだった。「ラム酒が香るカヌレには、やはりこれだな」というセリフまで同じで、なんだかおかしくなる。少し笑って、ようやく肩の力が抜けた。
告白は、カヌレを食べ終わったあとにしよう。もし胡桃が告白して振られてしまえば、きっともっと気まずい雰囲気になるだろう。せっかく作ったカヌレなのだから、佐久間と二人で楽しく食べたい。
「これはショコラでこっちが抹茶、それからレモンです! たぶん上手にできたはずなので、たくさん食べてください」
「……ああ、いただこう」
佐久間はフォークでカヌレを切り分け、美しい所作で口に運ぶ。胡桃の作ったものを食べた瞬間の、幸せそうにな顔が大好きだ。この顔が見られなくなるのは嫌だな、と胡桃は思う。もし振られてしまったとしても、彼は胡桃の作ったお菓子をずっと食べてくれるだろうか。
(……やっぱり、告白するのやめておこうかな……)
ティーカップを鼻先に近付けると、ふわりと花のような香りがする。焼きたてのカヌレは外側のガリガリ感も内側のしっとりモッチリ感も絶妙で、ショコラや抹茶のほろ苦さ、レモンの爽やかさも混じった、ほどよく上品な甘さがたまらない。
佐久間と過ごす、この幸せなひとときを手放してまで、恋人関係になる意味があるのだろうか。せっかく振り絞った勇気が、しなしなと萎れていく。
佐久間はいつものように、このうえなく美味しそうにカヌレを食べ終えた。彼が満足げに「ごちそうさま」と手を合わせる瞬間が、胡桃は何よりも好きだ。
「おそまつさまです。たくさん焼いたのに、もうなくなっちゃった」
「きみのカヌレが食べられて本当によかった。杏子が褒めるぐらいだからさぞ美味いのだろうとハードルが上がっていたんだが、期待に負けない味だった」
「よかったです! カヌレ、いろんなフレーバーがあっていいですよね。次は黒ゴマなんかもいいなあ」
そう答えながらも胡桃は落ち着かず、ティーカップを持ち上げたりソーサーに戻したりソワソワしていた。
あなたが好きです、と切り出すべきなのだろうか。いっそ、何も言わない方がいいのか。気持ちを決めきれず、時間ばかりが過ぎていく。
しばらくすると、佐久間は落ち着きなく人差し指でテーブルをトントン叩き始めた。どうしたんだろうかと思っていると、やや言いにくそうに「その」と口を開く。
「……このあいだの……ことなんだが」
「このあいだ?」
「……バレンタインの、日のことだ」
佐久間の言葉に、胡桃の心臓はドキリと跳ねる。確認するまでもなく、キスしそうになったことを言っているのだろう。「はい」と答えた声は、期待とも畏れともつかない感情で震えていた。
しばし口ごもっていた佐久間は、やがて胡桃に向かって、深々と頭を下げた。
「……本当に、すまなかった」
「……え?」
予想外の謝罪に、胡桃は弾かれたように顔を上げた。佐久間はテーブルに額を擦りつけそうな勢いで頭を下げたまま、真剣な声色で続ける。
「あのときの俺は、どうかしていた。すまないが、なかったことにして全部忘れてくれ」
「なかった、ことに……」
(……そんなの、無理です……)
なかったことになんて、できるはずがない。あれからずっと、あのときのことを反芻しているのに。頬に触れた熱い手も、名前を呼ぶ声も。間近で震える、意外と長い睫毛も。胡桃の記憶に染みついたまま、どうしたって消えてくれない。
ようやく顔を上げた佐久間は、なんだか苦しそうに表情を歪めて、まるで喉に刺さった棘を吐き出すかのように、一言一言を紡いでいく。
「きみに好きな男がいることはわかっているし、どうこうしようなんてつもりは毛頭ない。あんなことをしておいて、ムシの良い話だが……これからも、俺にお菓子を作ってくれないか」
「……」
「俺は、きみにお菓子を作ってもらえれば、それでいいんだ。それ以上のことは、何も望んでいない」
どこか必死ささえ滲ませながら、佐久間は言う。胡桃は俯いて、ミルクティーの水面をじっと見つめている。僅かに波打っているのは、きっと胡桃の手が震えているせいだろう。
(……ばかみたい。佐久間さんが好きなのは、
佐久間が好きなのは胡桃自身ではなく、胡桃の作るお菓子だ。最初からずっと、そうだったではないか。彼はずっと、胡桃の
マカロナージュに失敗したマカロンみたいに、ぴきぴきとひび割れた恋心が、ぱきんと音を立てて割れる。胡桃が心をこめて作ったピンクのハートは、ついぞ彼には届かなかった。
「……もちろんです、佐久間さん」
ようやく顔を上げた胡桃は、口角を無理やり持ち上げて、ニコリとぎこちなく微笑んだ。あまり上手な笑い方ではなかったけれど、きっと佐久間は不自然には思わなかっただろう。
ひりひりという胸の痛みを押し隠して、胡桃はティーカップをカップをぎゅっと握りしめる。すっかり冷めてしまったミルクティーは、冷え切った胡桃の指を温めてはくれなかった。
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