21.臆病者のカカオトリュフ

 ダイニングテーブルに残された痕跡を見て、大和はおおいに頭を抱えてしまった。推しカップルの甘い甘いバレンタインデーを邪魔してしまうなど、大失態である。筑波嶺大和、永遠の不覚。


「あちゃー……佐久間先生、ほんとにすみません……僕、切腹します」

「……いや。むしろ、きみが来てくれて助かった。危ないところだった」


 佐久間はそう言って、ダイニングチェアに腰を下ろす。それから、「俺は死んだ方がいい……」と唸って、ずるずるとテーブルの上に突っ伏してしまった。


「……筑波嶺くん。頼むから、今すぐ俺のことを、きみが考えうる限りもっとも凄惨な方法で殺してくれ……」

「何言ってんですか。凄惨な殺し方なら、僕より先生の方が詳しいでしょ」


 そんな軽口を返したが、佐久間からの返答はなかった。

 先ほどの二人の表情を見る限り、おそらく大和が来るまでのあいだに「何か」があったのだろうな、というのは容易に想像できた。佐久間の口ぶりから予想するに、ギリギリのところで大和の邪魔が入った、ということだろうか。茹で蛸のように真っ赤になっていた胡桃の顔を思い出して、僕のことなんか無視して最後までやっちゃえばよかったのに、と大和は歯噛みする。


「……筑波嶺くん。きみ、バレンタインデーは好きか」


 佐久間がテーブルに顔を伏せたまま、唐突に問いかけてくる。大和はややふてくされつつ、正直に答えた。

 

「べつに、好きでも嫌いでもないです」


 モテない男の大半は、おそらくそうだと思う。女子と関わることなどほぼなかった学生時代には、バレンタインデーの甘酸っぱい思い出など少しもない。大人になった今は、義理チョコのお返しが面倒だな、という感情を抱くぐらいだ。


「俺は、物心ついた頃……バレンタインという行事を初めて知ったとき……タダでチョコレートが貰えるなんて素晴らしい行事があるものだな、と思った」

「はあ。それは単純な……」

「しかし俺はただの一度も、女性からチョコレートを貰ったことがない」

「へー、ちょっと意外ですね。先生、黙ってたら普通にモテそうなのに」

「モテるわけないだろう。もし俺が女だったら、俺のような男は絶対に選ばない」


 佐久間はきっぱりと答えた。こういうことに関して、彼は自己評価がやや低めだ。普段は謎の自信に満ち溢れているくせに、不思議である。


「それに伯母も杏子も、義理チョコを用意するぐらいなら自分で食べる、というタイプだったからな」

「家族チョコほど虚しいモンもないっすけどね」

「……俺もべつに、それでいいと思ってたんだ。自分で自分好みのチョコレートを買った方が、よほど理にかなっている。でも」


 そこで言葉を切った佐久間は、テーブルに頭を伏せたまま、ぐしゃぐしゃと両手で頭を掻きむしった。


「……自分のために。バレンタインのチョコレートを用意してもらえることが……こんなに嬉しいなんて、知らなかった」


 どうやらお隣さんが用意したチョコレートは、甘党男の心臓のど真ん中を見事に射止めてしまったらしい。胡桃さんお見事です、と大和は心の中で愛らしい隣人に拍手を送る。


「……俺はもう、駄目だ。どんどん、歯止めが効かなくなっている……なんなんだ、浮かれて花まで買って。ガラじゃなさすぎるだろう」


 それを聞いた大和は、我慢できずに吹き出してしまった。大和に対しては不遜で傍若無人極まりない担当作家が、可愛いお隣さんのためにいそいそと花を買いに行くところを、是非ともこの目で見てみたかった。

 もしバレンタインのチョコレートを用意してくれたのが、糀谷胡桃ではない他の女性だったら――佐久間の心をここまで動かしただろうか、と思う。かつては「甘いお菓子を持ってきてくれるなら、指名手配犯でも部屋に招き入れる」と言っていた佐久間だが、もし指名手配犯がバレンタインチョコを持ってきたとしても、花は用意しないだろう。絶対。

 

「それ、我慢する意味あるんですか。いい加減に観念して、胡桃さんに告白したらどうですか?」


 大和は頬杖をついて言った。もう充分にじれじれラブコメは楽しませてもらったし、そろそろ次のタームに進んでもいい頃だろう。砂糖を吐きたくなるような、イチャイチャラブコメも結構好きだ。

