20.フォンダンショコラより甘い(2)

 佐久間の胃袋には果てがなくとも、用意できる材料と時間には限りがある。本当はあれもこれも作りたいところだったが、胡桃は悩みに悩んだ挙句、佐久間の希望も加味したうえで、フォンダンショコラとトリュフを作ることにした。


 2月14日の夜。今日ばかりは絶対に残業するまいという気迫が伝わったのか、ギリギリで仕事が舞い込んでくることもなく、胡桃は定時ぴったりに退社した。帰り際に水羽が何か言いたげにしていたが、「すみません! また明日にしてください!」と頭を下げて振り切ってきた。

 帰宅するなり、胡桃は早速エプロンを身につける。甘党男の舌を満足させる、とびきり甘いフォンダンショコラ作りの始まりだ。


 バターとチョコレートと生クリームを、湯煎にかけてしっかり溶かす。湯煎から外すと、卵とグラニュー糖を加えて混ぜる。ふるった薄力粉とココアパウダーを入れて、生地が均一になるまで混ぜる。

 オーブン皿にクッキングシートを敷いて、セルクル型を置く。半分ぐらいまで生地を流し入れたところで登場するのは、昨日のうちに冷凍しておいたラズベリー入りのガナッシュだ。その上から残りの生地を流し込み、180℃のオーブンで15分焼く。焼き上がったらセルクルから外して、粉雪のような粉糖を振りかけたら完成だ。

 崩れないように慎重にお皿に乗せて、傍にラズベリーを添えてみた。甘いガナッシュとともに胡桃の恋心がたっぷりと詰まったフォンダンショコラは、どこからどう見ても本命チョコの顔をしている。


 冷めてしまわないうちに、昨夜作ったトリュフとともに、胡桃は急いで佐久間の元へと向かった。インターホンを押すと、すぐに扉が開いて佐久間が顔を出す。

 驚くべきことに彼は、いつもの「おうちモード」のスウェットではなく、オフホワイトのパーカーにデニムを合わせていた。おでかけとおうちの中間のような格好だ。髪もきちんと整えられている。


「こんばんは、佐久間さん。どこか行ってたんですか?」

「……入ってくれ」


 佐久間は胡桃の質問には答えず、やけに緊張した面持ちで迎え入れてくれた。締切間際はやや荒れていた彼の部屋だが、今は綺麗に片付いており、あちこちピカピカに磨き上げられているようだった。ダイニングテーブルの上にはピンク色の花まで飾られている。


「わ、可愛い! どうしたんですか、これ?」

「……花屋で買ってきた。ラナンキュラスという花らしい」

「へえ。いいですねー。部屋にお花を飾ると、ぐっと華やかになりますね!」

「……」


 佐久間は黙ってキッチンに立ち、紅茶を淹れている。胡桃はそのあいだに、ラナンキュラスの花と一緒にフォンダンショコラを写真におさめた。やはり小物があると写真映えが違うなあ、と惚れ惚れする。


「今日の紅茶は、ダージリンとアッサムのブレンドだ。チョコレートの甘さに負けないほどよいコクがあり、カカオとの相性も良い」


 佐久間はそう言って胡桃の前にティーカップを置くと、いつものように正面に腰を下ろした。


「これがメインのフォンダンショコラで、こっちがついでに作ったトリュフです! フォンダンショコラは冷めちゃう前にどうぞ!」

「……ああ。いただきます」


 両手を合わせた佐久間は、フォンダンショコラに慎重にナイフを入れる。生地が割れた瞬間に、中からとろりと柔らかなガナッシュが溢れ出してきた。佐久間は、ほうっと恍惚の溜息をつく。


「……フォンダンショコラからガナッシュが溢れ出してくる瞬間は、人生で三本の指に入るぐらい幸せな瞬間だな」

「ね、テンション上がりますよね! 成功してよかったです」


 佐久間は生地に柔らかなガナッシュを絡め、口に運ぶ。いつものように褒めてもらえるのかとワクワクしていると、佐久間はそのまま黙って下を向いてしまった。


(え!? も、もしかして、失敗した!? ぜ、絶対美味しくできたと思ったんだけど……)


