19.フォンダンショコラより甘い(1)
年始の慌ただしさに追われているうちに、あっというまに1月が終わり、2月になった。バレンタインデーを二週間後に控え、胡桃の心はウキウキと弾んでいる。
「バレンタイン、何作ろう……やっぱり定番のガトーショコラ……でも、ブラウニーもいいなあ……あっ、生チョコタルトも捨て難い……うーん、もういっそ全部作っちゃおうかなあ」
あれやこれやと甘い想像を巡らせていると、胡桃の隣でサンドイッチを食べていた栞が、呆れたように肩をすくめる。
「……楽しそうで何よりだけれど、そんなにたくさん作ってどうするの。食べ切れないでしょう」
それは余計な心配である。どれだけたくさん作ったとしても、胡桃の好きなひと――筋金入りの甘党男は、残さず全部平らげてくれるに違いないのだ。
昼休み。胡桃は栞と二人、公園で昼ごはんを食べていた。真冬に屋外でランチをするのは狂気の沙汰だけれど、会社の中に居場所がないのだから仕方がない。毎日一人で震えながら昼休みを過ごしている胡桃を見かねてか、今日は珍しく栞が付き合ってくれたのだ。
弁当を食べ終えた胡桃は、保温式のボトルに入った温かなほうじ茶を飲む。身体の内側からほっこりと暖かくなり、胡桃はほうっと白い息を吐いた。
先週までの厳しい寒さはやや和らぎ、弱々しくも柔らかな太陽の光が、雲間を縫って優しく降り注いでいる。隣には大好きな栞もいるし、針の筵のような会社の食堂で過ごすよりも、ずっと居心地の良い昼休みだ。
「そういえば夏原先輩、営業課のひとたちへのバレンタインどうします? 一緒にやりますか?」
「いいえ。私、バレンタインの義理チョコは一切やらないことにしているから」
きっぱりと答えた栞に、胡桃は目を丸くする。
「えっ、そうなんですか!? 去年も何もしてないの!?」
「はい。特にうちの課は女性社員に対して男性社員の比率が多すぎるし、こちらの負担が大きすぎるでしょう。向こうもお返しが面倒でしょうし」
「そ、そうなんだ……」
衝撃の事実に、胡桃はひっそりとショックを受けた。会社のひとたちに義理チョコを渡さないという発想は、胡桃にはなかったものだ。去年は営業二課の面々にチョコレートを用意して、ホワイトデーのお返しには「みんなから」と言ってマカロンを貰った。めったに食べられない高級マカロンを手に、ホクホク顔で帰宅した記憶がある。
デパートの催事場に出向いて、あれこれと義理チョコを選ぶのも楽しいけれど、栞の言う通り金銭的な負担は決して小さくない。お互いに妙な気を遣うぐらいなら、いっそ廃止にした方が楽なのかもしれない。
「そっかあ……じゃあわたしも、今年は会社のひとに配るのはやめておこうかな」
「そうね。水羽主任は残念がるだろうけど」
「え、水羽主任ってそんなに甘いもの好きなんですか?」
「……」
栞は呆れたような、どこか憐れむような目でこちらを見ている。やれやれと首を振って「……水羽主任に同情します」と溜息をついた。先日酔い潰れた際のお詫びも含めて、水羽には何か渡した方がいいだろうか。
「そんなことより夏原先輩、友チョコもやらない派ですか? わたし、夏原先輩にも渡したかったのに」
「遠慮しておきます。いくら相手があなたとはいえ、義理チョコのやりとりは煩わしいわ」
それなら本命チョコを渡すお相手はいるのかしら、と思ったけれど、訊ける空気ではなかったので諦めた。以前よりはずいぶん親しくなった今でも、夏原栞のプライベートは神秘のベールに包まれている。
「じゃあわたしも、今年は本命だけにしておきます」
「……あら、やっぱり本命がいるのね。前に言っていた、甘党で紅茶に詳しいお隣さんでしょう」
ずばりと言い当てられて、胡桃は頬を染めて「はい」と頷く。どうやら恋愛感情を自覚する前から、胡桃の佐久間への気持ちはダダ漏れだったらしい。