 勢いよく顔を上げた佐久間は、「できるわけがないだろう!」と声を荒げた。

 

「……そ、そもそも! 俺はべつに、彼女にそういう感情は抱いていない!」


 どうやらこの男、まだ自分の感情を認めていないらしい。認めた方が楽になれるだろうに、ずいぶんと頑固なことだ。


「それに、彼女には他に好きな男がいるんだぞ。煩わしいからバレンタインチョコはいらない、などとのたまう、いけすかない男らしいが……」

「へー、そうなんすか。ろくでもない男なら、先生が奪っちゃえばいいんですよ。〝俺じゃダメか?〟ってやつです」


 そう口にしたあとで、むしろそのセリフは負けフラグだな、と大和は後悔した。ヒロインに横恋慕する当て馬男が、「あんな奴のこと忘れて、俺にしとけよ」などと言い出した日には、マジでフラれる5秒前である。


「……いや。どうやら、そこまでろくでもない男ではなさそうなんだ。俺は一度顔を合わせたことがあるが、なかなか爽やかな男前で……おそらく真剣に、彼女のことが好きだと言っている」

「え!? どういうことですか、それ!」


 どうやら大和の知らぬ間に、佐久間は当て馬男と邂逅していたらしい。くそっ、なんだその修羅場見たかった。とりあえず、相関図を整理する時間が欲しい。


「宣戦布告されたなら、やり返しましょうよ。〝俺の女に手を出すな〟みたいな感じで」

「無茶なことを言うな!」


 前のめりではしゃぐ大和に向かって、佐久間はびしりと人差し指を突きつけてきた。

 

「……もし! 俺が! 万が一! 百歩譲って! 彼女に、その……そういう感情を抱いているとして!」

「はい」

「……彼女に拒絶された場合、どうなるんだ」


 佐久間は苦しげにそう言って、ぐしゃりと前髪を握りしめた。大和は「へ?」と瞬きをする。


「彼女が無防備に俺のところに来て、笑顔でお菓子を振る舞ってくれるのは。俺が、彼女の作ったお菓子にしか興味がないと思われているからだ」

「……そう、ですかねえ?」

「もし、もしもだぞ。俺が……彼女を弄んできた碌でもない男たちと、同じような欲を抱いていると知ったら……彼女はきっともう、ここへは来ないだろう」

「……」

「そうなったら俺は、彼女の作ったお菓子を二度と食べられなくなるんだぞ。そんなのは、絶対にごめんだ」


(お菓子が食べられなくなるのが嫌、って……ほんとにそれだけなんですか?)


 彼女がここへ来なくなることは、おそらく佐久間にとって、身を切られるほど辛いことなのだろう。それは糀谷胡桃が――彼女の作ったお菓子も含めて――佐久間にとって、とてつもなく大切な存在だということである。


「じゃあもし、胡桃さんがその男と付き合い始めたらどうするんですか」

「……なんとか頼み込んで、お菓子を作り続けてもらうしかないだろう」

「先生は、それでいいんですか?」

「……彼女の好きな男が、彼女のことを好いているマトモな男ならば。俺が邪魔をする必要など、これっぽっちもない」


 口ではそう言いながらも、納得しているようにはちっとも見えなかった。不機嫌そうに口元を歪めて、トントンと忙しなく人差し指でテーブルを叩いている。

 大和は「そうですか」とへらっと笑って、テーブルの上に残されたトリュフを指差した。


「……ところで佐久間先生。そのトリュフ、美味しそうですね。僕も食べてもいいですか?」

「絶対に駄目だ。……これは、作ったものだからな」


 佐久間はギロリとこちらを睨みつけて、タッパーに山盛りのトリュフをモグモグと食べ始める。

 わかりやすい態度に、大和は呆れてしまった。彼女からのバレンタインチョコさえ一口も食べさせたくないくせに、彼女が他の男と付き合うことに我慢できるはずがない。


(……あんたが花まで用意するほど浮かれたのは、が、自分のためにバレンタインチョコを用意してくれたからですよ)


「さっさと観念した方が、楽なんじゃないですかねえ」


 そんな大和の溜息など聞こえないふりで、佐久間はココアパウダーに包まれたトリュフをまたひとつ頬張った。

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