 いつもとは違う佐久間の反応に、胡桃は慌てる。オロオロと立ち上がって、彼の隣へと駆け寄った。


「ご、ごめんなさい。美味しくなかった?」

「……いや、違う。死ぬほど美味い」

「あ、よかった……」

「中にラズベリーが入っているのか……甘さだけではない大人の味わいが感じられるな。前々から思っていたが、きみの作るガナッシュの柔らかな口当たりは天才的だ……」


 いつも以上に感極まった様子で、佐久間が感想を述べてくれる。安堵した胡桃は、ここぞとばかりに彼の隣に腰を下ろした。向かい合って座るよりも、隣に座った方が距離が近くて嬉しいし、胡桃は彼の横顔のラインが好きなのだ。

 幸せそうにフォンダンショコラを噛み締めている男の表情を、胡桃はうっとりと眺めている。やはりこの顔は、何度見てもいいものだ。


「ねえ佐久間さん。美味しい?」

「……ああ。きみはやはり凄いな」

「うふふ。もっと褒めて。頑張って作った甲斐がありました」


 胡桃は頬杖をついて、ニコニコと彼の顔を覗き込む。フォンダンショコラを綺麗に完食した佐久間は、「ごちそうさま」と手を合わせたあと、チラリとこちらに視線を向ける。それから、やや言いにくそうに切り出した。


「……先輩には。何を作ったんだ」

「え?」

「バレンタイン。例の先輩にも、渡したんだろう」


 先輩、というと。もしかすると、栞のことを言っているのだろうか。どうしてここで栞の話が出てくるのが不思議だったが、胡桃は素直に答える。

  

「いえ、渡してませんよ。渡そうと思ったんだけど、煩わしいからいらないって言われちゃって」

「はぁ!? ……なんなんだ、それは……」


 佐久間は怒ったようにそう言って、ぐしゃりと前髪を握りしめる。彼のような人間にとっては、タダでお菓子を貰える機会をふいにする人間が存在することが理解できないのかもしれない。


「……その、なんだ。気にすることはない。きみのフォンダンショコラを食べる機会を逃した、そいつが愚かなだけだ」


 やけに気遣わしげに、まるで胡桃を慰めるような口調で、佐久間は言う。胡桃はふるふると首を横に振った。

 

「いえ、全然気にしてないですよ。佐久間さんに食べてもらえたから、それでいいです」

「……そう、なのか?」

「今年、会社への義理チョコもやめたから、佐久間さんにしか渡してないんですよ。だから佐久間さんのためだけに、心を込めて作りました!」


 勢いでそう言ってしまったあとで、これではまるで告白ではないか、と恥ずかしくなる。それでも飛び出した言葉を口に戻して飲み込むことなど、できるはずもない。


(さすがに、バレたかな……いやもう、仕方ないか……)


「……」

 

 佐久間はしばらく黙り込んでいたが、やがてぎこちなく動き出した。テーブルの上に置いてある花を手に取って、胡桃にぎくしゃくと差し出してくる。


「……え?」

「……海外では、バレンタインに男女問わず親しい人間に花を贈る風習があるらしい。べつに、おかしいことではないだろう」

「ん? 話がよく見えてこないんですけど……」


 胡桃が首を傾げていると、佐久間の指が伸びてきて、パチン、と胡桃の額を弾いた。こちらを見つめる男の顔は、見たことがないぐらいに真っ赤になっている。


「……どうしてきみはそう、察しが悪いんだ」


 そこでさすがに、胡桃は気付いた。この花は、おそらく――佐久間が胡桃のために用意した、バレンタインの贈り物なのだ。


「……えっ、えー!? こ、これ、佐久間さんが、わたしに!?」

「……きみ以外の、他に誰がいる」

「ご、ごめんなさいわたし、てっきりお部屋のインテリアかと……」


 胡桃はおそるおそる手を伸ばして、差し出された花を受け取る。小さな箱に入ったラナンキュラスの花束は、淡いピンク色でとびきり可愛らしい。この無愛想な男は、いったいどんな顔で花屋に行って、この花を選んだのだろうか。そんな想像をして、胡桃の胸のうちに愛おしさが溢れてくる。