栞はホットの缶コーヒーを飲みながら、なにか微笑ましいものでも見るように、僅かに目を細めた。
「本命がいるなら、なおさら他のひとに渡すのはやめておきなさい。あなたはただでさえ軽率な言動が目立つのだから、誤解を与えるようなことはしない方がいいわ」
「……そ、そうですね」
たしかに今の胡桃の会社内での立場は危ういものだし、また梢絵たちに「男に色目を使っている」などと思われるのはまっぴらごめんだ。おとなしく、佐久間への本命チョコレートのみに全力を注ぐことにしよう。
仕事を終えた胡桃は、会社近くにある本屋に寄って、バレンタインのお菓子のレシピ本を購入した。季節柄かお菓子のレシピ本のコーナーには、簡単なものから本格的なものまで、ありとあらゆる手作りチョコレートの本が並んでいた。胡桃が作るお菓子のレシピの多くは、父から教わったものだけれど、こうして市販の本を参考にすることもある。
最寄り駅からマンションへの道を軽やかな足取りで歩いていると、少し前を歩く男の姿に気付いた。ウールコートにベージュのマフラーを巻いて、頭の後ろの髪がぴょこんと跳ねている。やや猫背気味に背中を丸めた彼の正体に気付いた瞬間、胡桃は勢いよく走り出していた。
「さーくまさん!」
「うわっ」
両手でぽんと背中を叩くと、佐久間はびくっと身体を揺らす。首を回して振り向くと、「……きみか。驚かせるな」と眉を寄せた。
「佐久間さん、おでかけですか? どこ行ってたんです……か……」
そこで胡桃は、佐久間が手にした荷物に気がついて、ぎょっとした。
彼が持っている紙袋の中には、可愛らしくラッピングされた箱が大量に入っていた。ブランドロゴを見るだけでわかる、どれもこれも超有名な高級ショコラブランドである。
(も、もしかして……ば、バレンタインのチョコレート!?)
もしかすると佐久間は、胡桃の知らないところで、こんなにたくさんの女性からバレンタインチョコを貰ったのだろうか。
胡桃がショックで言葉を失っていると、佐久間は「ああ、これか」と紙袋を持ち上げた。彼はいつも仏頂面だけれど、隠しきれない喜びが口元の緩みに現れている。
「バレンタインは良いな。俺は一年のうちで、この時期が一番好きだ」
「……ふぅん。ずいぶん、おモテになるんですね」
ついつい、拗ねたような声が出てしまった。これならわたしのチョコはいらないんじゃないかしら、と内心ふてくされる。我ながら大人気ないなと思っていると、佐久間が呆れたように言った。
「何を言ってるんだ、きみは。これは全部自分で買ったものだぞ」
「……え?」
「あちこちのデパートの催事場を回って買ってきた。行くのが遅くて、目当てのものはいくつか売り切れていたがな。明日は朝一番で行くことにする」
佐久間はうっとりとした様子で、紙袋にパンパンに詰まったチョコレートたちを見つめている。
「はあ、本当に素晴らしいな……世界の名だたるショコラティエが技術の粋を尽くして作ったチョコレートが一堂に会するんだぞ。そんな場所は、この時期の日本以外にあるまい。お祭り好きの国民性に感謝だ」
どうやら佐久間は、自分のためのチョコレートを自分で購入したらしい。単純な胡桃は、誤解が解けて露骨にご機嫌になってしまった。
「……なーんだ! そうだったんですね!」
ニコニコの胡桃を見て、佐久間は「何がそんなに嬉しいんだ」と怪訝そうにしている。
マンションに到着して、一緒にエレベーターに乗って部屋の前まできたところで、佐久間が胡桃を「待て」と呼び止めた。
「……今から戦利品を食べようと思っているんだが……きみも一緒に食うか」
「え!? いいんですか!」
「仕方ないから、きみの好きなものをひとつやろう」
高級チョコレートが食べられるのも嬉しいし、佐久間と一緒に居られることも嬉しい。胡桃はウキウキと「お邪魔しまーす」と彼の部屋に入る。