(ああ、好きだなあ……)


 こんなことをされてしまうと、どんどん気持ちが膨れ上がってしまう。チョコレートケーキの中に閉じ込められたガナッシュのように――胡桃の内側に秘められた恋心も、彼がナイフを入れる瞬間を、今か今かと待っているのだ。


「……嬉しい。ありがとうございます」

「……べつに、大したものじゃない」

「……わたし。来年も……再来年も! 佐久間さんのためにバレンタイン作ってもいいですか? あ、バレンタインに限った話じゃないんですけど……」


 手渡された花束を、両手で大事に抱える。ドキドキと高鳴る心臓を必死で押さえて、声が震えてしまわないようにお腹に力を入れて。目の前にいる、大好きなひとから目を逸らさないように、必死で想いを紡いでいく。

 

「わたし、佐久間さんに自分の作ったお菓子を食べてもらうのが、好きなんです。だから、これからもずっと、食べてもらいたい……」

「……」


 佐久間は何も言わない。眉間に皺を寄せたまま、なんだか何かに耐えるような、苦しげな表情でこちらを見つめている。こんなに告白まがいのことを言っているというのに、彼にはちっとも響かないのだ。


(……この反応は、やっぱり……脈ないよね)


 二人のあいだに横たわる沈黙が恐ろしくなった胡桃は、誤魔化すように声を張り上げた。

 

「……だから、えっと……ら、来年は! チョコブラウニーなんてどうでしょうか!? クルミがいっぱい入ったやつ!」

「胡桃」

「はい、そうです! クルミです」


 そのときふいに、佐久間が右手を伸ばしてきた。繊細な細い指が胡桃の頬に触れて、頬にかかった髪を優しく耳に掛けてくれる。


「……胡桃」


 まるで宝物の名前でも呼ぶような声色で、佐久間は繰り返す。胡桃は反射的に「はい」と答えていた。何故ならそれが、26年間連れ添ってきた自分の名前だったから。

 頬に触れる手は驚くほどに熱い。熱のこもった瞳に見つめられるうちに、胡桃の頬の温度もどんどん高まっていく。まっすぐな視線に射抜かれた胡桃は、その場から少しも動けずにいる。

 そのまま佐久間の顔が、ゆっくりと近付いてきて――胡桃は流れに抗わず、瞼を下ろして目を閉じた。


 ――……ピンポーン


 部屋にインターホンの音が鳴り響いて、胡桃はパチッと目を開けた。眼前にある佐久間の瞳が、我に返ったように大きく見開かれる。彼はあからさまに狼狽して、弾かれたように立ち上がった。


「……っ、つ、筑波嶺くんか!」

「へ!? あ、ああ……そうですかね……」

「す、すまない、きょ、今日はもう帰ってくれるか。きみのフォンダンショコラ、本当に美味かった。ありがとう。あとでトリュフもいただこう」

「えっ、あ、は、はい」


 戸惑う胡桃の腕を掴んで、佐久間はやや強引に胡桃を玄関まで連れて行く。扉を開けると、予想通り筑波嶺大和が立っていた。


「あっ、こんばん……は……」


 大和は揃って真っ赤になっている胡桃と佐久間の顔を見て、「やってしまった」とばかりに顔を歪めた。それから打ちひしがれたように頭を抱えて、その場に蹲ってしまう。


「……も、もしかして今日、バレンタインでしたっけ!? うわー、縁なさすぎて忘れてた! 僕のバカ!」


 さっきまでのムードを見事にぶち壊す、大和の悲痛な叫び声が響く。胡桃はラナンキュラスの花を胸にぎゅっと抱えたまま俯いて、先ほどの行為の意味を佐久間に問いただせずにいた。

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