佐久間が紅茶を淹れているあいだに、さっそく戦利品を物色させていただくことにした。さすがスイーツオタクのチョイスということもあり、どれもこれもセンスが良い。
「うーん……どれも素敵で決められない……全部食べたいです」
「気持ちはわかるぞ。ああいう場所に行くと、金がいくらあっても足りないな」
胡桃はさんざん苦悩したあげく、めったに日本に出店されないフランスの老舗ブランドのチョコレートを選んだ。
いそいそとリボンを解いて箱を開くと、まるで宝石のようにツヤツヤと輝くチョコレートが現れた。形は至ってシンプルな正方形で、上品な金箔が控えめに乗っている。派手な飾りつけはなく、中身で勝負してますが何か? という堂々たる風格がある。
「ウバティーだ。そんじょそこらのチョコレートだとウバのややクセのある風味に負けてしまうが、問題ないだろう。むしろ、相乗効果で互いの風味を高め合えるはずだ」
佐久間はそう言って、胡桃の前にティーカップを置く。胡桃は早速「いただきます!」と手を合わせて、チョコレートに齧りついた。カカオの味をしっかり感じられる幸せな甘さが、口いっぱいに広がっていく。
「はあ……幸せの味がする……」
「カカオの酸味や苦味を生かしたややビターな味わいで、重厚感のあるチョコレートだな。厳選された素材の旨みがある」
佐久間の言う通り、ストレートのウバティーとの相性も良い。たった一粒でこんなに幸せな気持ちになれるのだから、チョコレートは偉大なる食べ物だ。
それにしても佐久間は、バレンタインを前にしてずいぶんとはしゃいでいるらしい。この様子だと、あちこちのパティスリーを回ってチョコレートを買い占めるのだろう。素人である胡桃の出る幕などないのかもしれない。いやしかし負けてたまるか、と胡桃は勇気を出して切り出した。
「あの、佐久間さん! バレンタインは何が食べたいですか?」
「え?」
「今日、レシピ本も買ってきたんです! ガトーショコラがいいかなって思ってたんですけど……あ、ショコラテリーヌに挑戦するのもアリかも。リクエストがあれば、何でも言ってください!」
胡桃はそう言って、購入したレシピ本を開いて見せる。佐久間はぽかんと口を開けて、間抜けな顔でこちらを見つめていた。
「? 佐久間さん、どうしたんですか」
「……きみは、まさか……その……俺に。……バレンタインチョコレートを、くれるつもりなのか」
佐久間はやけに狼狽したように、しどろもどろになっている。この様子だと、胡桃が佐久間のためにバレンタインチョコレートを作ることを、まったく想定していなかったのだろうか。
(……も、もしかして……迷惑、かな)
すうっと指先が冷たくなるのを感じた。彼にしてみれば、余計な意味のこもったお菓子など、貰っても煩わしいだけかもしれない。こんなレシピ本まで買ってきて、重いと思われるのではないか。胡桃は不安を滲ませながら、おずおずと尋ねる。
「……もしかして、いらなかった?」
「そ、そんなこと、あるはずがないだろう!」
佐久間は慌てた様子で立ち上がる。あまりに勢いがあったので、テーブルが揺れて琥珀色の紅茶が僅かに波打った。驚いた胡桃がやや身を引くと、佐久間はハッと我に返ったように腰を下ろした。
「……いや、すまない。その…………欲しい。ものすごく」
ボソボソと答えた佐久間に、胡桃はホッと胸を撫で下ろす。
「よかった! じゃあ佐久間さんに喜んでもらえるように、頑張って作ります!」
「……ああ」
きっと彼にとってはバレンタインも、美味しいお菓子がたくさん食べられるイベントでしかないのだ。佐久間さんがスイーツバカでよかった、と胡桃は満面の笑みで彼のことを見つめていた。
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